「それから、私は雛菊殿の旅について回る事となりました。ですが、吉野殿を案じている雛菊殿の為に、吉野殿のお傍に居ることも多々ありました」
「……ちょっといいかい?」

怖ず怖ずとそれまで黙って聞いていた一太郎が声をあげた。
仁吉と佐助の視線が動く。
だが、八千重は自分の手元から視線を剥がせなかった。
ぎゅう、と湯飲みを持つ手に力を込める。

「もしかして、と思って聞いていたんだけれど……訊いてもいいかな?」
「えぇ、勿論です」
「あの――…雛菊さんという方は、もしかして…」

段々と尻すぼみになって、最後に一太郎はチラリと八千重を見る。
そんな様子に、仁吉は笑みを溢す。

「若だんなのお察しの通り、雛菊殿とは本性が九尾の狐の…八千重様です」

仁吉の言葉に、やっぱり、と一太郎は口を動かした。

(お千重ちゃんは、仁吉が話す前から気付いていたのかな…だとしたら、先の態度にも説明がつくもの)

居心地悪そうに長い睫毛に影を落とし、俯く八千重に、一太郎は胸がざわつくのを感じた。

「雛菊殿…いえ、八千重様と共に旅する刻は、幸せでありました。あの御方が別の男を想っていようと、別の男の為に胸を痛め、涙を落として歯痒い想いをしても、お側に居るのはいつも私でしたから」

それは、確かに気持ちの良いものではなかったが、九尾が男を忘れ、諦めることが出来ないように、仁吉もまた、九尾への想いを断ち切る事は出来なかった。
互いに不毛な恋をしていると思っていても、理性でどうにか出来る感情ではない。

「…八千重様が開次殿と出会ったであろう旅には、お供できませんでした。あの時縋り付いてでもお供していたなら、私はまだあの御方の傍に居たと思います」
「――どうして、ついて行かなかったんだい?」

一太郎の問いに、仁吉は苦笑いを浮かべる。

「八千重様が大層可愛がっていた生まれたばかりの赤子が心配だと、自分が帰るまで見守るようにと私に御命じになられたのです」
「…そう」

一太郎は、何か引っ掛かりを感じつつも小さく頷いた。

「あの時――…八千重様が旅立つ折、私は八千重様と約束を交わしました」
「約束?」
「八千重様と出会い、千年が経っていました。妖にとっても、短い歳月ではありません」

最初は、その姿を遠くから見つめているだけで満足できた。
それが、接点を持った途端に欲がでて、お傍に居たいと思った。
だが、ずっと傍に居ると、想いは、欲は膨れ上がっていくばかり…だが想いや願いとは違い、その関係は少しも近付いてはいなかった。
ただただ恋しいという気持ちだけで、千年という月日が流れて……仁吉は思うのだ。

「私はこのままではいけない、と…。動かなければ、変われないのだと……だから、想いを伝えようとしたのです」

旅立つ九尾に、もう人を想うのはやめて欲しい、自分なら貴女を一人にしたりはしないと、そう伝えた。
さらにその先を伝えようとしたのだが、九尾は仁吉の言葉を遮り、言った。

「帰って来たらその時に聞く、と仰られて……私は、八千重様の帰りを待ちました」

だが、九尾は帰って来なかった。
一月が経ち、三月が経ち、半年が経ち、また同じ季節が巡ってきても、九尾は戻らなかった。
文も来ない。

「一切消息が絶えて、私は八千重様を探しました」

想いを遂げ、生まれ変わった鈴君と夫婦となった吉野殿も、他の九尾を慕う妖達も皆総出で探した。
だというのに、やはり九尾を探し出すことは愚か、手掛かりすら掴めなかった。

「そうして、私の想いは宙に浮いたまま終わったのです」
「……あの時の仁吉は、取り乱して酷い状態でした」

佐助が思い出すように目を細めて言えば、仁吉がギロリと睨め付ける。

「そういうお前も、随分と取り乱して見えたがねえ」
「そうか、佐助も八千重さんと関わりがあったんだったね」
「はい。八千重様は、私の恩人なのですよ。知りたいのであれば、また今度お聞かせ致します」
「うん、知りたい」

素直に頷く一太郎に、佐助は笑みを浮かべた。

「仁吉さんは―――…」

ポツリ、とか細い声が部屋に響く。
それまでずっと俯き、押し黙ったままだった八千重だった。

「仁吉さんは、私をどう思いますか?」
「「え!?」」

一太郎と佐助の声が重なる。

「きちんと話していませんでしたが、私は…‥私の中に、八千重さんがいます」

はっ、と誰かが息を飲む音が響き、部屋がシンと静まりかえる。
ぎゅう、と湯飲みを持つ手に力がこもり、八千重はまた視線を落とす。

「私を助けるために、八千重さんは亡くなりました。私のせいで……」

八千重は目頭がツンと熱くなり、溢れそうになる涙を唇を噛んで堪える。

「ごめんなさい。私が、仁吉さんから奪ってしまいました……ごめんなさい…」

ごめんなさい、と上擦った声が畳に染み渡るように部屋に溶けていく。
時々溢れそうになる涙を堪えながら、噛み締めた唇から何度も紡がれては溶けて消えていく。

「……もう、やめてください」
「!っ」

掠れた声をかき消すように、仁吉の凛とした声が遮った。
そっと、湯飲みを握りしめる八千重の手に大きな手が覆うように重ねられる。
いつの間にか、仁吉が目の前に来ていた。

「八千重様が、自ら望んでしたことです。貴女が、私に謝る事はありません」
「………仁吉さん…」
「良いのです。私の想いはは叶わなくとも、あの御方の想いは叶ったと言える」

何せ、開次殿は貴女を溺愛していらした…と、そう降ってきた優しい声音に、そっと顔を上げると、仁吉と目が合う。
優しく細められた目に、涙で潤んだ目の八千重が映っていた。

「あの御方の最後の旅が、幸せなもので終わったと分かり、安心しました」
「…仁吉さん……っ」

堪えていた涙は、とうとう溢れて八千重の頬を滑り落ちた。
ポロポロと溢れ落ちる涙を、仁吉の指先が優しく拭う。

その様子を黙って見ていた一太郎と佐助は、小さく息を吐いた。

(何故だろう、何だか少し複雑な気持ちだよ)

一太郎は、胸に渦巻く奇妙な感覚に、気持ち悪そうに顔を顰めた。





「さて、私の話はこれで終わりです」

八千重の涙が止まり、仁吉は場を閉めるようにそう言った。

「……ああ、そういえば吉野さんは、どうしたんだい? 鈴君と夫婦となったとさっき言っていたけれど…」
「ええ、そうです。だからおかみさんが生まれて、若だんながいるんです」
「はぁ?」

一太郎が素っ頓狂な声を出した。
それがおかしくて、八千重はクスクスと笑う。

「吉野殿、本性を皮衣様と仰って、齢三千年の大妖です。若だんなのお祖母様ですよ」

佐助にそう説明されて、若だんなは口をぽかんと開けたまま、暫く声も出なかった。

(じゃ、じゃぁ鈴君は祖父の伊三郎のことなんだ…)

「もう一つ言えば、八千重さんが可愛がっていた赤ちゃんって、若だんなのことだよ」
「えぇ!?」

目を丸くした一太郎がおかしくて、八千重はまたクスクスと笑った。

「お千重ちゃん、知ってたの?」
「八千重さんの記憶を見せて貰ったことがあるから」
「記憶…」

そうこう話している間に、薬が効いてきたのか一太郎の瞼が重くなってきていた。
うとうとと微睡みだした一太郎に、手代達は微笑み、八千重はそっと額に触れ熱を計る。

「ん、下がってきたね。おやすみ、若だんな」
「…おやすみ、お千重ちゃん」

ふんわりと微笑む八千重に寝惚け眼でうっすらと笑みを浮かべて返した。
八千重は手代達とそっと離れの寝間から出る。

「きっと、若だんなは明日には熱も平熱に戻っていると思います。徐々に回復しますよ」

離れから母屋へ向かう道中、八千重が安心したかのように言うと、手代達は頷く。

「では、若だんなが回復したら、皆で菊の花を見に行きましょうか」
「市川団十郎の新作もどうでしょう?」
「ふふふ、それは楽しみですねぇ」

若だんなには一日も早く回復してもらわなくっちゃぁいけませんね、と続けながら、何を一太郎に飲まそうか脳内で薬を選別していると、ふと視線を感じて顔を上げる。

「……仁吉さん?」
「何でもありません。さ、若だんなに飲んでいただく薬を調合しなくては……お千重さん、手伝ってくださいまし」
「は、はい」

視線の意味を曖昧に誤魔化され、八千重は困惑しつつも促されるまま調合の準備を始めた。

(結局、仁吉さんは今でも八千重さんの事が好きなのかしら)

訊ねてみようかとも考えた八千重だったが、先程顔をあげた際に垣間見えた仁吉の表情を思い出し、そっと口を噤んだ。















(彼女の面影を見つけては、ただただ愛しさが溢れる)