(お千重ちゃんが普段持っていて、香りのするものなんて……匂い袋くらい。でも、匂い袋なら若い女子は大抵懐に忍ばせているものだし……うーん?)

余計わからなくなってしまった。
首を捻って唸る一太郎の姿に、八千重は読んでいた本をパタリと閉じる。

「若だんな、また考えてるの?」
「…うん。どうしても気になるんだよ」

八千重の視線が本から自分に移って嬉しい反面、一太郎は苦笑いする。

「仁吉さんと佐助さんには聞いてみた?」
「聞いたけれど……」

一太郎はゆるゆると首を左右に振った。

「そう」

やっぱりなと思いながらも八千重は息を吐く。

「若だんな、栄吉さんですよ」

佐助の声に、視線を向ければ、一太郎の幼馴染みが襖の向こうからひょっこりと顔を見せていた。
いつものように菓子の包みを下げている。
八千重と一太郎の顔が嬉しそうに綻ぶ。

「栄吉!」
「栄吉さん!」

ニコニコと出迎えた幼馴染みと最近友達になった女子に栄吉は少々圧されながらも、部屋に入る。
佐助も部屋に入ったのだが、そそくさと茶を淹れると、すぐに店に戻って行った。
どうやら船が港に入ったらしい。
廻船問屋の手代は、忙しいようである。

「まだ離れに押し込められているんだね、一太郎。お千重ちゃんも…大変だね」

八千重が長崎屋にお世話になっていることを知っている栄吉は、最初に開次のことを話した際に、「子に甘い親は、一太郎のところだけじゃなかったんだ」と驚いていた。
だが、こうも過保護が過ぎれば驚きよりも同情が勝るようで……八千重は栄吉の労るような憐れむような視線に苦笑いで返した。
それはまた一太郎もまた然り。

「これはいけるんじゃないかい」

今日の差し入れは、黄粉でまぶした餅に黒蜜をかけたもので、一太郎の言うようにとても美味しかった。
八千重が同意の意味で頷くと、栄吉が無言で擦り寄ってくる。
その栄吉の表情に、一太郎は思わず屏風絵に目をやった。

「一太郎……言うべきかどうか、迷ったんだけど」

言いにくそうではあるが、言わずにはいられないらしい。

「兄さんのこと?」

ハッとして八千重が見ると、栄吉はすぐに首を縦に振った。

「みんなからこっぴどく叱られたからね。もうこの話はご法度なんだろうが……」
「言いなよ。気になるじゃないか」
「これ以上、松之助さんのことに関わっちゃいけないと言われたんだけど、気にかかってね。あれからもこっそり様子を見ていたんだ。今、松之助さん、大事になってしまっているんだ」
「何かあったの?」

難しい顔をした栄吉が口を開いた。
松之助が奉公している桶屋、東屋には、二人の子供がいる。
跡取りの息子と、二つ年下の娘だ。
その娘の方が松之助を憎からず思っているのが分かって、揉めているという。
八千重は、どこかで聞いた名前に首を捻る。

(桶屋、東屋…?)

「東屋の若だんなは、おれが言うのもなんだが、できの良い方じゃないのさ。そこへもって、妹が仕事のできる奉公人とくっつきでもしたら、若隠居でもと言われかねない。おかみも息子がかわいいし、娘にはもっと良い縁をと望んでいるしで、松之助のことが気にくわない。有り体に言うと、追い出されかけているのさ」
「そんな。店を出されたら、兄さんどうするのさ」
「まあ、若いし体も丈夫だ。どこぞの口入れ屋にいって、奉公の口を探すしかないだろうね。義理の親の家には帰れまいしね」

それは何とも心もとない話だった。
親はなし、育った家と言える奉公先も出されてしまうのでは、己が身を浮草よりも寄る辺なく思えてしまうのではないか。
一太郎だけではなく、八千重も表情を暗くした。

(うちで雇ってあげられたらいいんだけど……医者は…どうだろう? 人を選ぶ職だから…)

八千重が難しい顔で考えていると、一太郎が徐に立ち上がった。
そして、部屋の隅にある小箪笥を開けて、そこから紙入れを取り出した。

「栄吉、見つかったらまた、嫌なことを言われるかもしれない。それでも頼まれてくれるかい?」
「おれから言い出した話だからね」

快く請け合った幼馴染みに、一太郎は一朱銀、二朱銀合わせて二両ほどの金をかき集め、紙に包んで渡した。

「これでとりあえずはどこぞに落ち着く足しになるかも……ああ、でもどこの誰かも分からない者の金では、受け取らないか」

一太郎は、紙の上に短く、『廻船問屋長崎屋の弟より、桶屋東屋の松之助様へ』と書く。
これに栄吉と八千重の顔が曇る。

「いいの?」

八千重の視線が屏風を指す。

「そうだよ、こんなことしたら、店を訪ねて来るかもしれないよ。またひと騒動だよ」
「それでも……放っておけないじゃないか」

一太郎はちらりと八千重につられるように奥にある屏風に目をやる。
だが、妖はなんの徴も示さなかった。

「それじゃぁ、いいんだね。行ってくるよ」
「栄吉、本当に迷惑ばかりかけてすまない。いつかきっとお返しはするからね」
「期待してるよ」

幼馴染みはそそくさと部屋を出ていく。
その背を見送っていた八千重は、何故かザワリと背筋が粟立ち、立ち上がる。

「栄吉さん!」
「な、なんだい?」

大声で呼び止められ、栄吉は驚いて振り返る。
今にも泣きだしそうな、険しい顔の八千重に、同じように驚いていた一太郎も眉間に皺を寄せる。

「お千重ちゃん?」
「……気をつけてね」
「はは、ありがとう。行ってくるよ」

栄吉は心配性だなあと笑って、軽く手を振り、今度こそ部屋を出て行った。
八千重は、嫌な予感に渦巻く胸を落ち着かせながら、それを見送った。
だが、八千重のその悪い予感が当たった。

「若だんな、お千重さん、栄吉さんが刺された!」

栄吉が出て行ってから一時もしない内に、そう言って仁吉が離れに飛び込んで来た。
八千重と一太郎は、息を呑む。

(そんな…っ)

八千重の脳裏に、一時前の栄吉の笑顔が浮かび、顔から血の気が引いていった。















(引き止めればよかった)