柳屋の若主人は、次々と薬種屋が襲われている奇妙な事件を知っていた。
なので、外出の時は必ず二人以上で出かけ、駕籠を使っていた。
用心深いと言える振舞いで、襲われることはないはずだった。
ところが、若主人は店の中で切り付けられたのだ。
下手人は長年出入りしてきた植木職人。
前の三件と同じように、何故刃物を振り回したのか、周りの者にはとんと分からないような、実直な働き盛りの人物だった。
長崎屋は仕事で縁があった為、藤兵衛は柳屋の通夜に出席したが、やはりというか同業の薬種屋の姿は少なかった。
勿論、一太郎は家に留め置かれた。
奇妙な事件がこれで四件になった。
八千重と一太郎は顔を見合わせる。
一太郎の手には、一枚の瓦版があった。

「瓦版まで出てるってことは、やっぱり奇妙な事件だと皆思ってるって事だよね」
「薬種屋の件かい? そりゃぁそうだよ」

栄吉が何を言っているんだと驚いたように言う。

「こんな奇妙で不可思議な事件はないよ」

栄吉が、開け放った障子の前で、持ってきた団子を小皿に移しながら言う。
松之助の件で、危うく親友を殺しそうになったばかりか、事が自分と一太郎の両の親に露見して大目玉を喰らった栄吉は、長崎屋の離れにやっと長い滞在を許されたばかりだ。

「一太郎、お前さんもまた襲われたら大変だ。気をつけるんだよ」
「私はこれ以上ないくらい平穏だよ。なにせここのところ、両の親と手代たち、お千重ちゃんとしか顔を合わさないんだもの」

柳屋が、店の中で出入りの職人に殺されたと聞いて、おかみのたえが狼狽えた。
また誰ぞが一人息子を襲うかもしれないと、医者にかかるほど心配しだしたのだ。
二度狙われた試しはないからと言っても、首を振るばかり。
おかげで一太郎は、漸く出してもらえるかもと思っていた離れに、また押し込まれたままになってしまった。
それも一日や二日のことではないし、先の見通しがある訳でもない。
一太郎も、一太郎と同じように長崎屋に押し込まれている八千重もいい加減焦れてきた。
それを察した手代たちが、栄吉を離れに呼んだのだ。
その栄吉は、八千重の名前が出たので導かれるように視線が八千重を捉える。

「―――そういえば、お千重ちゃんも瓦版で取り上げられてたよ。知ってるかい?」
「え、私が瓦版で?」

八千重は目を丸くさせた。
そんなこと、知らなかった。

「それって一体どんな記事だったんだい?」
「西村屋のご主人殺しの現場に、お千重ちゃんは居合わせたんだろう? その記事だよ」
「―――西村屋、さん…」

八千重の顔がさっと曇るのに、一太郎はすぐに気付いた。
だが栄吉は、上を見ながら記憶を探っていたため、気付かずに続ける。

「自分の着物を裂いて晒代わりにし、綺麗な着物が血で汚れるのも厭わずにご主人を救おうとしたって…西村屋の家人は皆、大層感激したとか。助からなかったのは本当に残念だが、お千重ちゃんみたいな人に看取られて良かった、感謝している…っていう内容だった筈だよ」
「……わ…私、…そんな感謝されるようなことしてないのに……助け…られなかったのに―――…っ…」

八千重は、はらはらと涙を零した。

「お千重ちゃん…」

一太郎は、微笑む。
八千重が苦しんでいるだろうと知っていた。
これで少しはその心の痛みが薄まればいいなと思う。

「え、え? もしかして俺が泣かせた? ご、ごめんよお千重ちゃん、泣かないでおくれよ」

八千重が俯き、泣いているのに気付いた栄吉は慌てふためく。
その様子が面白かったらしく、八千重はクスクスと笑う。

「やっぱりお千重ちゃんは笑っていた方が綺麗だねぇ」
「え?」
「い、一太郎…」

さらりと甘い言葉を言った一太郎に驚く二人に、一太郎は訳がわからずにきょとんとして首を傾げた。

「そ、それより、俺が拵えたんだ。食べて見てよ」

ことりと小皿が出される。
醤油をつけた焼きたての餅が、香ばしい香りを立てている。
八千重は指先で涙を拭うと餅を摘んだ。
一太郎も同様に手を伸ばす。
反対の手で栄吉に瓦版を差し出す。

「凄いねえ、この下手人。相撲取りだって、こんなに大きくはないよ」
「本当に、大仰だよね。私を襲ったぼてふりがこんな奴だったら、今ごろ生きちゃぁいないよ」
「ふふ、私も同感。そんなのに襲われてたら、腕も切り落とされてたよ」

一太郎は団子を頬張り、八千重は口元を手で隠しながら頷き、クスクス笑う。

「でも、これを見てると、下手人はまるで妖怪か伴天連の妖術遣いのように見えるね」
「術?……」
「妖怪…?」

八千重と一太郎は瓦版を怪訝な顔で見ている栄吉に視線をやる。

「なんだい、怪しげな技が使われていたと思う訳?」
「栄吉さんは、妖怪の仕業だと?」
「そんなこと分からないよ。ただ、えらく奇妙だなと思うだけさね。それこそ妖怪だとか幽霊だとかが物語の中でする悪行みたいに」
「「………………」」

一太郎と八千重は揃って難しい顔で考え出した。
それぞれの事件の一連の凶行には納得のいかない話が多過ぎる。
辻褄の合わない、奇妙な気味の悪い違和感がずっと付き纏っている。
もっと突き詰めて考えなくてはならなかったのに、他のことにかまけて見過ごしていた幾つかの不思議。

(下手人の妙な行動……)

栄吉が帰った後も、一太郎と八千重は二人揃って考え込んでいた。
八千重は日が傾き、ぐっと涼しい風が吹く頃になっても縁側に座り、庭を怪訝な顔で見つめながら考え耽っていた。
そんな刻限になっても離れの障子戸が開いているので、それを見た手代が血相を変えて飛んできた。

「若だんな、お千重様、ご無事ですか!」
「? どうしたんだい、仁吉。そろそろ夕餉かい?」
「あれ、仁吉さん」

(今、私の事『様』って言った…?)

のんびりした一太郎と、きょとんとした八千重に、仁吉は肩の力を抜く。
誰ぞに襲われた訳ではないらしい。
それにホッと胸中で安堵しつつも、二人揃って心ここに在らずといった様子に、どうしたのか聞かずにはいられなかった。

「どうしたとは、こちらの方が聞きたいですよ。二人揃ってどうしたのですか?」
「「考えていたんだけれど」」

揃って口火を切った八千重と一太郎は、驚いて顔を見合わせた。

「もしかしなくても、同じ事を考えていた……のかな?」
「もしかしなくても、そうみたい」

クスクス笑い合う二人に、仁吉は話が見えないと顔を怪訝に歪める。

「とりあえず、お千重さんは部屋の中に入ってください―――あぁ、こんなに冷えてしまって…風邪を召されたら大事ですよ」

言いながら八千重の背を押し、そこから伝わる温もりの低さに仁吉が綺麗な顔を歪めた。

「これくらいでは風邪なんてひきませんよ」

苦笑いしながら言えば、仁吉は「いいえ、万が一ということもあります!」と、ピシャリと言った。
その様子に、一太郎は片眉を上げる。

(仁吉が私以外の人の心配をするなんて……初めてじゃぁないかな?)

やはり、兄やたちは八千重を特別視しているのではないかと一太郎は思った。
何故なのかはわからないが。

「ね、仁吉さん、さっきの続きなんですけど…真相は、これなんじゃないかなって……どう思います?」

言いながら八千重が指差した物を見て、仁吉はこれ見よがしな溜め息を吐いた。

「お千重さん! 若だんな! お願いですから危ないことに首を突っ込まないで下さいな」

八千重が指差したのは、瓦版。
挿絵の薬種屋は役者のように隈取りを施した雲つくような大男に切り刻まれ、その大男…下手人は、鬼のような形相で描かれている。

「突っ込みたくなくても、首までどっぷりと浸かっているじゃないか。この件が何とかならなくっちゃ、おっかさんが落ち着かない。店にすら出られないよ」
「私も、若だんなと同じです。このままじゃいつまでたっても家に帰れない……おとっつぁんが心配です」

膨れっ面の一太郎と、しょんぼり肩を落とす八千重は瓦版から目を離さない。

「それに、もしかしたら一連の事件は、私がなんとかしなくちゃいけないものかもしれない。いや、私たちでなけりゃどうにもできないことかもしれないよ」

一太郎の言葉に八千重はこっくりと頷く。

「お二人共、何を言い出すんです?」

突然の言葉に、仁吉が器用に片眉を上げる。

「仁吉さんとにかく瓦版を見てください」

促されて仁吉の目が、瓦版の挿絵を見る。

「これは瓦版だから、買ってもらうためにわざとこんなに尋常でない風に描いてある。けれどもしかしたら、それが事の真相じゃないのかね」

仁吉は一太郎と八千重の意を察したようだった。
だが、それに賛成するのではなく、また別の考えを持っている様子だ。

「つまり、人成らぬものが関わっているということですか?」
「はい」
「そうとしか考えられないよ。あまりにおかしな事が多過ぎる」
「だから我々でなくては、一件を解決できないと言うんですか。そりゃぁ妖が相手では、日限の親分は首を傾げるばかりでしょうが」

二人にそう言われても、手代は首を縦には振らないでいる。
火鉢に並んで座る八千重と一太郎の向かいに座ると、先に自分と一太郎が襲われた蔵の地下室での時の話をし始めた。