「そうだね。栄吉さんの作った菓子が早く食べたいな」

そう八千重が言えば、まんざらでもないようで栄吉はまた嬉しそうに笑んだ。
一太郎と八千重が側にいると、栄吉が際限なく話をするので、ここいらへんでと四人は三春屋を辞した。
表長屋から長崎屋まではほんのひとまたぎ。
塀を潜ってから離れに行く方が時間がかかるような具合だ。
帰る間、誰も口を開かなかった。
だけど八千重はそんなこと気にならなかった。
皆、考えていることは同じなのだろう。

(何故、薬種屋でも印籠を持っていたわけでもない栄吉さんを、あの“成りそこない”は襲ったのか?)

一太郎の部屋に着いて、佐助が火鉢の火をかきたて茶の支度をする様子を見ながら、八千重は考えていたが八千重には答えが分からなかった。
隣に座っている一太郎も難しい顔をして考えていたが、暫くしてふと八千重を見て、あ、と口を開いた。

「…その簪、あの時の?」
「え? あ、うん」

八千重は長崎屋に居候に来てから、おたえが自分が若い頃に使っていた簪やら櫛やらを、使って! 使って!と渡され、毎日のように違うものをつけていた。
今日は、一番のお気に入りの簪。
あの時、一太郎が似合うと言ってくれた玉の簪だ。

「―――そうか…」

一太郎がポツリと呟いた声が聞き取れず、八千重は首を傾げた。
一太郎はそれから無言のまま手代達を手招きして呼んだ。

「何ですか、若だんな。怖い顔をして」

仁吉が愛想よく笑って腰を下ろす。

(仁吉さんの方が怖い…)

八千重は胸中でこぼしながら、一太郎を見る。
一太郎は、やはり八千重よりも二人の兄やのことをよく知っていて、仁吉がこういう顔をするときは用心しなければならないということをわかっていた。

「ねえ、仁吉、佐助、お千重ちゃん。栄吉は私と間違えられて切られたんじゃないかい?」
「え?」
「驚いた。若だんな、なんで突然そんなことを言うんです?」

仁吉が大いにびっくりしたような顔を見せる。
八千重も何を言い出すんだと思ったが、わざとらしい仁吉のその態度に、怪訝に眉を顰める。
一太郎はいちだんと声を低くした。

「仁吉と一緒にぼてふりに襲われた日に、あいつは私の前で『香りがする。間違いない』と店の奥の間で言ってたよ。ただ、ここは薬種問屋、どこから香りがするんだか成りそこないにも分からなかったんだろう」

手代達が顔を見合わせている。
もう仁吉が笑っていないのが目に入った。

(……あぁ、そうか)

八千重はその様子で、今まで手代達が何を隠していたのかわかった気がした。

「そして、栄吉が襲われた。あいつは私が渡した包みと書き付けを持っていたんだよ。おまけに侍は書き付けを手に入れると、振りかざした刀を下ろして、どこぞに消えてしまったという」
「栄吉さんが薬種屋と間違われて怪我をしたなら気の毒なことです」
「そういうことじゃぁないだろう? 私の周りに、成りそこないが目当てにしている香りがあるんだよ。でも、私は家では印籠なぞ持っていないし、第一、その中には特別なものなど入ってない。いったいなんの香りなんだい? どういうことだい?」
「それを私らに聞くんですか? 成りそこないが何を考えているかは、どうにも分かりかねます」

突っぱねた返事を返す手代に一太郎は食い下がる。

「私のことなら二人の方が私自身よりよく知っているじゃぁないか。じい様に連れられてきた時から妙に心得ていたくせして」
「どう言われましょうと、知らぬことを答えたりできませんよ」
「でも、私の考えている通りなら、お千重ちゃんも私と間違えられて襲われたんだよ」
「「はい?」」
「へ、………私?」

八千重は突然話の矛先が自分に向いて虚をつかれてとぼけた声をだした。

「お千重さんは、ただの偶然で巻き込まれただけなのでは?」
「でも、お千重ちゃんも成りそこないに私が言われたのと同じ事を言われているし、何より成りそこないが探しているじゃぁないか」
「それは、『医者の娘』を探しているのであって、お千重さんを探しているとは決まっていません」
「何故?」

手代達の反論の中、八千重が一太郎に静かに問う。

「若だんながそう言うのは、なにか確信を得たからなんでしょう?」

一太郎は静かに頷き、そっと八千重を指差した。
正確に言えば、八千重の髪に刺さった簪を、指した。

「それは私がお千重ちゃんに、おっかさんから頼まれて渡したものだ。その簪、成りそこないに襲われたあの時にもつけていた…違うかい?」
「え―――――…あ、確かに…うん、つけてた!」

八千重が思い出して頷くと、やっぱりなと一太郎は呟く。

「その簪はお千重ちゃんに渡るまで、暫く長崎屋に……私が、持っていたんだ。だからその時に香りが移ったんだよ」
「…なるほど」

八千重は合点がいって頷いた。
仁吉と佐助は驚いた様に顔を見合わせた。
その顔は、演技ではないように見えて、八千重と一太郎は不思議がる。

「仁吉? 佐助?」
「やっぱり、何か隠してますね?」
「いいえ」
「私らは何も隠していませんし、知りません」
「嘘!」

そのまま睨み合うこと、暫し……。
手代達はすました顔のまま、話す気はさらさらないようだが、今日ばかりは一太郎も八千重も引かない構えだった。
中に挟まれた格好の火鉢の達磨が冷や汗でも垂らしそうな沈黙が、部屋に満ちていた。
どちらも口を開かない。
―――その時。

「若だんな、ちょっといいですか?」

部屋の隅からの一声が、その張り詰めた空気を破る。
さっと顔を険しくして佐助が声を荒げ、振り向いた。

「屏風のぞき! お前の出てくる場ではないよ。黙ってな!」
「……誰かいる…」
「え?」

ポツリと呟いた八千重の言葉を肯定するかのように、再度屏風のぞきの声が通った。

「犬神さん、白沢さん、お客がお見えで」

付喪神から珍しくも本性の名で呼ばれて、手代達は顔を奥に向ける。
屏風のぞきの後ろの暗がりからやおら現れたのは、背が高く貧乏臭い出で立ちをした一人の入道だった。

「!」
「これは見越の入道様。わざわざおいでとは知りませんで……」

頭を下げた手代二人は、早速に座布団を用意し、席を進める。
どう考えても、それは二人よりも上席の扱いだった。
一太郎は、兄や達より上位に位置するらしい妖を初めて目にした。

「ちょっとお邪魔しますよ、若だんな。おお、今日は具合もいいようだ。まずは良かった」
「……それはどうも」

八千重は、見越の入道と呼ばれた妖をジ、と見つめていた。

(この人…ううん、『人』じゃないけど……なんでだろう、私、知っている気がする)

細くひょろりとした坊主姿を見ていると、隣であっという声が聞こえた。

「その……いつぞや栄吉が作った大福餅を、仁吉から貰ってくれたお坊さん?」
「これはこれは、見ていなさったか」

見越の入道は大きな口を開けて、あははと笑う。

「あれは変わった味の大福餅であった。だがわしの周りでは好まれておったぞ」

にやにやとしながら言う。
機嫌が良さそうな入道の前で、手代達は下を向いて顔を強張らせている。

「ところで今日来た訳だがな」

入道は一太郎に笑い顔を向けた。

「聞き慣れない事を話すかもしれないが、若だんな、お前さんのことだ。よく聞いておくれ」
「はい」

一太郎はそうとしか答えるしかない。
出された茶を一口啜ると、入道は口を開いた。















(懐かしい顔に、上機嫌)