「なんだか茶碗蒸しの具にでもなった気分だよ」

若だんながそうぼやき続けた、江戸の夏の猛暑がやんで一月ばかりがたった頃。
日本橋の大店、廻船問屋兼薬種問屋・長崎屋の薬種問屋で薬師として働く八千重は、離れにある長崎屋の跡取り息子の一太郎の部屋に居た。
夏バテで寝込んでいる一太郎はいつもながらの虚弱故に、普通のバテようとは違い、半端ではない。
今までは寝込んでも、薬湯ならば何とか喉を通ったものが、この度はそれすらも噎せ込んで飲み込めないとあって、湯冷ましと見紛う程薄い重湯を、胃の腑に流し込むばかりで弱る一方だ。
大事な大事な一人息子のその様子に、主人夫婦は顔色を青くして神仏に祈っている。
一太郎の兄や、その本性が妖である二人の手代と八千重は、何とか薬を飲み込ませようと、寝間で毎日苦闘し続けていた。
離れに集まってくる人成らざる者達も、最近は心配の色を濃くしている。
と言っても、彼等は元々が人と違う顔色なので、青味が増すと藍の二度染のようだ。

八千重は、温くなった手拭いを一太郎の額から外し、汲んできたばかりの井戸水を張った桶に浸してぎゅ、と絞る。
それを再度一太郎の額へ戻せば、一太郎の口から息を吐くようなか細い声が洩れた。
その様子に、八千重は眉を下げる。

「若だんな、これは見越の入道様からいただいた霊薬なんですよ。滅多に手に入らないものです。飲んでくださいまし」

佐助が一太郎に丸薬を見せようと、八千重に倣うように夜着の脇に並んでいた鳴家たちをぞんざいに払いのけた。
八千重はきゅわきゅわ転がった鳴家たちを助け起こす。
佐助が差し出す霊薬は、鬼灯の実よりも二回り程大きくて、痩せてしまった一太郎の口が開かない。

「これならどうです、若だんな。天狗が姥山の狢に与えたのを、特別に分けて貰った水薬です。飲めばきっと良くなりますよ」

それならば、ともう一人の手代仁吉が差し出したのは、湯飲みに入った飲み薬だった。
八千重は、一体いつ調達してきたのだろうか、と考えていたが、仁吉の持つ湯飲みが放つ強烈な刺激臭に慌てて止めた。
何をするんです、と咎める顔で仁吉に見据えられるが、八千重は止めた手を退かなかった。
本性を大妖とする二人の手代は、町暮らしも長いというのにどうにも人と感覚がずれている。
当人は、至高の物を差し出したつもりなのだろうが、顔を近付けただけで目に染み、涙がこぼれ出る薬を、どうして具合の悪い一太郎が飲めるだろうか。

「それは、例え若だんなが体調の良い時でも楽には飲めないと思います」

そう言えば、何故その様なことを言うのか訳が分からない、と仁吉は眉間に皺を寄せた。
だが、確かめるように虚ろな目の一太郎を見れば、絶対飲むものかとそっぽを向かれ、二人の手代の顔に焦りが覗く。

「若だんなじゃぁ私が。私に移せば、すぐに楽になるよ」

八千重には、病や怪我を他人から自分へ移す特殊な能力があった。
以前に一太郎に使い、それから二度と自分に使うのはやめてくれと言われた八千重だったが、あまりにも辛そうな一太郎の様子に堪らずそう告げた。
だがやはり、八千重を見ていた一太郎は小さく首を振る。

「若だんな…」

しゅん、と肩を落とす八千重を慰めるように、鳴家たちが八千重の膝を小さな手で撫でる。

「若だんな、お千重さんに頼まないのなら、尚のこと薬を飲んで下さいな。そうだ、治ったら芝居に行けるよう手配しますよ。市川団十郎が新作をやりますよ」
「良くなったら、染井に菊の花を見に行きませんか? そりゃぁ綺麗ですよ」

普段、外出は疲れるからも手代たちは揃っていい顔をしないのに、今日は遊べと大盤振る舞いだ。
これには八千重も鳴家たちも驚いて、目を瞬かせた。
だが、二人の意図する事に気付いた八千重はなんだか複雑だった。

(これが常なら喜んで薬を我慢して飲むだろうに、若だんなは少しも反応しない)

ご褒美で気を引こうという手代たちの手は効かなかった。
頑として口を開けない一太郎に、そんなに体調が悪いのだと切なくなる。

「若だんな…‥」
「駄目ですか。並みの事では気力が出て来ないという訳ですね」

佐助が達磨火鉢の脇で、妙にピシリと姿勢を立て直した。
そして徐に寝ている一太郎を覗き込むと、こう切り出した。

「この丸薬と、そっちの水薬の両方飲めたら、私が取って置きの話をして差しあげましょう。なに、仁吉の失恋話ですがね」
「おい、佐助!」

驚いた仁吉が気色ばんで止める声より早く、一太郎の顔が佐助の方を向いた。
同じように、八千重も目を丸くして佐助を見る。
八千重は、妙に騒ぎだした心の臓の鼓動を抑えるように手を宛てる。

「本当に……そんな事があったの?」

一太郎の、少々掠れた声が、離れの十畳の寝間に流れた。
その声に戸惑いがあるのは、眉目端麗な仁吉の袂には、切ないような思いの丈を込めた付文が途切れず入っているのを知っているからだろう。

「私は若だんなに嘘は言いませんよ」

佐助が面白そうな表情を浮かべて請け負う。
仁吉の口元から物騒な牙が見えた気がしたが、一太郎は腹を括って何とか起き上がる。
そんな一太郎にハッとして、八千重は一太郎の背に手を添え、起き上がるのを助けた。
額の手拭いはまた温くなっていたので桶へ浸ける。

「ありがとう、お千重ちゃん」

一太郎に礼を言われて、八千重は騒ぐ胸を隠して笑みを向ける。

「それならどうでも薬を飲み込んでみるよ」

覚悟と気力を奮い起こす一太郎に、八千重は複雑な心持ちだった。
二度飲む元気はないからと、黒く淀んだ水薬の中に丸薬を落とし、それを一息で口にした漢前な一太郎を見ながら、八千重は手代たちの様子を窺う。

「うええっ」

蛙の断末魔のような声が渡ったものの、薬は無事喉を下って吐き出される様子が無いことに佐助は表情を和らげる。
仁吉も、相方の喉笛を今にも噛み付かんばかりの形相で睨み付けていたが、少しばかり和らいだ。

(仁吉さんの失恋話…って、やっぱり八千重さんとの事、だよね)

視線に気付いたのか、仁吉と目が合う。
肩がビクリと揺れ、咄嗟に顔を背けた。
余程強烈だったであろう薬を飲んで涙目の一太郎は、さあ話しておくれとばかりに佐助の着物の裾を引く。
その興味津々の様子には、仁吉も苦笑を浮かべた。

「佐助に勝手に語られたんじゃぁ気恥ずかしくていけない。自分で白状しますよ」
「本当にお前さんが振られたの?」

純粋な一太郎の問いに、八千重の胸がきゅうと鳴く。
堪らずに立ち上がった。

「? お千重ちゃん?」
「どうしました?」

突然立ち上がった八千重に驚いて、目を丸くする一太郎と佐助。
今から話される事を知っている八千重は、自分の事でもないのに酷く狼狽え、仁吉の方を見る事が出来ずにゴクリと唾を飲む。

「私…‥私、桶の水を替えて来る」
「え! 替えてくれたばかりじゃぁないか、大丈夫だよ。お千重ちゃんだって、聞きたいだろう?」
「――で、でも…」

一太郎の言葉通り、興味があるのは勿論だった。
沢山の付文を風呂焚きの火に焼べてしまう仁吉は、まだ九尾の八千重を想っているのではと考えていた。
知りたいという気持ちはある。
だが、仁吉と九尾のあの日の別れを知っている。
約束を知っている。
八千重はまだ、九尾から頼まれた言葉を仁吉に伝えていない。
仁吉も佐助も一太郎も、八千重が知っていると知らない。
いつ言おう、いつ言おうかと機会を窺っては、言えずに胸に秘めている……その事実が、後ろめたい。
この場に居るのが、気まずかった。

「お千重ちゃん?」

視線を彷徨わせ、ギュウ、と胸を押さえる八千重の姿に、一太郎は不思議そうに首を傾げた。
佐助は、八千重の様子に怪訝そうに眉を寄せ、仁吉はジ、と見つめる。

「私、聞かない方が…」

言いながら彷徨う視線が、仁吉のものとかち合う。
その心中を射抜くような目に、逸らせなくなってしまった。

(ああ、これじゃぁ何か隠していますと言ってるようなものだ……)

聡い手代達や一太郎に、この態度はまずかった。
だが、今更どうしようもない。

八千重が、居た堪れずに部屋から出て行こうかと足を一歩踏み出した時、仁吉がふっと目を和らげた。

「お千重さん、居て下さい。私は貴女に聞いて欲しい」
「…え、」

流れるような動作で手を引かれ、自然に座らされてしまった。

「に、仁吉さん…っ」
「案ずることはありません。昔の事です――そう、ただの昔噺です」
「………………」

八千重は、どこか遠い目をして言った仁吉に、知らぬうちにこくりと頷いていた。
仁吉は、満足気に目を細めて、徐に湯飲みを手に取る。

「始まりは……そう、千年も前の事でしょうかね」

そうして懐かしむようにゆっくりと語り出した仁吉に、一太郎は自分は手代の年齢を分かっていなかったのだと思い知らされた。
八千重もまた、それは同じであった。