仁吉の好きな相手は、やはり妖だという。
平安の御世、当時その人は、雛菊と呼ばれていた。

「ご存知でしょうが、妖は恐ろしく長命です」

人の世にいる内は、時々名を変え、住む場所を移らねば、人でないことがばれてしまう。

「私も色々と名は変えてきましたが、話の中では今の名で通しましょう。こんがらがるといけませんからね」

(…雛菊……)

仁吉の初恋相手の名を口の中で呟いてみる。
身体に浸透するようなその響きに、八千重は目を細めた。

「その人は、大妖であるにもかかわらずとても変わった妖であると大層有名な御方でした。当時ひよっこの妖だった私も、その噂を聞いた時はなんて物好きな大妖様なのだろうかと呆れたものでした」

当時、仁吉は人に混じり禁中で暮らしていた。
他にも仁吉と同じようにして人に混じっていた妖がいく足りか居たが、その中に、女房として暮らしていた大妖がいた。
その大妖は吉野と名乗り、宮廷に仕えている一人の公達と恋仲であった。
大して位も高くない若い貴族の男だったが、二人は第三者の仁吉から見ても円満で仲睦まじかった。
だが、吉野は妖である。
正体が知れたら、男がどう出るか分かったものではない。
だが、仁吉はそうは言っても吉野の為に動く事はなかった。
そうこうしている内に、仁吉は一人の妖と出会う。
艶やかな黒髪を風に遊ばせ、人差し指を薄い唇にあて内緒よと悪戯気に笑みを浮かべたその人は、大変綺麗な容姿をしていた。
塀を難なく飛び越えて禁中に侵入したその人は、音もなく風のように駆けて吉野の部屋へと向かった。

「その御方から感じる力と、その月光に照された美しい顔に、私はその時少しも動く事が出来ませんでした」

一目惚れしたのか、と周りの妖にえらくからかわれたのだと仁吉は笑う。

「じゃあ、その人が雛菊さんなんだね?」

一太郎の問いに、仁吉は茶で喉を潤して頷く。

「はい。それからすぐに、その御方が大妖であり、また吉野殿とは姉妹のように仲の良い御友人なのだと知りました。そして、噂の有名な大妖であると知らされ、大層驚いたものです」

雛菊はどうやら、吉野を案じて訪れたらしい。
雛菊の助けがあってかは知らないが、吉野の正体を知っても、男の気持ちは揺るがなかった。
幸せそうに寄り添う二人の姿を見て、とても満足そうに、優しく、優しく雛菊は微笑んで、禁中から去って行った。

「私は、吉野殿の幸せを本当に心から喜んでいらした雛菊殿の為に、吉野殿を守る事に決めました」

雛菊は、訳あって旅をしているらしい。
たまに吉野に会いに禁中に忍び込む雛菊を、仁吉は待ち焦がれるようになった。
ただ憧れているだけで、遠くから見つめ、声をかける事など出来なかった。
まだまだひよっこの仁吉では、大妖である雛菊と釣り合えるような妖ではなかったのだ。
自信がなかった。

「吉野、幸せにお成り」

平素のように侵入して、雛菊は愛しそうに慈愛に満ちた表情で寄り添う二人を見つめていた。
仁吉は、そんな雛菊をやはり平素のように見ていたが、やがてふ、と雛菊の表情が歪んだのに気付いた。

「雛菊殿は切なそうな、羨ましそうな、寂しいような、諦めたようなそんな…今にも泣き出してしまいそうな顔をしていました。彼女のそんな顔を見るのは初めてで、私は息を飲みました」

だけどそれも寸の間の事で、雛菊は目を伏せて微笑む。

「お前は、好きなの?」

突然、話し掛けられて驚いたのもあったが、淡い気持ちを本人に突かれて、ギクリとして慌てた。
身体が硬直して動かない。

「それで隠れていたつもりかい? 取って食いやしないから、でておいで」

そんな様子の仁吉に、雛菊は可笑しそうにクスクスと笑い、優しい声で促した。
仁吉は、まるで鈴が鳴ったように聞こえた。
ぐ、と踏ん切りをつけて月の光のあたる元へと躙りでる。

「お前、吉野が好きなの?」
「―――――え?」
「だから、いつも吉野を見守っているのだろう?」

仁吉には言われた意味がすぐに飲み込めなかった。

「ああ、この御方は勘違いをなさっている、とすぐに察しましたが、勇気を出して否定をしても照れなくても良いのだと、とりあってはくれませんでした」

雛菊は、烏の濡れ羽色の髪を揺らし、仁吉に歩み寄る。
だがその柳眉は下げられていた。

「お前さんにはすまないが、出来るなら諦めておくれ。あの子は、“鈴君”以外目に入らないよ」

きっぱりと言い切った雛菊に、疑問が湧く。

「何故、でしょう? あの男はいずれ吉野殿より先に逝く……人は妖から見て、恐ろしく短命です。あと百年も経たずして、吉野殿の恋は終わるのではありませんか?」

仁吉の問いに、驚いたように目を丸くさせた雛菊だったが、すぐに表情を緩めた。

「―――…終わりゃぁしないさ」
「え…?」
「そんな簡単に、終わらせられないものなんだ」

一瞬見えた雛菊は、先程の今にも泣き出しそうに見えた時と同じ顔をしていたように見えた。

「雛菊殿…‥」
「――…おや、お前さん私の名を知っているんだね。私はお前さんの名を知らないって言うのに」
「す、すみません。私は、白沢と申します」
「お前さん、それは本性の名だろう――ククク、可愛い奴だ」

可笑しそうに笑ってから、覚えておくよ、と告げ、雛菊はまた旅立って行った。

雛菊と話してみて、想いは否応なしに募った。
可笑しそうに笑う声や、クスクスと鈴を転がしたような笑い声、耳に心地良く響く声や笑顔や仕草一つ一つに胸が熱くなる。
また、時折見せた憂いたような顔が何故なのか知りたい欲が出てきた。

その理由は、すぐに知ることとなる。

「“鈴君”というのは、公達の事です。銀の鈴を吉野殿に贈り、二人はその音を合図に雅な殿中で会瀬を重ねていた。故に、公達の事を私達はそう呼んでいました」

人とは弱いもので、鈴君は、まだ三十路にも届かない内に病を得て身罷てしまった。
旅に出ていた雛菊が駆けつけた時には、もう葬儀も済んでしまっていた。
呆気ない最期だった。
周りに居た妖達は、これで吉野殿の恋は終わったのだと口々にそう言ったが、雛菊の言った通り、吉野は頭を振った。
諦めなかった。

「私の“鈴君”。あの人は、絶対にまたこの世に生を受けてこの胸に戻ってくる!」
「ああ、吉野。お前だけでもと願っていたのに…私がもっと早く戻って来ていたら、鈴君を助けられたのに―――…」
「泣かないで、雛菊姉様。大丈夫よ、私には自信があるの」
「お前の気持ちは痛い程に分かるよ。だから私は、お前を止められない……幸せにお成り」
「ありがとう、勿論幸せに成ってみせるわ! だから姉様も絶対に幸せに成って下さいましね!」

吉野の言葉に、雛菊は何も答えなかった。

「馬鹿な事だと思いました。生まれ変わったとて、人は人。また直ぐに死んでしまう。いや、その前に吉野殿の事を覚えている筈もない……そう、思っていました」

だが、そう言った仁吉に雛菊は頭を振った。

「“鈴君”は、きっと吉野が分かる。吉野にも、“鈴君”が分かるだろう。何度生まれ変わったとて、二人は恋をするよ」
「―――何故、そんな事が断言出来るのですか? 貴女様には、先見の明があるのですか?」

きっぱりと言い放つ雛菊が不振に思えて、仁吉はそう訊ねた。

「わたしにそんな才は無いよ。経験から言っているのさ」

そう答えた雛菊は、いつもの憂いた顔で緩く笑む。

「白沢、お前は私の噂話を聞いたことがあるかい?」
「あります。だけど信じてはいません。あんな――…馬鹿げた話」
「……馬鹿げた話、か」

雛菊は複雑そうに苦笑いを浮かべて息を吐く。

「私は、至って真面目なんだけどね」
「え…」
「…私は、至って真面目に人に成りたいと思っているんだよ、白沢」

自嘲するように笑った雛菊の言葉に、仁吉は衝撃を受けた。

「な…何故ですか?」

短命で、弱く、脆く、何の特別な力もない人に、大妖であり、素晴らしい力を持つ雛菊が成りたいのだと言う。
よっぽどの理由がなければ得心がいかない。

「白沢はきっと私を侮蔑するかもしれないね。大妖の癖に何を言っているのかと、正気なのかと疑うかもしれない。だけど私は、あの御人と共に在りたいだけなんだ。ただ、お傍に居たいだけなんだよ」
「………………貴女様も、吉野殿と同じように、想いを寄せ会う人が居ると言うことですか…?」

震える声で、掠れた声でそう問えば、雛菊は悲しそうに眉を下げて頭を振った。

「私は、吉野達とは違うよ。彼は……アイツは、私を好いてはくれないんだ。何度生まれ変わっても、いつもアイツは私を選んではくれない」

切ない声だった。
あぁ、どうして、と頭を抱えてしまいたくなった。

「……………雛菊殿、貴女様は…」

それから先は、声が出て来なかった。

「気付いてしまったんです。雛菊殿が叶わぬ恋をしているということに。そして、それは、大妖である己を捨ててでも叶えたい、傍に居たいと焦がれる程本気なのだということに」

旅をしているのは、生まれ変わった想い人を探しているのだ、という事。
時折みせていたあの憂いた表情も、その想い人を思い出していたからだ、という事。

「――…私は、侮蔑などしません」
「…白沢?」
「私も同じです。貴女のお力に…お傍に居たい、と……言ったらご迷惑でしょうか?」

何と同じなのか、とか、そんな事は聞かれなかった。
ただ、雛菊は小さく目を瞠り、口を噤んだ。

「―――白沢…‥」

暫く険しい顔で考えていた雛菊だったが、やがて仕方ないと息を吐いた。

「私についてきたって、良いことなんて何もないのに…物好きな奴だね、お前は」

からかうように、可笑しそうに笑う雛菊はやっぱり綺麗で、仁吉もつられて笑んだ。