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「それでは沈様、私は公務が終るまで弊殿の釣殿でお待ちしています」
静かに庭の池から聞こえる水音を背に、宮廷魔導師セシールは、主である南方の海王、沈に語りかけました。
海王と申しましても、その容姿は決して武骨な軍人でもなく、髭を蓄えた紳士等でも御座いません。その姿は小さくまだあどけなさを残した年端もいかない少年で御座います。横に立つ従者のセシールと背丈を比べるならば、周りの淑女よりも3寸ばかり背の高い彼女の腰程度しか御座いません。しかし、人は見かけによらぬもの。彼こそが南の海域を司る聖獣、カイオーガで御座います。身体の内に秘めます力は凡人非凡をも凌駕する程に大きく、強大なものですから、普段はその身を小さく留められているのでありました。
「分かった!!夜白様とのお話が終わったら迎えに行くね!!」
優しく微笑むセシールに、シンは大きく頷きました。そして向かい合っていたこの社の主、西海の海神夜白の横へと駆け寄ると、直ぐ様彼の直垂の裾を掴み満面の笑みを浮かべたので御座います。夜白の方も、そんな童のような風体に腹を立てる訳でもなく、バテレンのマリア如き微笑みをいっそう強め、沈の頭を優しく撫でるのでありました。
「ふふ、それでは暫しお借りしますね」
「はい。夜白様、沈様をよろしくお願い致します」
にこやかに会釈をする夜白に、セシールは深々と頭を下げました。彼女の言葉に応えるように頷くと、夜白は沈を連れて本殿の奥へと消えて行きました。
このように地方の海神同士が交流する様は決して珍しいものでも御座いません。個人差はありますが、大概何処もお互いの情勢や変化などを伝えることで、互いに均衡を謀るのが神間でも周知の沙汰でありました。と言うものの、周りに比べればここの親交は深く、会合に乗じて遊戯に身を投じているのもあり、その頻度は少なく無いのも事実。しかし、普段の公務の真面目さが互いに幸を相しているのか、それについては程好い息抜きと咎められた事は1度も御座いません。それ故、2人はいつも会合を待ち遠しくしておりました。
そして、待ち遠しく感じているのは、何も2人だけでは御座いません。
ここへ同行してきた従者、セシールもまたここへ来るのを心待にしていたので御座います。
セシールはいつものように本殿から社殿を繋ぐ渡殿を通り、社の1番奥にある釣殿へとやって来ました。そこは冂字型に造られた建物の先端に位置する吹き抜けの東屋のような所で、庭にある大きな池の真上に高床式で組まれておりました。普段からここの者達の休憩所として使われておりますが、本殿から1番遠く、他に日々利用されるような社殿も御座いませんので、使うものはあまりおりません。皆普段は本殿から程近い、東西の対屋を利用するので御座います。
そんなわけで、セシールは沈を待つ間は社の従者達の邪魔にならぬよう、この釣殿で1人沈の帰りを待つのでありました。
そしてその間の退屈な時間を、セシールは待ち望んでいたので御座います。実は彼女、数ヶ月前の会合ですれ違いました1人の青年に、心惹かれているので御座います。男の名は界雷。夜白の直属の従者であり、自身も神職に身を置く若い青年で御座います。鋭い眼光に似合わず、風体は小さくセシールよりも4寸程低い背でいつも重そうな書類の束を運んでいるのでありました。
セシールはその姿を釣殿の縁に肘をついて眺めるのが楽しみなのです。丁度池の中央に対峙すれば、その向かいにある細殿が中まで見えましたから、そこからいつも仕事をしている界雷を何の気なしに視線で追うので御座いました。
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