後悔先に立たず。
八千重の心境は正にそんな感じだった。
長崎屋に知らせを届けたのは下っぴきの正吾で、三春屋の跡取りが筋違い橋御門の辺りで襲われたと店表に来て告げて行ったと仁吉が話して聞かせた。

「傷は重いのかい? 栄吉は……生きているんだろうね」
「医者にはかかったんでしょうか?」

手代に聞くと、手近な医者に運ばれたものの、容体のことは分からないという。
ただ、大層血が出ていて、着物が赤く濡れていたのを正吾が見たそうだ。

「栄吉、死ぬの……?」

一太郎は、自分ならともかく、幼馴染みの方が先立つなど考えてみたこともなかった。
じわじわと頭の中に染み込んでくる現実に、一太郎の顔が蒼くなっている。
そんな一太郎を心配して、手代が蒲団を敷こうかと言うがそれに首を振ると、一太郎は「店に行くよ」と、離れを走り出た。
八千重もすぐにその背を追う。

「栄吉さんの所に行くのは駄目ですよ。下手人は逃げているようです。外へ出るのは危ない。勿論、お千重さんも駄目です」
「行きゃしないよ。手当ての邪魔になるだけだ」

一太郎の返答を聞きながら、胸の前で手をギュッと握りしめながら走っていた八千重は唇を噛む。

(私はなんて無力なんだろう…っ)

一太郎が母屋に入ると、真っ直ぐに廻船問屋の方へ向かう。
八千重も続こうとしたが、そこで小僧頭を見付けた。

「あ、貴方っ、お願いがあるの!」
「は、はい?」

突然話し掛けられて、小僧頭は驚いている。

「今すぐ私の家に…おとっつぁんに、栄吉さんを診てくれるように言いに行って貰いたいの!」
「開次先生に、ですか?」
「お願いっ。私は今外に出られないから―――…お願いします」

八千重はそう言って頭を下げた。

「よ、止してください! 勿論行かせて貰いますよ、安心してください」

慌てた小僧頭はそう言って店表に向かって走った。

「ありがとう!」

小僧頭の背に礼を述べ、八千重は祈る。

(お願い、お願い、お願い! おとっつぁん、栄吉さんを助けて!!)

用を済ませた一太郎に声をかけられるまで、八千重はずっと祈っていた。

「え、じゃあ若だんなも源信先生を呼んでくれるように藤兵衛さんに頼んだの?」
「うん。――え、『も』ってことは、お千重ちゃんももしかして……」
「うん。最初は栄吉さんの怪我を私に移そうかと考えたんだけど、仁吉さん達が外に出るのを許してくれるわけないし…おとっつぁんに診てくれるように小僧頭君に使いをお願いしたの」

離れの一太郎の部屋に戻ってきた二人は各々驚いていた。

「考える事は同じみたいだね」
「それはそうだよ。藪に診せたんじゃぁ栄吉さんが死んでしまうかもしれない」

同じ事を考えていた一太郎は、頷いた。
そんなこんなで二人の優秀な医者に診て貰えた栄吉は、そのおかげなのか運が良かったのか助かった。
何日も経たない内に、戸板に乗せられて家に帰ることすらできたのだ。
三春屋に栄吉が戻ると、若だんなが見舞いに行くと言い出してきかない。
その上、一太郎が行くなら自分も行きたい、と八千重も言い出してきかない。
どうにも止められなくて、結局、折れたのは手代達の方だった。
手代達を連れての用心しながらの訪問となり、一太郎と八千重にとっては久しぶりの外出になった。

「まったく私が栄吉の見舞いに来る日があるなんて、思いもしなかったよ」
「具合は大丈夫?」

三春屋一階の奥の間に栄吉は寝かされていた。
脇腹をかなり深く切り付けられて傷は深かったが、幸運なことに臓腑は無事だった。
食べるに困らないので、一太郎は船で各地から運ばれてきた珍かな名物を届けた。
今日持参したのは、大阪津の清の岩おこしだ。

「見舞いの品にするには、ちと固すぎる菓子かなとは思ったんだけど」

栄吉が無理なら、家族で食べて下さいと言って差し出された梅鉢柄の箱を、栄吉は床の脇に引き寄せて、せっせと甘味にかじりついている。
米を蜜で固めた菓子は、名が通っているだけあってさすがに美味だった。

「私からは、これ…お守り、なんだけど……今更とか言わないでね」

八千重はおたえから綺麗な端切れを貰い、それで小さな巾着を作った。
中には、栄吉の傷の回復と安全を願った言葉を書いて入れてある。

「そんな…言わないよ! ありがとう…」

栄吉は八千重からお守りを受け取ると、嬉しそうに仄かに頬を染めた。
一太郎は、そんな二人を見ていて胸の中がモヤモヤと気持ち悪くなった。

「医者のことといい、見舞いの品といい、二人には本当に良くしてもらって……」

小さなおこしを噛み砕いた栄吉が、寝床でしみじみとした口を聞く。
一太郎と八千重は揃って視線を畳に落とす。

「だって……栄吉が襲われたのは、私のせいだもの」

一太郎の言葉に、三春屋までついてきていた手代達が驚いた顔を向けてくる。
当の病人までびっくりした顔で一太郎をまじまじと見る事になった。
ただ八千重だけがふるふると首を振る。

「違うよ、若だんな。栄吉さんが襲われたのは、私のせいでもあるの」
「えぇ?」

またまた三人は驚き、今度は一太郎までもが驚いて隣に座っている八千重の顔を見た。

「俺に切りつけたのは、白髪頭のお武家だったけどねぇ。二人とも、いつから二本差しになったんだい?」

笑って言われても、一太郎と八千重に笑顔はない。
一太郎はちらりと手代達に目をやってから、栄吉に頭を下げた。

「……私がお前さんに用を頼まなきゃ、筋違橋御門なぞには近寄らなかっただろう?」
「若だんなだけのせいじゃない。私があの時ちゃんと栄吉さんを止めていれば…あの日じゃなくて別の日にするように止められていれば…。嫌な予感がしていたのに……」
「ちょっと待って下さい。筋違橋御門って……若だんな、あれだけ叱られたのに、また松之助さんと会おうとでもしていたんですか」

泣き出しそうな八千重を制し、佐助と仁吉の顔が厳しくなる。

「金をいくらか届けてもらうよう、頼んだんだよ。なんでも松之助さん、店のお嬢さんに惚れられてしまって、困っているみたいで…奉公先を出されそうだと言うんだ」
「だからって、なんで若だんなが金を出さなきゃぁならないんです?」

仁吉の言葉がきつい。
そこに栄吉の声が割って入った。

「仁吉さん、そう言わないでおくれなさいよ。じつは一太郎から預かった金のおかげで生き延びたんだ」
「どういうこと?」

四人の目が、寝ている病人に集まる。
栄吉は腹のところに手をやった。

「もうすぐ昌平橋が見えるっていう辺りで、いきなり小刀を抜いたお武家に刺されたんだ。腹のど真ん中を切り付けられたんだけどね、懐に金の包みを入れていた。一朱銀、二朱銀合わせて三十枚もあったかね。そいつで刃先が滑って、脇腹を切られただけですんだんだよ」

その金は、栄吉への見舞金になっていた。
なんにせよ、金子で栄吉の命が助かったのなら、有り難い話であった。

「お千重ちゃんも、俺は死んだわけでもないし、そんなに気にしないでおくれよ」
「……うん」

栄吉は、八千重が頷くと満足したように笑った。

「…そういえば、俺を切り付けたお武家は何か変だったよ」

もう大分具合も良くなってきたのだろう、栄吉の喋りは続く。

「そりゃぁ昼間から人を切ろうとする輩は、まともじゃぁありませんよ」
「正気かどうかは別として、妙な塩梅だった。第一、なんで大刀の方を抜かなかったんだろう」
「それはそうだね」
「確かに…」

一太郎も八千重も首を傾げる。
侍が人に切り付けるのに、小刀の方を抜くのは何とも腑に落ちない話だ。

「そいつはいきなり近付いて来て、『香りがする、する、お前持っているだろう』と言ってきたんだ。訳が分からないだろう?」
「は?」
「え?」
「金に困って懐の紙入れを狙っているのかと思った。それで自分のものは出したのに、切り付けてきたんだ。これを聞いた日限の親分も、頭を抱えてたよ。それでなくとも相手がお武家では、親分さんが関われることじゃぁないけどね」
「あ……ああ」
「そ、そうだね」

寝ている栄吉に見られないように気を配りながら、四人が目配せをする。
栄吉を襲ったのは“成りそこない”に違いなかった。
今度は武士に取り憑いたらしい。

(でも、薬種屋でもない栄吉さんを何故襲ったんだろう?)

一太郎も同じことを考えていたのだろう、一太郎が幼馴染みに問う。

「栄吉、切られた日のことだけど、印籠を持っていたかい? 香りのするものはどう?」

だが聞かれた栄吉は枕の上で首を振る。

「親分さんにも聞かれたけれど、そんなもの平素は持っていないよ。ああ、いけない」

何か思い出したらしく、栄吉が顔を顰める。

「一太郎が書いたあの書き付け、そのお武家にとられてしまったんだよ。ごめんよ」
「書き付け?」

言われなければ忘れていたような紙一枚。
長崎屋の名と、東屋の松之助の名が書かれていたと知らない手代達に説明する。

「どうしてそんなものを?」
「拾ったって、紙屑屋にしか売れやしない」

八千重と一太郎が訳がわからないと顔を顰める。

「切られた時、金子と一緒に懐から落ちたんだ。侍はもう一回振り上げていた刀を下ろして、金には目もくれずに紙を拾うとそのままどこぞへ行ってしまった。変だなとは思ったけれど、ホッとするのが先だったのさ。それで今まであの紙のことなど忘れていた」
「何も覚えていなくともいいさ。養生して早く良くなることだよ」