「しっかし、いー男だったなぁ〜あの手代さん。…仁吉さんだっけ?」

家に帰った八千重は、早速買ってきたせんぶりを刻みながら呟く。
するとその向かいで天秤で薬種を計る父、開次が朗らかに笑って頷いた。

「若だんなも中々の色男だっただろう?」
「うん、確かに。役者なら千両は稼げるよ」
「若だんなは頭も良いし、人柄も良い。しかも大店の跡取り息子。あれで体さえ丈夫とは言わずとも、せめて人並だったらなぁ」

開次が残念そうに言い、八千重も確かにと頷く。

「旦那にしたいと誰でも思うさね」
「おや、お前もそういうことを言うような年になったんだねえ」

開次の手が止まり、カタン、と天秤が傾く。

「おとっつぁんたらいつまでも子供扱いして。私だってもう十五よ」
「…そうか。時が経つのは早いものだな」

開次の目が、寂しそうに伏せられる。

「お小夜が死んで、もう十五年か…」
「…おとっつぁん……」

八千重の声に開次はそっと微笑む。

「…お前には、詳しく話したことなかったね」
「…おっかさんのこと?」

開次は一つ頷き、ゆっくりとした口調で話しはじめた。

八千重の母、小夜は体の弱い人であった。
八千重を産んで暫くして亡くなった。
開次はまだ駆け出しだったが、腕が良いと評判の医者であった。
それでも母を助けることは出来なかった。
元より、妊娠し出産に耐えられる身体ではなかったが、それでも子供が欲しいと言って聞かなかったのだ。
今となっては本人に聞く術などないが、開次は八千重に、小夜が自分の命がもう長くはないことを悟っていたのだろうと悲しそうにそうこぼした。
独りになってしまう開次に、自分の代わりに側にいて全てをわかちあう事の出来る者を遺したかったのだろうと…。
小夜は心の優しい温かな女子だったと開次は優しい顔で語る。
八千重は、その顔がとても好きだと思った。
小夜は、お百度参りに子宝祈願、それから開次の調合した薬を飲み、漸く懐妊した。
小夜も開次も諸手を上げ喜んだが、直ぐに堕胎してしまいそうになった。
母子共に剣呑な状態であったが、絶対安静にしている他に術は無く、開次は気休め程度の薬を作る事と神に祈る事しか出来なかった。
だがそんな時、開次を訪ねてきた人がいた。
その人は大層見目麗しい方で、事情を知ると寸の間黙り、やがて一つ頷いた。
そして、危篤であった母子を助けたのだ。
だがその人は喜ぶ開次が気付いた時には既に何処かへ旅立たれた後だったらしく、礼も伝えることが出来なかった。

「だから、私はお千重にその人と同じ名を付けたんだよ。感謝と尊敬、そして祈りを込めて―――」

その人の様に、人を助ける偉大な人に成るように…。

八千重は初めて自分の名前に込められた父の想いを知り、胸がじんと熱くなった。
そして、ふと湧いた疑問に口を開く。

「その人は、おとっつぁんの知り合いの方だったの?」
「いや、私は知らないと思ったのだが…その人が言うには、私が自分の命の恩人なのだと言っていたよ」
「じゃあ患者さんだったのかな?」
「いや、あんな美人なら忘れる筈ないよ」

開次は自分でも考えて見たのだが、結局思い出せないのだと言う。

「そういえば、最近のお前はあの人に良く似てきているよ」
「え、おっかさんじゃなくて?」
「お小夜も気立ての良い美人だったが、お小夜よりもやはり八千重さんに似ているよ」
「……そう」

八千重は何か複雑な心持ちになった。

「さ、患者さんが待っているんだ。早く仕上げちまおうか」
「…うん」

気を取り直した開次が声をかけると八千重も頷き、またせんぶりを刻み始めた。

「…………………八千重さん…か」

(一体どんな人だったんだろう? 生きているなら、会ってみたいな…)

八千重は、長崎屋の若だんなと会った時に感じた妙な既視感や、手代…仁吉にも感じた不思議な感情を忘れ、自分と同じ名の恩人に思いを馳せるのであった。















(廻り始めた歯車)