「そう。あの二人にとって、お千重ちゃんはもう実の娘みたいなものに成っているんだよ」
「え…」

実の娘?、と八千重はきょとんとした顔で反芻した。

「だって、私がそうだからね」
「え?」

にっこりと微笑む一太郎に問うより、手代達の声の方が早かった。

「若だんな、そろそろ帰りませんとお身体に障ります」
「旦那様方も心配されてますでしょうし、話はまた明日にされてはいかがですか」
「あ〜…そうだね」
「では、駕籠屋を探して参ります」

仁吉がスッと立ち上がり、部屋を出ていく。
その後に、佐助がおもむろに続いた。
その佐助の顔が、どこか思案気に見えて、八千重は気になったが、態々引き留めてまで聞く事はしなかった。

「それにしても…」

先の仁吉、いつもと少し違った気がしたけれどどうしたのかしら…という一太郎の疑問は、お茶と共に飲み込み口には出されなかった。





「仁吉」

玄関を出た所で、仁吉は次いで出て来た佐助に声をかけられ振り返った。

「なんだい佐助。駕籠なら私一人で充分だよ」
「お前、さっきのはどういうつもりだ?」
「…………………何の話だい?」

何を言っているんだと顔を顰める仁吉に、佐助は惚けるなと顔を歪める。

「あれは、手代としての言葉か? それとも――…」
「お千重さんに長崎屋をお薦めした件か? 当たり前だろう、他に何がある」
「そう見えなかったから聞いているんだよ」
「……………………」

仁吉が、ス、と目を細める。

「お前にはどう見えたって言うんだい?」
「…言っても構わないのか?」
「言われて困る事など私は無い」
「………………」

断言した仁吉に、そんなことはないだろう、と内心思った佐助だったが、グ、と口を噤んだ。

「――判った。もう行け」
「引き留めたのはお前だろうに」
「若だんなを待たせるな、さっさと行け」
「ふん」

仁吉はやれやれと肩を竦め、踵を返した。
仁吉のもつ提灯の灯りが遠ざかるのを暗闇の中で見送りながら、佐助は息を吐く。

「お千重さんに八千重様を重ねて見ているんじゃぁないのか、お前は」

左京の事を何か魂胆があるのではなどと進言した仁吉の瞳はやけに冷えていて、佐助には仁吉が嫉妬して敵視しているように見えた。
まだ諦められないのか、そう聞いたら、仁吉はどんな顔をしただろうか。
そんな事を考えてみても、今更詮ない事だ。
判ってはいるが、考えてしまう佐助は、再度息を吐き、一太郎達が待っている家へ戻った。

その後、辻駕籠を拾ってきた仁吉に駕籠に押し入れられ、一太郎は八千重に「じゃあ明日待っているからね」と言って、帰って行った。
勿論、手代達や鳴家達も一緒に帰ったから、家の中には八千重一人きりだ。
シン、と静まりかえる家の中。
蝋燭の炎がユラユラと揺れる。
八千重は思い出したように鳴った腹の音に、腹に手を宛てて苦笑いを溢した。

「そういや朝餉以外何にも食べてないや」

生きていれば、腹が空くものだ。
八千重は、荷ほどきは後回しにして、台所へと向かう。

「……さて、何を作ろう?」

八千重が野菜とにらめっこをして考えていると、玄関の方から名を呼ぶ声が聞こえてきて、八千重は、一太郎が何か忘れ物でもして戻って来たのかと、手にしていた大根を置いて玄関へ向かった。

「お千重ちゃん!」
「お好さんにお泉さん。どうなさったんですか?」

玄関に立っていたのは、近所の長屋に住んでいるお好とお泉だった。
二人共開次の診ていた患者の家族で、今ではすっかり快復していたのだが、このような刻に訪ねてくるとは、また何かあったのだろうかと案じた八千重は顔を険しくして問う。

「いえいえ、違うのよ」
「私達は、これよ」
「え?」

ス、と差し出された物に、八千重はきょとりと目を瞬かせた。

「これって…」
「いやね、私達でも何かお千重ちゃんの力に慣れないかと思ってさ」
「口に合わないかも知れないけれど、良かったら食べてちょうだいな」
「あ、ありがとうございます!」
「良いのよ、私達にはこれくらいしか出来ないから」
「本当ならうちの息子の嫁御にと思ったんだけど、開次先生には以前にお断りされたしね」
「え?」
「私達に出来る事があったら遠慮なく言ってね」
「あ、はい!」

お好とお泉は、八千重の各々の手に鍋と握り飯を持たせ、お休みと言って帰って行った。
八千重は話の途中にあった衝撃的な言葉に固まり、二人が居なくなっても暫く呆然と立っていた。

「………縁談の話、来てたんだ」

八千重の知らない内に縁談の話を受け、断っていたという開次。
八千重は、また主張するように鳴った腹の音に、はっと気付き、いただいた鍋と握り飯を食べようと踵を返した。



翌朝、八千重は頬を何かに擽られる感触に目を覚ました。

「!、貴方たち!」

目を開けた八千重が目にしたのは、いつだったかも見た光景だった。
三匹の鳴家は八千重の声に目を覚ます。

「あ、お千重」
「お千重、おはようございまする」
「おはようございまする」
「あぁ、うん、おはよう……じゃぁなくて!」

蒲団の中で頭を下げる鳴家達に釣られて頭を下げた八千重は、はっと気付いて頭を上げる。

「貴方たちなんでまた居るの? 昨日若だんなと帰らなかったの?」

三匹の鳴家は、以前に八千重と一緒に眠り、仲良くなった鳴家たちだった。

「我ら若だんなに言われたのです」
「お千重の傍に居て、何かあったら直ぐに報せるようにと」
「若だんながそんな事を…」

八千重は、一太郎は本当に自分を案じてくれているのだなと思い、嬉しさで胸が熱くなった。

「じゃぁ、朝餉食べたら行こうか」
「きゅんいー」

鳴家は強面だが、その愛らしい仕草と言動に八千重の顔は綻ぶ。

久しぶりに自分で作った食事になんだか少しばかり懐かしさを感じつつ、鳴家と朝餉を済ませる。
食器を洗い、片付けると、髪の乱れを整え、櫛と簪を差す。
紙入れといつもの匂袋を懐にしまい、鳴家を袖に忍ばせる。
昨夜の鍋をお好に返し、長崎屋へと向かう。
道中知り合いに声をかけられて足止めを食らい、長崎屋に着いたのは家を出た時から一刻程経ってだった。
暖簾をくぐった八千重は、長崎屋の様子がいつもと違うことに直ぐに気付いた。
店内が何やらざわついている。

(どうしたのかしら?)

「いらっしゃいまし、お千重さん」
「仁吉さん」

八千重は声を掛けられて、顔を上げる。
仁吉は、いつもと何ら変わらないような顔をしていたが、八千重は何かあったのだとすぐに読みとった。
九尾のおかげか、手代達の感情を読み取るのは容易い。

「何があったんですか?」

まさか若だんなの身に何かあったのかと自然に険しくなった表情に、仁吉は頭を振る。

「取り敢えず中へ、詳しくは若だんなから聞いて下さい」
「ええ?」

ぐいぐいと仁吉に背を押しやられ、八千重は母家に上がる。

「お千重さんが加勢されれば、若だんなも頼もしく思うはずです」
「? どういう意味です?」
「若だんなはちょうど客間にいらっしゃいますから。では私は、仕事がありますので、宜しくお願いしますね」
「あ、ちょっと仁吉さんっ」

八千重の制止の声を受け流し、仁吉は店表に戻って行った。

「………もうっ」

八千重は強引な仁吉に頬を膨らませ、息を吐くと仕方ないとばかりに足を進めた。

「客間にいるって言ってたよね、誰かお客様かな?」

袖から顔を覗かせた鳴家に相談すると、鳴家は首を傾げる。

「判りませぬ。行って見てきましょうか?」
「ううん、いいよ。一緒に行こう」
「きゅわきゅわ」

八千重は客間に着くと、ス、と正座し、背筋を伸ばす。
話し声がするところをみると、やはり誰かお客様がいるらしい。
失礼があってはいけない、と八千重は中に声を掛ける。

「失礼致します。若だんなはいらっしゃいますでしょうか?」

すると、話し声がピタリと止み、中から八千重の知った声で返事が戻ってきた。

「その声はお千重ちゃんだね? うん、私は中にいるよ。お入りよ」

一太郎に促され、八千重は障子戸を開いた。
頭を垂れて一言置いてから中へ入る。

「そんな畏まらなくても良いのに」

一太郎が苦笑いを溢すのが気配で分かった。
八千重は下げていた頭を上げると、一太郎の向かいに座る目を丸くさせている男と目が合い、彼と同じように目を丸くさせた。

「「あなたは!」」
「え、なんだい?」

お互いを見て互いに固まった二人に、一太郎は訳が分からず二人を交互に見やる。

「二人共、まさか知り合いだったの?」
「お千重さん」

八千重は自分と男を交互に見ている一太郎と、自分を呼ぶ佐助の言葉にはっとして立ち上がると、佐助がひいてくれた若だんなの隣の座蒲団の上に座り直した。
改めて男を見れば、やはり昨日橋の上で身投げと間違えられて一悶着あったあの男に間違いなかった。
その目元が赤い所を見ると、泣いていたのかも知れない。
だがそのことには触れず、八千重はにこりと笑みを浮かべた。
男は虚をつかれたかのように目が寸の間見開き、それから所在無さげに視線が泳ぐ。