「え、左京先生の診療所で、ですか?」

八千重は左京が言った事を反芻した。

「良い案だろう?」

きょとんとしている八千重に構わず、左京は大仰に頷く。

「ですが、左京先生が作っていらっしゃるんですよね? 私は必要ないのでは?」
「実を言えば、私は調剤が頗る苦手でな。今まで患者に渡していた物は、私が簡単に調剤出来る物だけだ」
「え」

左京の言葉に八千重は目を丸くさせる。

「あんたは薬師として働く場所を探している。俺は、診療所はあるが薬を調剤出来ない―――な、お互い利益が合致していると思わんか?」
「はあ、まあ…確かに」

八千重は、そんな医者も世の中にはいるのかと信じられない気持ちのまま頷く。

「給金はそんなに出せんが、あんたが食うに困らんだけは出せるだろう。ま、考えてみてくれ」
「は、はい…」

八千重が戸惑いながらも頷けば、左京は満足そうに笑う。

(あ、やっぱり似てる…)

開次と同じように笑う左京に、八千重は胸の奥が不思議にざわめくのを感じた。
それは、最初に一太郎や仁吉達に会った感情と似ていた。

「お千重さん!?」
「…きゃあ!」

辺りもすっかり日が落ち、左京の持つ提灯と店先に灯る提灯の灯りだけが頼りとなった頃、暗がりから突然名を呼ばれ、伸びた手に腕を掴まれた。

「誰だ!?」

左京が八千重を庇うようにして掴んだ手との間に体を割り込み、提灯を向ける。
提灯の灯りに照らされた人物に、八千重は目を見張った。

「佐助さん?」

八千重の声に、左京を睨みつけていた目を八千重に移す。
その顔は、怒っているような、焦っているような、様々な感情の混じった複雑な色に歪められていた。

「私もおります」
「に、仁吉さんまで…」

佐助の後ろにいたもう一人が、提灯の灯りで姿を現す。

「貴女は……こんな刻まで何をしていたんですか!」
「!っ」

仁吉の声は、然程大きくはないのに、ビリビリと空気が震えた。
ビクリと八千重の肩が揺れる。

「貴女が若だんなに挨拶も無しに帰ったものだから、若だんなが貴女を案じて家まで訪ねても、家はもぬけの殻。日が落ちてきているというのに帰って来ない…私達は貴女が心配で!」
「ご…ごめんなさいっ」

二人の迫力に、八千重は身を縮めて謝った。

「私…、私、一人ぼっちの家に帰りたくなくて……その、長崎屋を出てからぶらぶらして…気づいたら日が落ち出していて…若だんなや仁吉さん達が心配して来てくれてたなんて知らなくて……その、あの、本当にごめんなさい…」

ぎゅうっと抱えた風呂敷包みを胸に抱き込むようにして握りしめ、頭を垂れる。
その様子に、八千重の腕を掴んでいた佐助の手から力が抜ける。
佐助と仁吉は熱くなっていた頭が冷え、互いに目を合わせた。

「私達は、貴女が無事だったのなら構いません」
「貴女の気持ちも考えず、怒鳴ったりしてすみませんでした」
「そんな…私が、悪いんです…」
「―――良し!」

昂っていた雰囲気が、沈んできたのを察した左京が、それを切り換えるように声を出す。
俯いていた八千重も視線を上げ、手代達の視線も左京へと集まる。

「迎えが来たようだし、俺は帰るな。例の話、明るく考えてくれよ?」
「わ、わかりました」

『例の話』と聞いた仁吉の美麗な顔が怪訝に歪んだが、八千重は気付かずに頷く。

「左京先生、ありがとうございました」
「構わんさ。じゃあな!」

言うが早いか、左京は踵を返し、去って行く。
左京の持つ提灯の灯りが遠くなり、やがて曲がり角で見えなくなった。

「―――あの男は確か、医者でしたね」
「はい、左京先生です。偶然出会い、相談にのっていただいたのです」

その上、親切に送ってくださいました、と八千重が続ければ、仁吉はそれ以上突っ込む事は止め、帰りましょうとだけ言った。

「若だんながお待ちです」
「え! わ、若だんなが私の家で待ってるんですか? 一人で?」

八千重は目を瞬かせ、二人を見る。

「私らが探すから心配せずに戻りましょうと散々申し立てたのですがね、貴女を待つと言って聞かず…」
「鳴家らと待っておりますよ」
「病み上がりなのに…」

苦い顔でブツブツと言う佐助と仁吉に、八千重は微笑みを浮かべ、二人の手を取る。

「じゃぁ早く帰りましょう」

手代二人が驚いているのも気にせず、八千重は二人の手を引き、歩き出した。
八千重に引っ張られるように歩き出した手代達は、互いに顔を見合わす。
だが、笑顔で再度八千重に促され、二人は黙って従うことにした。

(帰ったら、若だんなに謝って、それで、薬師の事を相談してみよう)

一人ではないのだと気付いた八千重の足取りは、軽かった。















(迎えに来てくれる存在、帰りを待ってくれる存在)