どうやって、その診療所に辿り着いたのか覚えていない。
ただ、通された部屋に一つだけ蒲団があって、そこに寝かされた人が真っ白で、誰か分からなかった。
浅く早い呼吸音。
ヒューヒューという掠れたそれは、とても弱々しい。
見知った薬の匂いに混じり、髪の焦げた匂いと肉が焼けた匂い、さらに近付く死の足音が聞こえる気がして、八千重は顔を歪める。

違う、と八千重は思った。

(おとっつぁんじゃ、ない)

ここにいるのは、断じて自分の父ではない。
八千重は、部屋に入ったまま動けずに居た。
ただ、目に入る情報を全て否定する。

(あんな人、知らない)

目を閉ざして、耳を塞いで、逃げ出したい心境だったが、足が動かない。
相変わらずの弱々しい呼吸音を聞きながら、八千重は一人立ち尽くす。

「うぅ……八千重…小夜……」

蒲団に寝かされた人が呻く。
その声に、自分の名を呼ぶ声に八千重は目の前がみるみるうちに霞んで見えなくなった。

「…八千重……八千重…」

苦し気に助けを求めるかのように呻く声に、いつものような元気はなかった。
朗らかに笑って名を呼ぶ父…開次の姿が目に浮かび、八千重はポタポタと畳を涙で濡らす。

「………八千重、どこ…だ……八千重………」

八千重を求めて伸ばされた手が、宙をかく。
八千重は気付けばその手を掴み、枕元に座り込んでいた。

「…と…つぁん…、おとっつぁん…、私はここにいるよ」
「八千重……か?」
「おとっつぁん」

ボタボタ落ちる涙は止まらず、八千重はそのままに開次の手を両手で握る。
こんな時ばかりは、医者の娘に生まれた事を悔やみたくなった。
傍に来て、開次の容態を見た八千重は、零れそうな嗚咽を隠そうと唇を噛む。
全身を包帯で巻かれ、顔も…呼吸に必要最低限な部分以外全て白に覆われている。
覆われている場所全てが火傷…しかも重度の…だとその様子で察する事が出来てしまった。
こうまで広範囲に渡る火傷では、まず助からない。

「八千重、お前は……無事か?」
「…うん」
「…わ…かだんな………は? ちゃんと、見つけ…た、か……?」
「……うん。皆無事だよ。下手人も…事件も解決したから……だから、また…また、おとっつぁんと二人で、家で暮らせるよ」
「…そ…うか……」

暮らせる訳ないと分かっていつつも、八千重はそう口にした。
それは、八千重の願いでもあったからだ。
開次は、呼吸も絶え絶えな中で、笑う。

「お前は…本…とうに、優しい……良い子にな…たな。お小、夜に…叱られずに済みそ……だ…」
「な、なに言ってんの? …おっかさんに怒られるよ。まだ来るのは早いって」

手が…体が震えそうになって、慌てて抑えようとするがうまくいかない。
見えなくても、手を握られている開次には伝わっただろう。
八千重は悔しそうに歯噛みする。
だが、開次の呼吸はか細く…声も小さくなっていく。

「そ…れに…それに、私は? 私……を、一人にしないでよ…おとっつぁん!」

手に縋り付く様に、八千重は開次の手を額に付け、もう堪えきれずに嗚咽を溢す。
死の足音が近付いて来る。

(やめて。連れていかないで。この人は駄目ッ)

ヒタヒタという身の毛がよだちそうな足音は止まってくれない。

「…ごめ…な…、八千重……駄目な…父で…。お前は…賢…くて、優しい……こ、ころの暖か…な子だ。笑っ…ていなさい……笑って、生きな…さい……」

開次の呼吸が乱れる。
八千重は弾かれた様に顔を上げた。

「わた…達……はい……つも、………お…え………の……ろの……に………」

声が掠れて小さくなり…やがて、優しい声が止んだ。
スルリ、と八千重の手から開次の手が力なく滑り落ちた。

「…おとっつぁん………?」

恐る恐ると呼ぶが、返事はない。
弱々しい呼吸音も、もう聞こえない。

「おとっつぁん!」

体を揺するが、反応がない。

「嘘…嫌だ! 嫌よ! 目を開けて、返事をして! 私を呼んでよ! ねえ!」

おとっつぁん!!、と泣き叫べば、その声を聞き付けた診療所の医者が駆けつけ、取り乱す八千重を開次から引き剥がす。

「落ち着け! 娘!」

暴れる八千重を医者は、部屋の外まで引き摺り出し、その頬を平手で打つ。
乾いた音が響いた。
八千重の動きが止まる。

「お前は医者の娘だろう。幾度となく『死』を目にし、受けとめてきた筈だ。父の死とて、受けとめなさい」
「……………………」

八千重は打たれた頬を押さえる。
痛かった。
とても、とても痛かった。

「あんたの父は…開次殿は素晴らしい医者だった。外傷だけではなく、心傷…心の傷までをも癒せる医者はそうそう居ない」
「―――そう、馬鹿な人です……自分の価値も分からず、火事場に飛び込むから、い、命を、落とす」

八千重は呟くように言う。

「―――開次殿は、火事場に残された乳飲み子を助け、全身に火傷を負った。最期まで医者としてあったあの人を、同じ医者として誇りに思う」
「…ありがとう……ございます」
「きっと、あんたと重なったのだろうよ。あんたに似た美人だった」
「……………………」

目付きと口の悪い医者だったが、笑うと目元に皺が出来、優しげだった。
その笑んだ顔が、開次と重なって、また涙が零れた。
もう、あの笑顔には会えない。





翌日、開次の式は、しめやかに執り行われた。
通夜には、多数の人が訪れ、その死を嘆き、旅立った開次に別れを告げた。
一太郎は無理がたたったせいか、寝込んでいる。
佐助が例の如く付きっきりで看病をしているので大丈夫だろう。
藤兵衛とおたえに手助けしてもらいながらも、八千重は喪主を勤めあげた。
参列者の中には、一人残された八千重に、「頼る所がないのならうちにおいで」と言う者が幾人かいたが、八千重はそれらを全て断った。
八千重は涙を見せなかった。



「本当に出ていくのかい?」
「うちに居ておくれな。一太郎や手代達だけじゃなく、うちの者は皆お千重ちゃんを気に入ってるんだよ」

荷物をまとめ、三つ指付いて頭を下げた八千重に長崎屋主人夫婦は眉を下げる。

「いいえ、長崎屋の皆さんにはもう十分良くして下さりました。これ以上はご迷惑です」
「そんな、迷惑だなんてこれっぽっちも思っちゃいないよ、お千重ちゃん」
「おたえの言う通りだ。もう暫く気持ちが落ち着くまででも居ればいい。第一、一人でどうやって生活していくんだい?」
「…まだ、決めていません」
「だったら、決まるまででもうちに居たらいいわ! いっその事、一太郎に嫁「おたえ」……で、でも、お前さんだって、お千重ちゃんみたいな娘が嫁に来てくれたらいいなって前にこぼしていたじゃぁありませんか」
「それは勿論そうだが、お千重さんの気持ちもある。第一、今はそんな事考えられないだろう」
「……………」
「―――お世話になりました。このご恩はいずれ必ず…」

八千重は深く頭を下げると、部屋を後にした。
長崎屋夫婦は八千重の有無を言わせぬ表情に何も言えず、引き留められなかった。
手代達はまだ寝込んでいる一太郎に付きっきりであり、八千重は無作法だと思いながらも挨拶せずに長崎屋を出た。
長崎屋を出た八千重は、まっすぐに家に帰ろうかと思ったが、思い出ばかりがある家に一人ぼっちで居ることを考えると、家とは逆方向へと足を向けた。
ブラブラと、当て処なく彷徨う。
寺では、此度の火事で家や家族をなくした者の為の炊き出しが行われており、皆が助け合って生活している様が窺える。
町では、大工や鳶が忙しく働き、指示する棟梁の声が響く。
町は、生への活気に満ちていた。
八千重はどこか取り残されたような気分で、そんな町を他人事のように見て歩く。
そうして行き着いた橋の上から、川を流れる水面を見つめ物思いに耽る。

別に、絶望しているわけでも、何故自分だけがという勘違いをしているわけでもない。
ただ、八千重にとって、開次という人物は大きすぎた。
胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感。
一人になる事を考えていなかったわけではない。
たった二人だけの親子。
いつかは先に生まれた親が別の世界へ旅立つだろうことはわかっていた。
だが、それはいつかのことであって、遠い未来のことだと思っていた。
こんな早くに、誰かの元へ嫁ぐ前に、その日が訪れるとは予想だにしていなかった。

これからどうやって生きていくのか…八千重はそれを考えていた。
勿論、一番最初に考えたのは長崎屋に置いて貰い、そこで女中として働かせてもらうこと。
八千重がそんなことを言い出せば、長崎屋夫婦は甘受してくれるだろうことは目に浮かぶ。
だが、それはあまりにも甘え過ぎている。
他人に迷惑をかけず、自力で生きていかなければ……開次が、小夜が、安心して天から見ていられるように……八千重は、橋の手すりに置いた手に力を込める。