室内では、蒲団に寝かされた女人の枕元に開次が寄って容態を診ており、それから少し離れておかみが蒼冷めた顔でオロオロと立っていた。

「…何があった!?」
「そ、それが…開次先生の煎じたお薬を飲ませていたら突然吐いて……そ、それから倒れて…呼び掛けても反応がなく……っ」

おかみは動揺を必死で抑えながら、答える。

「そんな……あの煎じ薬も駄目なのか……それでは他に施しようが…っ、……小夜!」

話を聞き、開次は悲痛な声を上げた。

(おっかさん! おとっつぁん!)

八千重は父の取り乱した様子を始めて見た。
それだけ母の…小夜の容態の悪さが窺えた。

『慈安…』

九尾は、開次の震える背中を見つめ……目を伏せる。

「開次先生、どうか気を落とさず……私にお任せ下さい」
「な……何を…?」

九尾は静かに開次に歩み寄り、固く握った拳に手を重ねる。
そっと柔らかな動作で拳を解かせると、安心させるように微笑んだ。

「貴方様にうけた御恩をお返ししたいのです。どうか何も聞かず、お任せ下さい」
「し、しかし……」
「ご心配なら、部屋の外でお待ち下さい。時間はかかりませんから」
「八千重さん…」
「一刻を争うのです。私を、信じて下さい!」

力強い声に、ハッと開次の瞳が揺れた。

「……貴女を、信じます」

開次はサッと身を引き、事態をよく飲み込めないでいるおかみを連れて部屋を出て行った。
途端に部屋の中はシンと静まり返る。
九尾はそこで始めて小夜の顔を見た。
青白い肌に長い睫毛、薄い唇…小夜は、開次から聞いた通りの美人だった。
だが、やはり八千重に似ていなかった。

(この人が…私の、おっかさん)

八千重は始めて母の顔を見た。
残念なのは、その目が伏せられていること。
その声が聞けないこと。
触れて、抱きしめて貰えないこと…八千重がそんな事を考えていると、九尾がそっと口を開いた。

「綺麗な人…慈安ったら面食いね」

言って、自嘲するように笑う。

「……貴女が死ねば、彼は私を愛してくれるかしら?」
(!?)

八千重は九尾の言葉にギョッと目を見開く。

「慈安に会う前の私なら、そうしたかもね。―――でも、今の私は、もう人間を憎んでいた頃の私じゃない」
(人間を、憎んでいたんだ…どうして?)

八千重は九尾の独り言を聞きながら疑問に思う。だが、返事など返ってくる筈もなく、九尾の話は続く。

「結局、何度生まれ変わろうと、慈安は私を愛してはくれないんだ」
(………八千重さん…)

八千重は、九尾がどんな顔をしているのか分からなかったが、泣いているのではないかと思った。
声が、震えていた。

「貴女と赤ちゃんを助けてあげる……彼に助けて貰った命で、彼が愛する人達を助ける。私には、お似合いな末路だと思わない?」
(どういう意味…?)

八千重は九尾が何をしようとしているのか咄嗟に思いつかなかった。
だが、九尾が小夜に顔を近付けたことで、あっと気付く。

(病を、自分に移すつもりだ!)

そう考えつくと、佐助が言った言葉が思い出される。
“危篤の者を救うとあれば、いくら八千重様でもただでは済まない”

(この人、死ぬつもりだ!)

八千重は息を飲んだ。
だが、八千重にはどうすることも出来ない。
八千重がどうしよう、と考えている間に、九尾は病を吸い込んだ。
忽ち、息をするのも困難だった小夜の呼吸が落ち着き、肌の血色が良くなる。
九尾はそれを見て満足そうに微笑むと、力尽きたように倒れた。
九尾が倒れても、八千重の意識は何事もなく無事だった。
だが、九尾の目が閉じられてしまった為、八千重も暗闇に覆われてしまった。
痛い程の静寂の中、八千重は段々と九尾の鼓動が弱くなるのを感じていた。

(八千重さん、死なないで!)

八千重は必死に語りかけるが、八千重の声は届かない。
どんどん弱くなっていく鼓動に、八千重は恐怖する。

(駄目! 死なないで! 誰か…誰か、助けてっ!)

八千重の声が届いたのか、真っ暗な視界に光が射した。
暖かな日だまりのようなボンヤリとした光は八千重の視界を覆う。
それは九尾の視界を覆ったということだ。

『…………な……に…』

あまりの眩しさに九尾は意識を取り戻した。
八千重は安堵して息を漏らす。

『眩しい……光? どうして…』

九尾はうまく思考が回らないらしい。
響く声が途切れ途切れだ。
光は、九尾が意識を取り戻したことに満足すると、今度は逆に遠退き始めた。

『え、待って。どこに行くの?』

九尾は光を追いかけようと手を伸ばす。
だが光はまるで誘う様にその手をすり抜け、逃げる。

『待って…!』

九尾が力を振り絞って光に手を伸ばし掴まえると、光は先程とは違い、九尾全てを覆う程の光を放った。
九尾と八千重はたまらず目を瞑る。
瞼を閉じても光が分かる程に、視界が真っ白に変わった。
暫くして、光が収まり、八千重は恐る恐る目を開ける。
そこは真っ暗な世界だった。
だが、先程までと違うのは体が自分のものであるという感覚……手足が自由に動いた。

「ここは…?」

八千重は辺りを見渡す。
どこまでも暗闇が続き、そこにぽつんと八千重だけが居る。

「何があったの? 八千重さんは? おっかさんとおとっつぁんはどうなったの?」

突然暗闇の中に放り出されて、八千重は両親や九尾の事が心配になり、言葉を投げるが誰も返してはくれない。
不安が膨らんでいく。

「おっかさん…おとっつぁん……八千重さん!」
「大丈夫、安心して」

どうにもたまらず声を荒げれば、ふわりと優しく声が降りてきた。
八千重はこの声を知っている。
弾かれたように振り返れば、九尾が立っていた。

「八千重…さん?」
「そうよ」

一緒に行動をしていたので、鏡などでその顔を知ってはいたが、こうして改めて姿を見るのは初めてだった。
声も、なんだか少しだけ違う様に聞こえる。
だが、八千重に良く似ていた。
八千重より大人っぽい色気を感じさせたが、厭味はなく、反対にさばさばとして潔さのある男らしさも感じる……不思議な雰囲気の人だった。
同じ顔でも、八千重との歳と性格の違いが感じられた。

「ごめんなさい。私の記憶が、貴女を困らせているんじゃぁない?」
「あ、いいえ……でも、あの…そうですね。ちょっとだけ…」

違う、とも言えず、八千重はしどろもどろに答えた。
そんな八千重に九尾は笑う。

「いいのよ、気にしないで。予測していたことだから」
「え?」

言葉の意味が分からず、八千重は首を傾げる。

「私の最期の記憶を見たでしょう?」

最期の…、そう聞いて、八千重は眉を下げた。

「やっぱり、八千重さんはあのまま……」
「死んだわ」

言い澱んだ八千重とは違い、事もなげに九尾は言った。

「だけど、貴女が助けてくれた」
「え?」

キョトン、とする八千重に九尾は微笑む。

「あの光は、貴女だったの。貴女は身体を失い、魂だけになった私を導き、身体を貸し、共にあることを許してくれた」
「………………私が…?」
「“死なないで”と、言ってくれたでしょう?」

そう問われて、確かに八千重には覚えがあった。
だが、それは今の八千重であって、稚児の八千重ではない。
まだ生まれてもいない八千重に、そんな事が出来る筈がないのだ。

「だけど……」
「信じられないかもしれないけれど、貴女もあの光を見たでしょう?」
「はい…」
「貴女は私の恩人なの………ありがとう」

頭を下げる九尾に、八千重は狼狽える。

「そ、そんなっ、命を助けていただいたのは私の方で……っ」
「それにね、私、とても幸せなの。彼に…慈安に愛されてるもの」

娘としてだけどね、と言って楽しそうに笑う九尾に、八千重は呆気にとられてポカンとした。

「あぁ、それと安心して。私という個体はもう貴女の中にいない。私は、貴女と“ひとつ”になったの……だから、貴女は私で、私は貴女よ」
「え? えーっと…」

八千重が理解出来ずにいると、九尾はうーんと唸ってから再度口を開く。

「貴女は貴女ってこと。まぁ、私を受け入れてくれたせいで、多少の能力と私の記憶も持ってしまったけれど、それだけよ。貴女は歴とした人間」
「あ……でもじゃあ、今私の前に居る貴女は?」
「私?」

キョトンとした九尾だったが、すぐに、あぁ、と頷いた。

「私は、貴女の中で私じゃなくなる前に、私が残していた残留思念。貴女がいつか“私”を知った時に混乱するだろうと思ってその為に遺しておいたの……その私も、もう役目を果たしたからもうすぐ消える」

そう言っている端から、九尾の身体が闇に溶けるように消えて見えなくなっていく。

「ま、待って。まだ聞きたい事があるんです!」

八千重が歩み寄るが、九尾の身体は端から消えていく。

「大丈夫。消えてなくなるわけじゃぁない。戻るだけ」
「戻る?」
「そう。―――あぁ、それと…その……お願いがあるの。『ごめん。ありがとう』そう、白に……白沢に、伝えてくれる?」

白沢…旅立つ前の仁吉と九尾を思い出し、八千重は頷いた。