ぽかん、と口を開けているしかなかった。何を言っているんだ、冗談を言っているのか。その言葉から逃避したいのか、ボクの口からは乾いた笑い声が漏れた。
「あは…っ」
笑えない。笑える冗談じゃない。ボクは困ったように眉を寄せるなまえさんをキッと睨み付けた。それにビクッと肩を震わせる彼女を見た途端、罪悪感がボクを蝕んだ。何を愛する人を怖がらせているんだ。ああ、ボクはバカだ。
「…あの、大丈夫、ですか?」
頭を抱えて外の情報をシャットアウトしていると、聞き慣れた愛おしい声がボクの中に落ちてきた。警戒しながらも心配してくれる、その声に危うく涙腺が崩壊しそうになる。
「…うん」
「あ、えっと…良ければ、私の事やあなたの事、教えてください…全然、覚えてなくて」
「…うん」
「…あの…?」
今やなまえさんではなくなった彼女は泣きそうな表情でボクを眺めていた。本当に、この人は忘れている。ここがどこなのか、ボクが誰なのか、自分が誰なのかさえ。ボクだって泣きそうだ。ボクは目頭を指で押して、顔を上げた。そこにはいつも通りのなまえさんがいる。
病室に設置してあったメモを手に取り、最初は彼女の名前を漢字で綴る。そのメモを彼女に向けて、一応読み上げた。
「みょうじなまえさん。それがキミの名前だよ」
「みょうじ…なまえ、ですね。覚えました…多分」
「…で、」
次に僕の名前を空いたスペースに綴る。
「狛枝凪斗。凪斗って呼んでくれて構わないから」
「あっ、はい…じゃあ、凪斗、さんで」
新鮮な響きに理不尽にも感動を覚えてしまう。いつもは凪斗と呼び捨てで呼ばれるものだから。そこにドタバタと騒がしい2、3人の足音が聞こえてきた。日向クンたちはこのなまえさんを見たら、なんて言うんだろう。この絶望的な状況になんて言うんだろう。
「狛枝クンッ、なまえさんが起きたって…っ!!?」
「みょうじさん、大丈夫だった?」
「狛枝ッ、連れてきたぞ!!」
雪崩のように病室に転がり込んできたメンツに苦笑する。苗木クン、七海さん、日向クン。いつも一緒に行動していた人たちだ。その3人を見たなまえさんは人見知りなのか、恥ずかしそうにはにかんだ。
「は、はじめまして」
ああ、やっぱり。そう呟いたのは、3人ともボクと同じ表情で反応したから。絶望的。そう語っていた。そんな絶望的な状況で、
…ーーぴょこっ
ベッドの向こうからそんな効果音が聞こえてきた。見ればベッドによじ登っている物体があった。それは白と黒、二つの顔を持つ見知ったクマ。ボクらから見て右側は黒色で、口は裂けて目は怪しく光る怖いクマ。左側はつぶらな黒い瞳を持った普通の白くま。
…ああ、なんて絶望的なんだ。
「うぷぷぷぷっ、全員ぜっつぼー的な顔してるねっ!!」
それは絶望的に絶望を愛する人ーー江ノ島盾子が操る"モノクマ"だった。
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