「人が殺められていた?」

時代は江戸。
場所も同じくして江戸。
通三丁目の小さな一軒家に半年程前に父と移り住んだ八千重は、剣呑な話に顔を顰める。

「今朝方、湯島聖堂の近くで人が死んでいるのを近所に住まうご隠居さんが見付けてね。主人は慌てて駆けて行ったよ」

そう話すのは、この近辺の岡っ引をしている清七のおかみのさき。
さきは先の年に高熱を出して以来、寝たり起きたりで、医者である八千重の父、開次が時々呼ばれて診察している。
今日は薬を届けに八千重が訪ねていた。

「どうやら首が落とされていたらしくてね、物騒な話だよ」

清七は、通町界隈を縄張りにしており、日限地蔵の近くに住んでいることから『日限の親分』と呼ばれている。
近所だということもあり、八千重も親分とは何度か話したことがある。
話した感じ、八千重には腕っ節は強そうだが、あまり頭の方はきれる優秀な岡っ引だとは思えなかった。
だが、謎かけみたいな珍事件を何故かうまいこと解決する。
どこかに親分を助けている者がいるに違いない。
八千重はそれが誰かはわからないが、この事件の下手人も早く捕まえてくれればいいのに…と思った。

「では、私はそろそろ帰ります。おとっつぁんの代わりに薬の材料を買いに行かなければならないの。薬、いつものようにしてちゃんと飲んでくださいね」
「ありがとう、お千重ちゃん。これ、良かったら食べてちょうだい。主人がお店からいただいて来たもので悪いのだけど…」
「いつもありがとうございます。おとっつぁんと食べますね」

八千重はニッコリと笑って袋に包まれた饅頭を受け取ると、頭を下げて親分宅から出た。

「あら、お千重ちゃんじゃないか。この前の薬、亭主が良く効くと喜んでたよ。また頼むよ」
「こんにちは、それは何よりです。では、はやい内に調合してお届けしますね」
「おう、お千重ちゃん! うちのかみさんのも頼むよ」
「わかりました」

そのまま開次に頼まれた使いを果たそうと歩いていると顔見知りから声をかけられる。
八千重は返事を返しながら、請けた薬を確認して歩む。
程なくして目当てのお店に着いた。
江戸でも有数の繁華の通りとして知られている通町に廻船問屋兼薬種問屋を商う大店、長崎屋。
桟瓦の屋根に漆喰の壁、土蔵作りの二階建ての長崎屋は、十間も間口があり、大店の名に恥じぬ立派な佇まいの店である。
八千重は薬種問屋の暖簾をくぐった。

「いらっしゃいませ」

途端に八千重に気付いた小僧の一人が声をあげる。
小僧の隣には薬缶がかかっていた。

(白冬湯かな?)

長崎屋の白冬湯は良く効くという評判を聞いたことがある。
そんなことを考えていると、不意に名を呼ばれた。

「お千重さんじゃないか」
「! これは……源信先生!」

振り返った八千重は、名を呼んだ人を確認して顔を綻ばせた。
源信は八千重の父、開次の兄弟子にあたるお人で、腕の良い医者だ。
八千重も、幼い頃から見知った人であり、江戸に越してきてから父共々に気にかけてもらっている。
八千重は源信に歩みより、頭を下げる。

「元気そうだね。どうだい、仕事の方は?」
「はい、お蔭さまで。順調です」
「そうか。開次は少々要領が悪いが腕は確かな良い医者だ。この先もしっかり者のお千重さんがいればうまいこと行くだろう」

頷く源信に、八千重は微笑む。
八千重の笑顔に、源信の後ろに控えていた供の顔が赤くなった。

「源信先生」

控え目に声がかけられ、八千重が声のした方をみやれば、白い細面の縞の着物を着た柔和な顔立ちの年の頃は十六、七の青年が歩みよる。
源信はさっと手を伸ばし、有無を言わさず青年の口を開かせ、喉の腫れがないかを診た。
八千重が呆気にとられていると、青年は慌てて身を引き、膨れっ面を見せる。

「先生、風邪なんか引いちゃぁいませんよ」
「今日は大事ないようだ」

八千重はそこで、この人が誰かわかった気がした。
八千重は誰かから、長崎屋の一人息子の一太郎は、大層体が弱いと聞いたことがある。
そして、源信先生が掛かりつけの医者だとも…。

「もしかして、長崎屋の若だんなでいらっしゃいますか?」

口を開いた八千重に、男の視線が八千重に移る。
目が合った時、八千重は妙な感覚に襲われた。

(な……に…?)

「はい。一太郎と言います。…貴女は、源信先生のお知り合いの方ですか?」

ふんわりと笑む若だんな、一太郎に怪しまれまいと、八千重は妙に騒ぐ胸を隠し、丁寧に一礼する。

「私は源信先生の弟弟子の一人娘、八千重にございます。長崎屋さんには平素より父が大変お世話になっております」

顔を上げ微笑むと、一太郎の顔が仄かに赤くなる。

「弟弟子…では、開次先生の」
「はい」

八千重は頷く…と視線を感じて辺りを見やると、薬を袋に詰めている手代と目が合った。

「…っ」
「………あ…れ?」

八千重の顔を見るや息を呑み、目を丸くさせた手代は涼やかな目の大層な色男であった。
八千重はまた奇妙な感覚に襲われた。
懐かしいような、切ないような、寂しいような…不思議な感情が突然胸に生まれたのだ。
一太郎は八千重の様子に気付かず、手代の様子に内心で首を傾げていた。

「……お待たせ致しました、源信先生」

ス、と八千重から視線を剥がし、源信に向き直れば、源信の供が薬の入った袋を受けとった。

「ではまたな、お千重さん。開次によろしく伝えておくれ」
「はい」

ポンと八千重の肩を叩き、源信は供と帰って行った。

「それでは、ご注文を承ります」
「あ、はい」

涼やかな目元を緩め、穏やかに微笑む手代に、八千重は欲しい品を口答で述べていく。

「畏まりました。少々お待ち下さい」
「………お願いします」

八千重はそう手代に返してから、一太郎に視線を戻す。
その視線が、サッと一太郎の袖を見たのに一太郎は気付いていた。
八千重は一太郎と話していた最中もちらほらと一太郎の袖を見ている。

(この人、鳴家が見えてる?)

長崎屋の若だんな一太郎の袖には、今二匹の鳴家いう妖…人ならざる者が入っていた。
一太郎はその生い立ち故に妖を見る事ができ、また妖は、体が弱く寝付いてばかりいる一太郎の友でもあった。

「……あの、八千重…ちゃん」
「若だんな、どうかお千重とお呼びください。皆、そう呼んでくださります故慣れていないのです」

照れたように…くすぐったそうにそう言う八千重に一太郎は頷く。

「それで、お話とは?」
「…いえ…、何でもありませんよ」

一太郎は首を振った。
すると、そこへタイミング良く手代が袋を差し出す。

「お待たせ致しました」
「ありがとうございます。では、若だんなまたお会いしましょう」
「はい」

にっこり微笑み会釈をした八千重を、一太郎はやや紅潮した顔に笑みを浮かべて見送った。

「噂どおりの綺麗な子だったね、仁吉」
「………………」

ほぅ、と息を吐いた一太郎は兄やでもある手代の仁吉に言うが、どうしたわけか返事がない。
不思議そうに一太郎が見やれば、仁吉が八千重が出て行った際に揺れた暖簾をどこか遠くを見つめているような目で見ていた。
一太郎の声は聞こえてないようだ。

(おや…。これは、珍しい)

両の親の様に、二人の兄や達も一太郎に甘い。
いや、兄や達は、一に一太郎が大事で、ニから先はないような物の考え方をしているのだ。
どこか感覚がズレているのは、二人の兄やは実は人ではないからだ。
仁吉はその本性を白沢、もう一人の兄やの佐助は犬神という妖である。
仁吉は切れ長の目に整った顔立ちをしていて、呉服屋の店先にでも置いておけば、反物の売上も上がろうという色男。
得意先を回れば、帰りにはその袂に付け文を賑わせるのを一太郎は知っている。
だがその付け文を目も通さずに風呂焚き代わりにしているのも知っている。
そんな仁吉が一太郎の声も届かぬ程に女性の消えた先を見つめている。
どこか物憂げな表情に、一太郎は暫し躊躇したが控えめに再度声をかけた。

「仁吉や、聞いているかい?」
「勿論聞いておりますよ。若だんなの仰る通り綺麗な方でした」

仁吉はハッとした様な顔をすぐにさっと隠し、取り繕うように笑みを浮かべる。

「お千重ちゃんが気になるのかい?」
「…いいえ。私よりも、若だんなの方が気になっているのではありませんか?」

仁吉は一太郎の問いにさらりと答え、逆に問い返す。

「私? うーん…気になるというか、不思議だけど懐かしい感じがしたよ」
「懐かしい?」
「きっと気のせいだと思うけどね」

一太郎は傾げていた首を直し、きょろきょろと辺りを見回すと何か仕事はないかと探し始めた。
何かと仕事をしようとする一太郎の行動を、疲れるからと言って阻止しながら、仁吉は先程の少女の事を思い返していた。

(同じ顔、同じ名前…だけど彼女は、間違いなく人だった。『あの方』ではない)

仁吉は白冬湯の入った薬缶の側から一太郎を引きはがしながら、気付かれないように息を吐いた。