(私に出来る事といえば、調剤と簡単な応急処置位。私が作る薬が良いと言ってくれる馴染みの患者さんもいるし………薬師、として…やっていけるだろうか? 女の私に、やれるだろうか?)

「危ない!!」

ゆらゆらと揺れる水面を見つめて自問自答を繰り返していると、突然、横から何かに勢いよく突き飛ばされた。

「きゃあ!?」
「はやまっちゃ駄目だ! どんなに辛い事があったって、命を粗末にしちゃぁいけない! 生きなくちゃ!」
「え? え?? ええ?」

それから両肩を掴まれ、真剣な顔でこちらを見る男にガクガクと揺さぶられ、八千重は困惑する。

「娘さんみたいに美人なら、これから先にいくらでも良い事が待ってる! だから、早まっちゃぁ駄目だ!」
「は、早まる? ちょっと落ちついて下さい。な、何を言ってるんですか。私は別に、身投げなんて…」
「……………………へ!?」

身投げじゃぁない?、男はきょとんとしたように目を丸くさせて動きを止めた。
どうやら物憂げに橋の上から水面を見つめている八千重の姿を、思い詰めて身投げしようとしている様に見えたらしい。
八千重は倒された拍子に落ちた荷物を拾い上げ、頭を下げる男に向き直る。

「す、すみません! あたしはてっきり娘さんが…‥。その、…勘違いして……驚いたでしょう? 突き飛ばしたりして…悪い事をしました。怪我はありませんか?」
「大丈夫です。まあ、確かに驚きましたけど」
「あああ…っ。本っ当にすみません!」

頭を下げ続ける男に、八千重は呆れるのを通り越して、だんだん可笑しくなってきた。
クスクスと笑みが溢れる。
そしてはっと気付く。

(私、今笑った!)

開次が亡くなってから、笑う事など暫く出来そうになどないと思っていたのに。
『笑っ…ていなさい……笑って、生きな…さい……』

開次の言葉が蘇る。

「…………………」

(――なんだ、私、自分で思っていたより図太いみたい)

不安で不安で、どうしようもなくただ不安で、悩んでいたけれど、些細な事で笑える自分がいることに気付いた。

(そうだよ、悩んでばかりじゃぁいられない。悩んでいたって、解決出来るわけでも、誰かが助けてくれるわけでもない。自分がやらなくちゃ……やってみなくちゃ!)

八千重の口角が自然と上がり、吹っ切れたように瞳から光が蘇った。

(やってみよう! 笑っていれば、必ず良い事があるよね! ね、おとっつぁん!)

八千重は一度天を仰いで、それからまだ頭を下げている男に微笑みを向けた。

「どうか頭を上げて下さい。貴方を咎めようだなんて思っていません。逆に、感謝しているんです」
「…………………はあ?」

男は、自分を突き飛ばした不躾な者に、感謝しているとか不可思議な事を言う女子に呆気にとられたように、きょとんと瞬きを繰り返す。

「ふふ、頭のおかしな女と思わないで下さいね。私、悩んでいた事があったんです。だけど、貴方のおかげで吹っ切る事が出来ました。だから感謝を、と」
「…………ああ、そうだったんですか。あたしなんかでも人様の役に立てただなんて、その…嬉しいです」

そう照れたように言った男を改めて見ると、格好がどうにも薄汚れているのに気付く。
日が傾いてきてそう見えるのではない。
年の頃十九か二十位の男は、疲れた顔で風呂敷包みを一つ持っていた。

「………火事、ですか?」

思わず口から溢れた言葉に、男は虚をつかれたかのように目を瞬かせる。
それから自嘲するように苦く笑む。

「確かに火事にも遭いましたが、これは……身から出た錆のようなもんで…」
「?」

八千重は男が言っている意味が解せず、小首を傾げる。

「いや、此方の話。忘れて下さい」

自分を気にかける必要などないとばかりな言い方の男に、八千重は持っていた風呂敷包みの中から、懐紙に包まれたものを取り出して男に差し出す。

「助けていただいたお礼です」
「え!?」
「お受取り下さい」
「いやっ、でもあたしは…」
「風邪薬と滋養剤です。気付いていましたか? 顔色が少し優れないように見えます。病は引き始めが肝心なのです。どうぞご自愛下さい」

半ば無理矢理、男の手を取り握らせると、八千重は微笑む。

「…あ、ありがとう」

男の頬がうっすら赤くなり、照れ隠しをするように薬を握り直す。

「こちらこそ、ありがとうございました。私は八千重と申します」
「あたしは――「おや、あんたは確か開次先生の…」…」
「っ、左京先生!」

男が名乗る前に、突然かけられた声に八千重は目を瞬かせた。
現れたのは、開次が息を引き取った診察所の医師、左京だった。

「…おや、しまった。野暮だったか」

左京は、八千重と見つめあう様な形で前に立つ男を見て軽く目を見張って呟いたが、八千重には聞こえなかった。

「左京先生、先日はお世話になりました」
「さて、なんのことだ?」
「………ふふ、ありがとうございます」

惚けてみせた左京に、八千重は笑む。
その柔らかい表情に、左京は眉を上げ、それから口端を軽く持ちあげた。

「俺はお暇するとしよう。邪魔したな」
「―あっ、お待ち下さい!」

踵を返し、向きを変えた左京はそのまま歩を進めようとしたが、八千重の声に静止させられた。

「なんだ?」
「お聞きしたいことがあるのです。私の相談にのってはいただけませんか?」
「相談? そりゃぁ俺は構わないが……良いのか?」

八千重の言葉に、左京はちろりとおいてけぼりの男を見る。

「え、あ、いや! もう日も落ちるし…じゃぁあたしはこれで――…本当にすみませんでした。あと…その、薬、ありがとう」

左京につられた八千重の視線まで身に集めた男は戸惑いつつも、居心地の悪さにジリリと後退しながら言った。

「あ、いえ。私こそありがとうございました」

八千重が頭を下げれば、男は慌てて頭を上げさせる。

「ふふふ、ではまた」

そんな男の様子がおかしくて八千重はクスクスと笑い、左京と連れ立って歩き出した。
男の姿が見えなくなると、不意に左京が口を開く。

「あの男があんたの好い人かと思ったんだが、どうやら違ったみたいだな」
「えぇ? ち違いますよ。先程お会いしたばかりの方です」

八千重は思ってもいなかった事を言われ、目を丸くさせる。

「会ったばかりの男と随分親しげだったが…」
「あの方は、私の恩人なのです」
「恩人?」
「はい」

笑顔で頷く八千重に、左京は怪訝に顔を顰める。

「良く解らんな」
「あの方のお陰で、私、決心出来たのです。“薬師としてやっていこう”と」
「薬師! あんたは調剤が出来るのか?」
「え? あ、はい。江戸に腰を落ち着けるまでは、父と日の国を回っていたので、自然と覚えました。源信先生からいただいた書物で勉強もしましたが、殆ど父からの教えと独学です。……女人のクセにと思われるかもしれませんが、私には他に特技というものがないので…」

『薬師』という言葉に目の色が変わった左京に話せば、左京の顔がだんだんと険しくなっていく。
八千重は不安になり、だんだんと尻窄みになって話を終えた。

「―――…そうか、それで俺に相談したいだなどと言った訳か」
「…はい。左京先生でしたら、良い案を授けてくださるのではと」

難しい顔を隠す事なく言う左京に、八千重は風呂敷包みをぎゅっと抱え、頷く。

「良い案ねえ…」

顎に手をやり、ふむと難しい顔で考え出した左京。
ただ沈黙が続き、八千重と左京は互いに無言で歩を進める。
辺りも薄暗くなってきて、周辺の店先には提灯に火が灯りだす。
だが、まだ日本橋には遠い。

(左京先生とお会いしてなければ、真っ暗な道を一人で歩くところだった…)

八千重は、自分のしていた行動の浅薄さに気付き、唇を噛む。

(もう、迎えに来てくれる人はいないんだ……気を付けなくちゃ)

「あんたは…」
「え?」

徐に口を開いた左京に、八千重は足元に落としていた視線を上げる。

「あんたは何で俺にその話をしたんだ? さっきの口振りだと源信先生とも知り合いなんだろう? 俺よか源信先生に相談した方がよっぽど良い案が出ると思うんだがな」

至極当然の問い。
方や小さな診療所のしがない医者、方や名医と名を馳せる名高い医者…相談するなら、源信の方だと誰しもが思うであろう。
だが、八千重はふるふると首を振る。

「源信先生は、確かに名医です。おとっつぁんとは兄弟弟子で、私の事も気にかけて下さっています。ですが、その診療代はとても高直。おとっつぁんは、例えお金のない人であろうと関係なく診ました。私も、おとっつぁんのようにしたいのです」
「成程、ね。それで貧乏医者である俺に相談したわけか」
「えぇ!? ち違います、左京先生とおとっつぁんが似ていると思ったからです!」
「へぇ、そうかい」
「信じていませんね!」

心外ですっ、と訴えるように言えば、左京は吹き出して大きな笑い声をあげた。
八千重が「左京先生!」と声を荒げても笑いは収まらず。

「良し」

一頻り笑い終えると、左京は膝を打った。

「あんたの言う、良い案とやらを授けてやろう」
「…へ?」

ニヤリ、と笑う左京に、八千重は目を瞬かせた。