「…親分さんから話を聞いたのは母屋だったから、知らないのは仕方ないよ」

八千重は屏風のぞきがふてくされてしまわないように、そっと助け舟を出したが、屏風のぞきの顔は不満気だ。

「真冬にざんぶりと堀の水に入る女かいるものか。お前さん、その話は妙だよ」

挙げ句にあぐらをかいている野寺坊が笑うものだから、屏風のぞきは黙ってしまった。
妖達は言いたい放題に話を作って喋るのにも言葉が尽きたのか、無言が一太郎の部屋を牛耳る。
そこへ達磨火鉢の横に座っている一太郎の低い笑い声が響いた。

「なるほどね、面白い話だった。皆が枝葉を落としてくれたんで、木が見えてきたよ」

その言葉に、妖達と八千重の目が一斉に一太郎に集まる。

「おくめは、威張り散らすけど優しくて、
競争心が強いが慈悲深い女だったという話だよね」

一太郎はなにやら案じがついたのか、口元に皮肉の影を刷いた笑みを浮かべている。

「おまけにその娘ときたら、大店の跡取りが好きなくせに、手代に付け文を出し、師匠への文は女らしい筆遣いなのに、恋文は金釘流というのも恥ずかしいくらいで、みみずののたくったような字を書き殴る───…つまりは、そういうことなのさ」
「そういうって……どういうんです?」

妖達は興味津々、一太郎の説明を待つが、当の一太郎は続きを口にしようとしない。

「……すべて、繋がるということなのね?」

確かめるように問いた八千重に、一太郎は無言で頷く。
八千重は一太郎のように案じがついたわけではない。
だが、一太郎の言葉に、今までの妖達の言葉を思い出してみる。

(まずは……おくめという子は、どんな子なのか)

おくめは、競争心が強く、威張り散らすけれど、優しくて慈悲深い。

「───あれ…?」

指折り考えてみて、八千重はふとあることに気づいた。
妖達の話には、おくめの他に登場人物がいるではないか。

(名前こそ出てこず、その姿は妖に寄って呼び方が変わっているけど、もし……もしその人が同じ人であるならどうだろう?)

急に何かに気づいたように声を上げて黙り込んだ八千重に、妖達は首を傾げた。

「…お千重さん?」
「なるほど、これで仁吉さんへの疑いを晴らせる……けれど、どうやるの? もう何か算段はついているの?」

どこかすっきりとした顔で一太郎に問いかける八千重に、妖達は虚を突かれたようだった。

「お千重ちゃんも気づいたんだね。そうさね、問題は日限の親分さんをどう納得させて下手人を捕らえて貰うかだよね」
「下手人がお分かりですか!」

驚く妖の声は二人に届いていないのか、八千重と一太郎はどうしたら良いだろうかと二人で話している。

「う〜ん、せっかくこちらには妖がいるのだから、それを役立てたらどうかな?」
「そうだね、それが良い。ねぇ、誰ぞ水に強い、おなごの妖を知らないかい?」
「それなら……濡女ならば適任でしょう」

佐助の答えに、一太郎も八千重も大きく頷く。

「じゃぁ、私が親分さんに声を掛けて、おくめさんが溺れたお堀端に来て貰うよ」

八千重は早速とばかりに立ち上がり、一太郎は頷いて妖達を見渡す。

「ならその間に誰ぞ濡女をそこに連れて来ておくれ。天野屋に文を書くのは仁吉が良い。知った顔だからね、呼び出すんだよ」

話は決まったとばかりに八千重と一太郎が算段を出すが、何故か妖達は部屋に座り込んだままだ。

「…おや?」
「皆、どうしたの?」

八千重と一太郎は揃って首を傾げるが、妖達からは何が何だかさっぱりわかりませんので、との返事。

「若だんな、私はおくめの幽霊にでも文を出すんですか?」

仁吉でさえ呑み込めていない顔で、不安気だった。
それに二人はやっと気付いて、「あれまぁ、これはいけない」と、二人で顔を見合わせて苦笑を浮かべた。
八千重は座布団の上に腰をおろすと、一太郎と事の説明を始めた。





京橋から西に寄った堀川にかかる中ノ橋のたもと。
川岸に下って橋桁の後ろの枯れ草が上背高く残った目につきにくい場所に、日限の親分は呼び出されていた。
その傍には八千重と一太郎、佐助が枯れ草に隠れるように控えている。

「お千重ちゃん、若だんな、本当にここに居れば天野屋のおくめを殺した下手人が分かるんで?」
「疑うなら帰ってもらってかまわないけれど、親分、事の次第はもう見えておいでなんですか?」

八千重に下手人が分かりましたので、一緒に行って欲しい場所があると言われ、連れられて来たのは殺害現場。
しかも、枯れ草で身を隠すようにしてただ待っているだけとなれば、親分は半信半疑だ。
疑問を一太郎に投げかけてみたが、返ってきた言葉に日限の親分はううん、と唸る。

「そう言われると返事も出来ない。じゃあ暫くは様子を見ますか」
「もうすぐ来ると思いますよ……あ、ほら」

来ました、と八千重に促され、親分が視線を向けると、手代の仁吉が川端に降りて来るのが見えた。

「あれは仁吉さんじゃぁないか……おや? 一緒にいるのは───…」

伴っている影があり、岡っ引きには見たことのある顔だった。

「ありゃぁ、天野屋の女中じゃないですか」
「そう。おさきと言うんだそうです」

一太郎と八千重の目は、じっと手代の後ろの女に注がれている。
地味な拵えの女は、不安気な顔だが、嬉しそうな様子もある。
どちらともつきかねて、ただ今は男の誘いに従っている風だった。
水の淵まで行き着くと、仁吉は突然振り向いて女に告げた。

「おさきさん、あんたが……あんたがおくめさんを殺めたんだってな」
「なにをいきなりっ」

驚いたのはおさきだけではなかった。
岡っ引きの浮いた腰を、一太郎と佐助が必死に掴んで草影に引き留める。

「親分さん、今出て行っちゃぁまずいですよ。まだおさきは何も返答していません」
「あ……あ、そうだったな。すまねぇ」

ヒソヒソと話せば、納得してしゃがみ込んだものの、仁吉達を見る岡っ引きの目は、大福のように大きくなっている。
八千重と一太郎はそんな様子に顔を見合わせ、小さく頷き合うとまた視線を仁吉達へ戻した。

「昨日夢の中におくめさんの幽霊が出たんだ。おさきに突き飛ばされて、堀に落ちたと言っていた」
「知らないよっ。あたしが何でお嬢さんを殺さなくっちゃぁならないんだい」
「おくめの事を、"お嬢さん"と呼ぶ身になった。そもそも、それが始まりなんじゃないのかい」

仁吉は一太郎と八千重に言い含められた話をおさきに繰り返し話している。
問い詰められたおさきは顔の色を堀の水のように暗い澱んだものに変えていた。

「あんたは元々、担ぎ商人だったおくめさんの父親が出入りしていた小間物屋のお嬢さんだったそうだね。焼け出され両の親を失い、行く宛がなくなったのを情けをかけられ天野屋へ女中に入った。立場が変わって悔しかったろうね」
「あたしは精一杯勤めています。拾ってもらって感謝してるわ。だから……」
「だから、威張られても我慢したし、おくめさんが田舎育ちの悪筆を隠したくて、お前さんに代筆を頼んだ時も応じていた…そうだね」
「奉公人がお嬢さんの言う事をきくのは当たり前でしょう?」

おくめは、己とおさきの境遇が入れ替わった事を楽しんでいた、と一太郎はみていた。
八千重も同意見で、それで殊更に主人として威張ってみたり、急に優しげにして今はおさきの手に入らない物をあげたりしていた。
妖達の調べは正確だったのだ。
火事で一人となったおさきを引き取ったという慈悲深さ。
上にいた者が今は自分の下にいる。
私が主人なのだと威張り散らし、もうお前には自力で手に入れる事など出来まいと誇示するように物を与える。
上へ、上へ。
おくめは自分の格に拘る女だったのだ。
競争心が強く、自分を上回る者は気にくわない。

「………………」

八千重が気付いた妖達の話の中にいたもう一人の人物は、おさきだった。
その時は名前も知らなかったが、妖達の話をおさきで繋げれば自然と話の筋書きは面白いように当てはまっていったのだ。
ただ、実際におさきを目前にしてその胸中を考えると自然と表情は曇る。
八千重はきゅ、と手を知らず知らずに握りしめていた。

「だが今回、あんたは私宛の付け文を清書しなかった。あの文には驚いたよ。文の主も、おさきさんじゃなくて、おくめさんだったしね。掛け取りに行ったとき、時々私を見ていたのはあんたの方だろう?」

おさきが顔を仁吉に向ける。
女の強張っていた顔付きが緩んだ。
草の中に立ちつくしたまま、みるみる目に涙が溢れてきて、今にも零れ落ちそうになる。

「お嬢さんは、大店の跡取りにしか興味がなかった。いつもそう言って……」
「そうだってね。なのに何故、この仁吉に文を寄越したんだい?」
「あたしの……気持ちを知ってて……」

言う先から、涙が堪えきれずにおさきの頬を伝う。
文の事もまた、一太郎と八千重の推測の通りらしかった。
事の顛末はこうなのではないかと一太郎と八千重が妖達に話した時、手代達はわけが分からないと言った。

「おくめは女中…おさきが仁吉に恋文を渡す前に、己の名で先に出そうとしたんだよ」
「何でまたそんな事を」

貰うばかりで、付け文にはとんと興味のない手代は、呆れ顔で聞いたものだった。

「おさきさんは奉公人ですよ? 奉公人が、奉公先のお嬢さんが好きだと言っている相手に、想いの丈を打ち明ける訳にはいかないじゃないですか」
「そう。おくめは多分、おさきと仁吉が恋仲になるのが嫌だったんだろうさ」
「おくめの狙いは大店のおかみになることだったはずです。なんで手代の私と女中の事が気に掛かったんです?」

どうにもぴんとこない顔の手代を、八千重と一太郎が笑う。
八千重の笑みは苦笑、といった風だったが、一太郎の方は、いつもは見られない寂しいようなそんな風体だった。

「仁吉さんは出来る手代です。いずれは番頭になるでしょう」
「暖簾分けだってあるかも知れないだろう?」
「私は若だんなの傍を離れたりしませんよ」
「…ふふふ、仁吉さんの事をよく知っていればそうでしょうが、世間はそうではありません」
「おくめは、仁吉の事を詳しくは知らない。今は自分が主人、おさきは女中……しかし、お前と添ったらおさきにはお店のおかみになる見込みが出てくるんだ」
「それが、おくめさんには面白くなかった……だから、邪魔をしようとしたのでしょう」

それも、恋文の代筆をおさきにわざとさせた。

「だけれど、おさきさんはこれはかりは代筆出来ず、おくめさんの手、そのままの文を仁吉さんに届けた」
「かわいそうに…おさきはどこで我慢が出来なくなったのかね。おくめを殺めたのはおさきだろうが、その事だけは分からないよ」

一太郎の深い溜め息と八千重の眉を下げた表情を仁吉は思い出していた。
おさきが泣き出したのを見て、手代はこれで事が終わったと手を差し伸べた。

「さあ、日限の親分に何もかも話して楽になりなよ」

草深い中を一歩近寄る。
その手を涙と共におさきが振り払った。

「何回言わせるんです? あたしはお嬢さんを殺しちゃぁいませんよ。確かにしくじりをして叱られました。だから、店を出る気だったんです」

他の店に奉公すれば済む話だと言われればその通りで、仁吉は言葉を継ぐ事が出来なかった。
一太郎と八千重が隠れている橋のたもとに、仁吉は困ったような視線を送る。
その時だった。
おさきの目が大きく大きく見開いて、足元の澱んだ流れの中に吸い寄せられた。
暗い水の中に、女の顔が揺らいでいる。

(お嬢さん!)

黒い髪がほどけて、顔の上を横に流れている。
真っ直ぐおさきの方を向いている面のその口が開いて……名を呼んでいるように見えた。
震えが足先から登ってきて、岸から離れる事も出来ない。
水底から手がゆるゆると伸びてくる。
近付いてきて水面を割り、この世に這い上がって来る。
それが褪せた紅の鼻緒ごと足先を掴んだとき、おさきの甲高い悲鳴が橋の周りに響き渡った。

「殺す気じゃなかった。そんなつもりじゃぁなかったんです」

もう水の中を見ることも出来ないのだろう。
尻餅をついて袂で顔を覆っている。
震えたまま、ひあぁ、ひあぁ、と消え入りそうな叫びを何回も繰り返していた。
ここで日限の親分が一太郎達の手から放たれて、草の中から飛び出した。
おさきに近寄り、掘の中を見てみるが、女中を怯えさせた何かを見ることは出来なかった。
濡女はとうに深い碧の水底に消えた後だったのだ。

「子細はそこで聞かせてもらったよ。お前さん、殺してしまったおくめの幽霊でも見たのかい」
「あの日、あたしはお嬢さんのお供をして待ち合わせ場所の堀端に行ってました」

親分の事など目に入っていないかのように、ぶつぶつとおさきは言い募る。

「仁吉さんが来ないから……お嬢さんは、ちゃんと文を渡したのかって問い詰めてきました。あたしはもうお店を辞める気で、字を直さずに渡したって正直に言いました」

おさきの目には、もう涙は浮かんではいなかった。

「お嬢さんは怒って、あたしに拳を振るってきました。店を出る気だったから、素直に殴られてはあげなかった。そうして組み合っているときに、突然、鳴ったんです」
「鳴った?」
「半鐘の音。直ぐにかき回すような打ち方の近火の知らせになった。お嬢さんはそれを聞いて……にまっと笑ったんだ!」
「えっ?」

親分の視線が、手代と一太郎、八千重の視線が、おさきに集まる。

「三年前の火事は、天野屋にとって福の神だったんですよ。たくさんの店が焼け、うちの二親のように……大勢が死んで、財を失い、店の借り手が減った。火事の後、天野屋は良い場所の店を安く借りる事が出来たんです」

上へ、上へ。
成り上がるきっかけの火事の知らせに、思わず浮かんだ笑み。
その笑い顔を、おさきの手が堀に向かって突き飛ばしていた。
後はもう、溺れるおくめを見ることも声を聞くことも出来ず、死に物狂いでその場を逃れたという。

「火事から生き残った事を氏神様に感謝しているつもりだったんです。真面目に働こう、皆そうして生きているんだからって。でも、前みたいにおっかさんが甘い菓子をくれる事はない。おとっつぁんが、新しい簪を似合うと言ってくれる事は、もうないんです」

言葉は細かく震えて小さくなっていく。
だが、そんな小さな言葉でも、八千重はちゃんと聞こえていた。
おさきの言葉は、気持ちは、火事で唯一の肉親の父を亡くした八千重にとって痛いほど分かった。
知らず知らずに手を握り締める力が強くなる。
今自分は一体どんな表情をしているのか、八千重には分からなかった。

「平気だと思っていたのに。あたし、いつの間に心の奥底に鬼を飼っていたんだろう」

頼る者が居なくなった身から、優しさが零れて痩せ細ってしまったものか。
おさきは、今は涙もなく、俯いている。
親分は、哀れむような顔をおさきに向けていた。
だが、事が明らかになった以上、親分は下手人を引っ立てなくてはならない。
しばしの後、一太郎達に頭を下げると、おさきを堀端から連れて行った。

「あの時の半鐘の音。あれが引き金だったとはね」

おさきの心を荒らしたという鬼。
一太郎と八千重はその眷属とも言うべき妖達に、火事の時、毛筋ひとつも傷つかぬようにと庇われた。

「……っ お千重ちゃん?」

ふと隣を見た一太郎の目に、八千重の暗い表情が映った。

「……私、おさきさんの気持ちが分かるの。あの半鐘の音。あの煙の匂い。あの助けを呼ぶ人の声が……残っている。私は、きっと死ぬまで忘れられない」
「お千重ちゃん…」
「おんなじだ、と思った。私とおさきさんはよく似ていると思った……だけど、だけど───…」

ずっと力を込めて握り締めていた拳をあける事が出来ない。
力が、感覚が麻痺したように、手を開くことが出来ない。
八千重の手は、白く色が変わって今にも掌に食い込む爪が皮膚を破ってしまいそうだった。

「うん……」

一太郎の穏やかな声が、そっと降ってきた。
やんわりと握り締めている拳に、一太郎の手が覆うように重なる。

「お千重ちゃんは、おさきさんとは違うよ」
「…おさきさんには、優しく気遣ってくれる主人は居なかった。おさきさんには、震える手が治まるまで暖めてくれる手はなかった。おさきさんには、守ってくれる人は居なかった…でも、私には、籐兵衛さんやおたえさん、松之助さん、仁吉さんや佐助さん、妖達、長崎屋の人達、長屋の人達、栄吉さんやお春ちゃん…それに、若だんながいつも、誰かが傍に居てくれてる…」

ぽろぽろと、八千重の頬を涙が滑り落ちていく。
その涙を指先で優しく掬い取りながら、一太郎はふんわりと微笑む。
似ている部分のあるおさきの境遇と、己の境遇の落差に八千重は自分はなんて恵まれているのだろうかと思った。
そして、何故おさきにはそれが与えられなかったのかと嘆く。
同じ冬の風に吹かれても、肌に感じるその寒さは違うのだ。
守ってくれる者の、寄り添ってくれる者のあるなしで。
八千重はゆっくりと握り締めていた手が解けていくのを感じた。
一太郎はそっと開いた八千重の掌に付いた爪痕を指先で撫でながら思う。
それでも風に転ばぬよう、足を踏ん張って立つしかない。
独りぼっちの自分を、病がちの我が身を、己自身でただひたすら哀れんでしまったら、後は恨みの気持ちに頭の上まで埋まって、他は何も見えなくなる。
暗い思考に沈み込む前に一太郎は首をひとつ振ると、袂に入れていた甘い菓子入りの油紙袋を出そうと動いた。
八千重の手を離れていく一太郎のその手を、今度は八千重がぎゅっと握る。

「…お千重ちゃん?」
「今度は若だんなの番でしょう?」

先程まで涙に濡れていた顔で、八千重は微笑む。
八千重の体温は一太郎より少し高くて、寒い冬の空の下でもじんわりと暖かく感じた。
感じる寒さも人それぞれ違うが、また、温もりも人それぞれだ。
独りぼっちで冬を耐えられないならば、そっと温もりを分け合えばいい。
そうして少し辛抱すれば、やがて麗らかな春が訪れるのだ。
一太郎は、自分の考えを見透かされてしまったのかと寸の間狼狽えたが、やがて表情を緩ませた。

「お千重ちゃんは優しいね」
「私が優しいんじゃないよ。若だんなが優しいから、溢れた優しさが若だんなに戻って来るんだよ」
「ははは、ありがとう」

一太郎は先程より幾何か軽くなった気持ちで堀端まで来るとしゃがみ込み、脂紙袋を水面すれすれに差し出した。
すると女の手か水面に現れて、紙包みをそこに引き込んでいった。

「若だんな、お千重さん、これは申し上げておきますが」
「なんだい、仁吉や」
「あの女が言うように、鬼が全部、物恐ろしい訳ではありませんよ」

真面目に言い募る仁吉に、一太郎と八千重は驚いたような顔を向けた後、一太郎は苦笑を浮かべる。

「分かっているさね」

ゆっくりと立ち上がると、四人は師走の堀端を後にした。

「ねぇ若だんな、お汁粉でも食べてから帰らない?」
「お汁粉か。いいね、けど……」

帰る道すがら、八千重が思い付いたように一太郎に告げると、頷いたものの、一太郎はちらりと手代二人を窺うように見た。

「大丈夫、任せて」

一太郎の視線の先を見て、八千重はにんまりと笑う。

「仁吉さん、佐助さん、あったかいお汁粉を食べて体を暖めてから帰りませんか?」
「お汁粉ですか?」
「若だんなも乗り気で、体調も良さそうだし食欲もあるみたいですから、少し息抜きをしてから帰りましょうよ」
「…………」
「…………」

手代達はにっこり笑っている八千重に、互いに顔を見合わせる。

(…やっぱり、寄り道などせずに帰ると言われるのが落ちかな……)

病がちな己の身に、やはりだめかと一太郎はそっと息を吐いて、八千重にやっぱりいいよ、と言おうとしたときだった。

「分かりました」
「!」
「お千重さんがそう仰るなら、本当なのでしょう。たまには栄吉さんが拵えたあんこ以外も召し上がっていただかなくては……若だんなの味覚がおかしくなってしまってはたまりませんしね」
「仁吉、いくらなんでもそんな事にはならないよ」

手代達から許しが出て、嬉しい反面、仁吉の口からついでに出た言葉に、一太郎は苦笑いを浮かべる。

「小豆は栄養もあるし、善哉でも良いね。若だんな、どっちにする?」
「お千重ちゃんが食べたい方で良いよ」
「良いの? うーん…ならどっちも!」
「え、二つも食べる気かい?」
「やっぱり無理かな? じゃあ、若だんな、半分こして食べよう!」

八千重と一太郎は笑い合い、手代達と連れたって楽しそうに師走の風を歩いて行った。
















(きみの隣は、暖かい)