帰りたいと待ち望んでいた懐かしい我が家、されど住人が欠けてしまい、物寂しくなってしまった我が家。
一人ぼっちになってしまったことを痛感してしまう我が家。
九尾の狐である八千重に命を救われ、この世に生まれて、病弱だった母が亡くなり、それから医者である父と二人で日の国中を行脚して回り、漸く一つ所…江戸に落ち着く事になり、小さいながらも診療所を設けた。
短い間だったが、思い出が詰まっている我が家には、小さいながらも暖かい灯りが玄関から洩れていた。

「……お千重さん?」

家の前まで来て、立ち止まった八千重を手代達が不思議そうに見る。

「……………………」

八千重は、ぎゅっと手代達の手を握る手に力を込めると、大きく息を吸って足を前へ踏み出した。
佐助が戸を開ければ…

「「「「「おかえりー!!」」」」
「きゃぁああ!」

鳴家達の雪崩が…否、お出迎えが待っていた。

「おかえり!」
「おかえりお千重!」
「我ら待ちくたびれたぞ!」
「おかえりー!」
「お、お前達! お千重さんから離れな!」

八千重に小さな手でぎゅうぎゅうと抱き着きながら、鳴家達が口々におかえりと言う。
そんな彼らを手代達が青筋立てて引き剥がしてかかる。

「―――佐助さん、仁吉さん、良いんです」
「「え?」」

それをやんわり制して、八千重は鳴家を抱き締める。

「ただいま、皆。待たせてごめんね………ありがとう」

優しい声で言い、ふんわり笑う八千重に、鳴家達は嬉しそうにきゅいきゅいきゅわきゅわ笑う。

「お千重笑った!」
「もう痛くないのか?」
「苦しくないのか?」
「泣かないのか?」
「!」

嬉しそうに問う鳴家達の優しさに、八千重はポロリと涙を落とした。

「あ。泣いた…」
「――お前が悪い」
「お前が悪い」
「わ、我が悪い?」
「「お前…!」」

最後に、泣かないのかと問うた鳴家に、鳴家達が非難の声をあげ、さらに自分が悪いのかと鳴家が慌て出す。
さらには手代達までが顔を歪めて鳴家を見る。

「違うよ、悪くない。嬉しくて…」

八千重は首を振り、慌てる鳴家の頭を撫でる。

「ありがとう。もう、大丈夫だから、安心して」
「本当か?」
「本当?」
「本当に?」
「うん、本当」

八千重を窺うように見つめる沢山の視線を受け、八千重は涙を指先で拭うとコクリと頷いてみせた。

「今の悲鳴、何かあったのかい? お千重ちゃんは無事かい?」

その時、先程の八千重の悲鳴を聞いたらしい一太郎が顔を出す。

「―――なんだ、また鳴家達か」

そして、鳴家達を抱き締め、さらには鳴家達に抱き着かれている八千重の姿に、現状を察して、息を吐いた。

「―――あ…「若だんな、今、走りましたね?」…」
「病み上がりなのに走りましたね?」

八千重と若だんなの視線がぶつかり、どちらからともなく洩れた声を掻き消すように、手代達が一太郎の眼前に迫った。

「あれほど、あれほど! 安静にしてお待ちくださいと申したにも関わらず、貴方というお方は!」
「ま、待っておくれよ。今のは仕方ないというか、不可抗力というか…」
「何を仰います。ご自分のお身体の事は、良くわかっていらっしゃるでしょう!」
「ただでさえ火事の外出でしこたまお叱りを受け、暫くの謹慎処分となったにも関わらず、お千重さんの所ならばと、渋々渋々ご了承頂いたというのに、また倒れたりなんてしたら、半年…いえ一年は、外出は愚か離れの縁側にすら出る事を許して貰えませんよ!」
「え、そんなに!?」

手代達の言葉に驚いて口を開いたのは八千重だった。

「………おとっつぁんとおっかさんならやりかねないね」

一太郎は苦笑いで答えた。
思えば、一太郎の姿も顔も声も、久し振りだ。
ここ数日、自分の事ばかり、目まぐるしく日々が過ぎ、一太郎の事を気にかける事がなかった。
余裕がなかった。
病弱な身体で墨壺と戦い、見事退治し、挙げ句倒れてしまった一太郎とて大変だったろうに、彼はそんな中でも八千重を気遣い、お世話になった身で、挨拶もせずに出ていった八千重の身を案じ、無理を押して訪ねてまで来てくれた。

「……………あ…」

八千重は、己が恥ずかしくなった。
そして、申し訳ない気持ちが胸を締め付け、それから、一太郎に対する感謝の思いが溢れる。

「え、お千重ちゃん?」
「――若だんな…ごめ………ごめんなさい……」

ポロポロと溢れ落ちる熱に、一太郎が困惑した気配を感じるが、八千重の視界は涙で歪んで良く見えない。

「な、なんでお千重ちゃんが謝るんだい? 勝手に訪ねて来て、家に居座ってたのは私なのに…」
「ううん、若だんなは全然悪くない」

ぶんぶんと首を振る八千重に合わせて、ポタポタと床を涙が濡らす。

「ごめんなさい、若だんな…私、周りが見えてなかった。おとっつぁんが居なくなった寂しさや哀しみで、視界が狭まってた」
「お千重ちゃん…」
「おとっつぁんが居なくなって、私は一人ぼっちになってしまったんだと勝手に勘違いして……私には、若だんなや、仁吉さんや佐助さん達が居てくれていたのに」
「…うん」
「こんなに温かい人達が回りに居てくれていたのに、気付いてなかった」
「…うん」
「だから、ごめんなさい。ごめんなさい」
「……うん、いいんだよ。本当は少し、少しだけ腹が立っていたんだけど…もういいんだ」
「若だんな…」

そっと肩に置かれた一太郎の手が温かくて、八千重の目頭がまた熱くなる。

「おかえりお千重ちゃん」
「〜〜っ、た、ただいま…」

またポロポロと溢れる涙を落としながら、八千重は笑った。

それから、ここでは身体を冷やしますので、と手代達が口々に言い、中へと押し込められた。
佐助は湯を沸かしにかかり、仁吉は一太郎に掻い巻きを着せる。
八千重は家人でありながら接待を手代達に任せ、一太郎と火鉢を囲んで鳴家達と戯れながら先程の左京との話を話した。

「調剤が出来ないお医者様も居るんだねえ」

話を聞いた一太郎は、八千重と同じように驚いたらしく、どこか感心したように声を洩らす。
八千重は自分と一太郎との反応が同じで、ほっとしつつも眉を下げる。

「若だんなはどう思う?」
「ん〜…うん。私は左京先生にお会いしたことがないから人柄とか診療所の雰囲気だとかは良くわからないけれど、話としては良い話だと思うよ」

一太郎が頷いてそう言えば、八千重はパッと表情を明るくさせる。
だが、

「―――そうでしょうか」
「え?」

涼やかな声が異を唱えた。
八千重と一太郎の視線を受け、手代はチロリとそれに返して見せるが、次いで口を開く様子はない。

「…仁吉、どういう事だい?」
「――あの左京という医者、ただの藪医者なのではないかと」
「藪って……そんな事はないと思うけれど」

あの診療所で寝かされていた開次の処置は、最善だったように思える。
加えて、火事の影響で診療所は慌ただしく、猫の手も借りたい程の忙しさだった筈だ。
処置をしても助からないであろう者は、後回しにされるだろう状況の中、開次はきちんと処置をされていた。
それは、左京の確かな腕と心根が関わっているのだろうと八千重は考えていた。

「そうではないにしろ、何かしらの魂胆があっての言動に思えます」

涼やかというよりも、冷めた目で仁吉は言う。

「魂胆って…」

八千重は仁吉の言葉に目を瞬かせる。
一太郎も同じで、仁吉の真意を見定めるように仁吉を見つめる。

「第一、あの医者の診療所までここから毎日通うとなれば、朝は早くから帰りは遅くまでとなります。お千重さんは嫁入り前の女子…剣呑です。薬師として働くのであれば、長崎屋でも良いのではありませんか?」
「「え、長崎屋で?」」

八千重と一太郎の声が重なる。

「以前に長崎屋で、薬種だけではなく、薬も買え、更に診察も出来れば、店の売上も上がり、客層も増えるのではないかといったお話を旦那様が開次先生に持ちかけていたのです」
「へえ、それは知らなかった」
「開次先生には、自分の診療所で手がいっぱいなのだとお断りを受けたそうですが、今のお千重さんに合ったお話ではないかと思います」

淡々と話す仁吉に、一太郎は頷く。

「………うん、確かにそうだね。私もそう思うよ。ねえ、お千重ちゃん」
「うん、私も興味深いお話だと思う。けれど、一度おとっつぁんが断っているし、藤兵衛さんも、もうその気はないかもしれない。それに、私は医者ではないから診察は出来ないし…」

八千重が一太郎に言うと、一太郎は思案気に手を顎にあて、寸の間考えを巡らせた後、口を開いた。

「明日、長崎屋においでよ。直接聞いてみよう」
「―だけど…」

私が尋ねれば、優しい長崎屋主人夫婦はその気がなくても、頷いてしまうのではないかという言葉を口にするのを躊躇い、口を噤む。
一太郎は、そんな八千重の心情を察してか、微笑んだ。

「私が言うのも難だけどね、あの二人はお千重ちゃんに頼って欲しいんだよ。逆に、遠慮された方が寂しいんだと思うよ」
「寂しい?」