その手には確りと空色のビードロの根付が握られている。

「知り合いというか…」
「違うのかい?」

口ごもる男に、一太郎は首を傾げて八千重を見る。

「昨日、この方に助けていただいたの」
「ええ? そうなの、兄さん?」
「いや! あれは!」

違うと言う男と二言三言一太郎が話す。
だがその内容よりも、八千重は一太郎の言った言葉に、目を瞬かせていた。

(兄さん? 兄さんってまさか―――)

「松之助、さん?」
「はい」

恐る恐る声を掛ければ、男、松之助は返事をした。

「……い、生きてたんだ!!」

目を丸くさせる八千重に、一太郎が頷く。
成りそこないが殺したと言っていたというのに、これはまた何故だろうかと八千重は一太郎を見る。

「成りそこないは嘘を吐いたみたいだ。火事がおきたのは既に店を出た後で、兄さんは助かったらしいんだよ」

(――成りそこないが松之助さんに取り憑くつもりで東屋に行ったら、松之助さんは既に居なかった。それで与吉さんに取り憑いた…っていう所かな?)

一太郎の言葉にそう思考を巡らせて、八千重が窺うような目で見れば、一太郎は小さく頷く。
八千重と一太郎は意思の疎通を松之助に気付かれないようにすると、佐助はお茶を八千重の為に淹れ始める。

「驚きました。まさか貴方が若だんなの兄上様だとは」
「おれもです。まさか此処で貴女に会うとは思ってもなかった」

松之助の顔は、緊張の為か強張っていたが、それでも八千重とのまさかの再会に、少しばかり緊張が解れたらしい。
うっすらと笑顔を見せた。

「顔色も、随分良くなりましたね。薬、飲んでくださったんですか?」
「え? えぇ、大層苦かった…」
「ふふふ、良薬は口に苦いものです。ねえ、若だんな?」
「もう、止しておくれよ」

からかうように一太郎を見る八千重に、一太郎は嫌そうに苦笑いを溢す。

「良かったね、若だんな。ずっと逢いたがっていたものね」
「うん。お千重ちゃんが来る前にもその話をしていたんだよ」
「そうなんだ」

頷いて、松之助を見れば、どこか恥ずかしそうに視線をビードロに向けている。

(―――だから、目が赤いのかな)

昨日話した松之助からは、自分などどうでも良いのだという節が感じられた。
あの時は気付かなかったが、きっと、その生い立ち故の苦しみや葛藤、様々な思いがあったに違いない。
奉公先での話も、栄吉から聞き齧り、知っている八千重は松之助は、暖かな一太郎に触れ、感極まってしまったのではないかと勝手に考えていた。
昨日の八千重がそうだったように。

「どうぞ」
「ありがとう、佐助さん」

佐助が淹れた茶を受け取り、八千重は笑う。

「あ、お千重ちゃん、悪いんだけれど今日はおとっつぁんと話は出来ないかも知れない」
「あ――…それは仕方ないよ」

ふと思い出したように、一太郎が眉を下げて言った言葉に、八千重は頭を振る。
こんな状況の中で、機嫌が良くないであろうと分かっている長崎屋主人夫婦に、仕事の話など出せようはずがない。
一太郎ならまだしも、八千重はただほんの一時お世話になったというだけの身である。
畏れ多いことだった。

「おや、お千重さんならお会いになっても大丈夫なのではありませんか?」
「「え?」」

それまで口を閉ざして控えていた佐助がおもむろに口を開いた。

「おかみさんの機嫌は良くなると思いますよ。おかみさんの機嫌が良くなれば、旦那様だって機嫌が良くなるでしょう」
「そりゃぁ、おとっつぁんはおっかさんに甘いから、おっかさんの機嫌が良くなれば、そうなるだろうけど」
「何故、私に会っておたえさんの機嫌が良くなるのか……その理由が判らないんですが」

一太郎と八千重が揃って首を傾げる中、佐助はおかしそうに笑う。

「お忘れですか? 昨夜若だんなが外出を許された理由」
「それは、お千重ちゃんが心配だからだろう?」
「そうです。だから、そのお千重さんが元気な姿を見せ、更には長崎屋で働きたいと申し出れば、おかみさんも旦那様も大喜びすると思いますよ」
「そ、そうかなぁ…」
「―――うん、確かに」

いくらなんでもそんなことはないのではないだろうかと思案気な八千重に反し、一太郎は合点がいったかのように大きく頷いてみせる。
そんな一太郎に更に衝撃を受け、八千重は押し黙る。

「お千重ちゃん、兄さんの事お願いだから協力しておくれよ」
「えぇ〜…じ、自信がないよう」
「大丈夫だから」

絶対だよ、と断言する一太郎に、八千重は戸惑いながらも頷いた。





その後、見越の入道は一太郎を迎えに来る事もなく、長崎屋で平素通りの生活を送っている。

松之助の件は、八千重の助力もあってか、長崎屋で働く事をおたえと藤兵衛に許してもらえた。
ただし、あくまでも長崎屋の跡継ぎは一太郎で、松之助はその対象とはならないという条件が付いている。
因って松之助は、ただの手代として、廻船問屋の方で働いている。
だが、それでもお互い嬉しそうだと八千重は見て笑う。

斯く言う八千重は、薬種問屋の方で働く事となった。
開次に話していたという仕事の話を藤兵衛に問いた所、二の句の前に是非にと誘われ、八千重は承諾したのだ。
これにはおたえも大賛成で、直ぐに離れに部屋を増設すると話しだしたので八千重は大慌てで止めた。
なので、八千重は家から毎日通っている。
そして、左京の話は半分断った。
半分というのは、八千重は長崎屋で働く事を決めたので、左京の診療所へは通えない。
だが薬が調剤出来ないのでは不便だろうという八千重の好意で、薬の受注を受けることにしたのだ。
そういう訳で、左京は長崎屋の常連客となりつつある。

「やぁ、お千重ちゃん」

仕事をし始めて早一月程が経った頃、一太郎がヒョッコリと店表に顔を出した。
どうやら今日は体調が良いらしい。
だがつい三日前に熱を出して寝込んでいたと言うのに、手代達に見付かってはまずいのではないかと、八千重は目を見張る。

「わ、若だんな! 寝てなくて大丈夫なの?」
「嫌だな、お千重ちゃんまでそんな大袈裟に。もう熱も下がったし、今日は体調も良いんだ」
「どれどれー…確かに顔色も良いし、喉も腫れてない。脈も呼吸も正常…うん、大丈夫ね」

一太郎が薬の調剤をしている八千重の傍に来て座ると、八千重は初めて会った時に源信がしていたように、一太郎を診る。
源信の時とは違い、不満顔になることもなく、されるがままの一太郎は、八千重に診られることはもう慣れたようだった。
一太郎から手を離し、また調剤を始めたその手元をじ、と見られ、八千重はなんだか少しやりづらい。

「もうすっかり慣れた感じだねえ」
「薬に関しては、ずっとおとっつぁんの傍で一緒になって扱ってきたからね」
「最近じゃぁ、お千重ちゃんの薬目当てのお客さんが多いんだっておとっつぁんが話してたよ。すっかりうちの看板娘だねえ」

ニコニコと言う一太郎に、八千重はチロリと横目で視線を送る。

「―――煽てても、仕事は手伝わせないからね」
「おや、バレてたのかい」
「仁吉さんと佐助さんに怒られるのは嫌ですから。若だんなも、見付かる前に離れに戻った方が――――…」
「「若だんな!!」」

八千重の言葉は、鋭い声に遮られた。
一太郎の肩がびくりと震える。

「あら、遅かったみたい」

今日は運が悪いことに仁吉と佐助、二人に見付かってしまった一太郎は、さっさと離れに連行されて行った。
八千重はその光景を笑って見送る。
一太郎が寝込めば仁吉と協力して薬をしこたま作り、体調が回復すれば、滋養剤だと言って薬を作る。
休憩時間や非番の日には、一太郎や栄吉、栄吉の妹のお春や、離れに集まる妖達と話をしたり、遊んだり。
毎日が忙しく、また楽しい。

薬に囲まれているのは、変わっていない。
ただ、隣に寄り添っていてくれる者が増えただけの話。
減ってはいない。
なぜなら八千重は、開次も小夜も、いつもすぐ傍で見守っていてくれていると信じているから。


「お千重さん、こんにちは。また家内の薬を調剤お願いしますよ」
「はい」

開次がいた時からの馴染みの客が、十手片手に現れた。

「日限の親分さん、何か事件でもあったんですか?」
「あぁ、それがね聞いておくれよ。奇妙な事件なんだがね――――…」

日限の親分は、神妙な顔付きで話し出した。
長崎屋には、たまに、奇妙で珍妙な事件も訪ねて来る。
















(歯車は廻り続ける)