『誰が言い出したのかはわからない。
けれどその噂はひっそりと、そして確実にネットを中心に広がっていった。
オフィス街のど真ん中、高層ビルが立ち並ぶ大通りから一本入っただけの路地裏に存在する小さな花屋。
その店主の作る花束を贈って想いを告げれば、どんな恋も叶うのだ、と ―――』


「なにこれ」
「魔法使いがいるそうですよ、その花屋」
「……はい?」
午後一で秘書に見せられたのは、都内の隠れ家的なカフェや景色の良い穴場スポットを自分の足で歩き紹介しているという人気のブログだった。
路地裏の魔法使い。
そんなタイトルを冠した紹介記事の日付は二週間ほど前のものだ。少し離れた場所から撮影したらしい店の外観は一見、カフェか雑貨屋のようだった。よくある花屋のように、店の表に所狭しと花を並べていないせいなのかもしれない。開かれたチョコレート色のドア、通りに面して大きく取られたガラス窓から店内の様子は見てとれる。なるほど、花屋だ。
「見たことないな。近所?」
「歩いて五分くらいでしょうか」
「へぇ、知らなかった」
その記事は『魔法使い』の噂の詳細の他に、何枚かの花の写真と店内の一部のみの写真とで構成されていた。所在地や営業時間はおろか店名さえ記載されていないため、記事を読んで興味を持った人間がいても辿りつく術がない。実質なんの宣伝にもなっていないあたり、店側としてはどうなんだろうか。
「ああ、これは店主が許可しなかったんじゃないかと。このブログ主は記事の掲載前にいつも店側にお伺いを立てているようですから」
「そうなのか? でもなんで? せっかくの宣伝のチャンスだろうに」
「さあ。ご自分で聞いてみたらいいんじゃないでしょうか」
「……」
それはつまり自分で行って見てこい、という提案の形をした命令だ。秘書が社長に命令してしまえるのはどうかと思うが、彼女と俺の力関係を考えればしかたない。
もう一度記事――その『噂』の部分に目を走らせる。どうにも眉唾だが、特別なのは店自体でも花でもなく店主の腕、つまりその手で生み出される花束ということらしい。
「ちょっと怪しくないか? なんかの宗教っぽくねえ?」
「普通過ぎるほど普通の花屋ですね。で、これが噂の店主です」
机上に置かれた写真に目を向けたのはそこに妙齢の美女がいることを期待してだ。恋を叶える花屋の店主と聞けば誰だってそう思うだろう。けれど、そこで笑っていたのは美女でも、もっと言えば女でもなかった。
「……男?」
「意外でしょう? 沢村栄純、二十七歳」
手入れの行き届いた桜色の爪の先が指した隠し撮りらしいスナップ写真は、花を抱えて客の男と談笑しているエプロン姿の若い男が写っていた。普通だ。すごく普通。
いや待て、今なんて言った?
「二十七?」
「二十七。私も間違いかと思って確認したのでそれは確かです」
「同い年? 冗談だろ」
店主だと先に聞いていなければ確実に学生バイトだと思った。それくらい違和感があった。
服装自体はそんなに砕けているわけじゃない。たぶん制服にしてるんだろう、白シャツに黒のパンツ、ベージュのエプロンというシンプルな出で立ちは小洒落たカフェ店員を思わせる。印象を一気に若返らせているのはひとえにその童顔だ。
「面白いでしょう?」
思わず見上げた秘書の顔には滅多に見られないほど晴れやかな笑みが浮かんでいた。通常業務を完璧にこなす傍ら、この秘書はたまにこうして街やネットの噂の中から自身のアンテナに引っかかったものを拾ってくる。今までそれが仕事に結び付いた確率を思えばその嗅覚は決して侮れない。その彼女がここまで自信ありげなのは、この店にはきっと画面や写真では量れないなにかがあるということだ。
「よし、じゃあ近いしちょっと見てくるか」
「この書類が終わったらご自由にどうぞ。近いですし」
「……」
目の前に積まれた迫力のある書類の山の向こうでにっこりとほほ笑む秘書――礼ちゃんに逆らう勇気は俺にはなかった。
つくづく社長なんて因果な商売だ。

結局ここぞとばかりにたまった書類を押しつけられ、その店を訪ねることができたのはもう日がだいぶ傾いてからだった。周囲の高層ビルの中、そこだけ時の流れから切り離されたようにぽつんと存在する、古い五階建てのビルの一階にその店はあった。三つ入っているテナントの残り二つは洋菓子店と古書店だ。ビルと歩調を合わせたかのようなどこかレトロな色合いは三軒ともに共通していて、だからこそ確かにその通りは路地裏と呼びたくなる雰囲気がある。あのブログ主はなかなかの文才があるらしい。
ドアをくぐれば花の香りにふわりと包まれる。店内には先客がいて、レジカウンター越しに何やら相談中らしかった。その相手、噂の店主の顔はちょうどレジの影になってよく見えない。見えるのは真っ黒な髪とつむじだけだ。話が終わるのを待つ間に、ぐるりと置かれた花や壁のリースをざっと見て回る。狭い店だ、二人の会話はどうしたって耳に入ってくるが、幸い二人ともそれを気にしている様子はない。
「その子のイメージは?」
「癒し系って感じです。えみりんにちょっと似てます」
「ごめん芸能人わかんね。じゃあその子を思い浮かべた時にぱっと浮かぶ色は?」
「薄い水色かな」
「……水色、っと。うん、あとは…入れて欲しい花はある?」
「えっと、カスミソウっていうんでしたっけ? あの白い細かい雲みたいなの」
「了解。じゃあ金曜の四時から五時の受け取りってことでご用意しときます」
「よろしくお願いします!」
大学生くらいの客のどこか思いつめたような横顔には少し赤みが挿していた。察するに噂の花束の注文らしい。その客が出ていったあとも、店主はカウンターに両肘をついたまま一心不乱になにか考えこんでいる様子だった。これはもしかしなくても俺の存在に気づいていない。
「なあ」
「ぎゃ!」
……そこまで驚かなくても。できる限り控え目に声をかけたつもりだったんだけど。
「失礼しました、いらっしゃいませ!」
あたふたと俺の前に立った店主を無言で見下ろす。そりゃもう穴が開くほどじろじろと。無遠慮な観察は値踏みとも言い換えられる。気を悪くさせるだろうことは十分承知だ。それによってどんな反応が返ってくるかも見たいのだ、ともし口にしたら殴られるかもしれないが。
少しぎこちない、けれどおそらく本人的には精いっぱいの客向けの笑顔。写真の第一印象そのままに、とうてい二十七歳には見えない男だ。髪型のせいも少しはあるのか。顔立ちは良くも悪くも普通だ。あえて分類すればかわいい系だろうが、人混みに紛れればすんなりと埋没する容姿。ただ、俺の不躾な視線に居心地悪そうに身じろぎしながら、それでも逸らすことなく見返してくる強い目がひどく印象に残る。陳腐な表現で恐縮だが、吸い込まれそうな目だ。
「あんたが沢村さん、だよな?」
そう口にしたとたん、俺を見上げていたぎこちない笑顔が一気に胡散臭いものを見る顔に変わった。さりげなく取られた一歩分の距離が示すのは警戒、だ。別にとって食いやしないのに。
「そうですけど。誰っすか?」
「あ、俺はこういう者です」
「御幸一也。……取締役? 社長? あんたが?」
渡した名刺から顔を上げた店主の目はさらに険が増した気がした。同時に一気に扱いがぞんざいになったような。あれか、店に因縁をつけに来たヤのつく職業の人間とでも思われてるのか? もしかして。
営業用の笑顔を脱ぎすててしまえば、そこにいるのは目つきも口も悪いちょっと童顔の普通の男だ。まあこっちの方が素がよくわかってやりやすい。
「何の用すか?」
「いや、面白い店があるって部下が言うから見に来てみたんだけど、わりと普通の花屋だな?」
「わりとも何も、天井のライトから表の玄関マットまで一点の曇りもなく普通の花屋っすよ。てか客じゃないならどいてくんねぇかな、邪魔だ」
「残念、客だ。そこのピンクの薔薇を全部もらうわ」
「へ」
パッと目についた花桶を指さすと、花屋はただでさえでかい目をさらに丸くした。そんな顔をするとまるで高校生なんだけど。
「全部ぅ? 50本はあるけど?」
「全部。ただし、一本ずつ個包装を頼む。 うちのかわいい社員達へのプレゼントだ」
客になにか文句でも?と笑顔を浮かべれば、エプロン姿の男は心底嫌そうな顔をして「まいどありぃ」と呟いた。

後で配達すると言い張る花屋に「社員の退社時間に間に合わせたい」という主張を押し通し、店の隅に置いてあったスツールを勝手に移動させて作業台の横に陣取る。ますます嫌そうな顔をされたけど、そもそももう少し店とこの男を見てみたくてしたことだ。とはいえ、確認した腕時計の針はうちの社の終業時間まで一時間を切っている。実質三十分で全部包めというのはさすがに無理難題だったかもしれない。
「店員は? 他にいないのか?」
「こんな小さい店に二人も三人もいらねぇし」
「さっきの客の注文さ、告白用だろ。この店が口コミで話題になってるのは知ってるか?『恋の叶う花屋』とかなんとか」
「ああ、なんか取材したいってのは何件が来た。断ったけど」
「なんで? いい宣伝になるだろうに」
「全部一人でやってんだからそんなに流行ってもらっても困るんだよ。配達に出てる間は閉めてるし、昼寝の時もだし」
「昼寝?」
「午後一時から三時まで、当店は営業時間外です」
「なにその王侯貴族生活」
「自営業者のささやかな特権っすよ。花屋の朝は早ぇの!」
一度外れた客認定は買い物をしてももう戻らないらしく、この店主はよく言えばフレンドリー、歯に衣着せずに言えばいっそすがすがしいほどに口が悪かった。ただ、途切れない会話のあいだにも、その手はものすごいスピードで俺が注文した薔薇の一本一本を捌いていた。綺麗に個包装されリボンをかけられた花の山が見る間に高くなっていく。機械化されてんじゃないかってほどに早いのに、その仕上がりの美しさは素人目にもはっきりとわかる。人を見た目で判断するべからず。これはかなりの腕前だ。
「もったいないな」
「なにがだよ」
「その腕と話題性。アイドルに仕立て上げるにはちょっと歳くってるけど、顔立ちは悪くないから人気は出るだろうし、いい素材なのに」
「だから俺はだなあ、」
「うん。ついさっきまでそう思ってたんだけどな。わかったわ」
「は?」
「取材を断ったのは正解だよ。ここはこれでいい。ひっそり細々やってるからこそ『魔法使いの店』としてのブランドが成り立つ」
小さい頃に読んだ本に出てきた魔法街のようだ。
細い路地の向こうに突然現れる異世界。辿りついた者の前にだけ開かれる扉。自分だけの隠れ家を見つけたようなワクワク感とほんの少しの優越がそこにはある。
誰にも内緒にしておきたいような、でも誰かにしゃべりたくてうずうずするような。おそらくその絶妙のバランスがゆっくりとした口コミの広がり方の理由だろう。下手にメディアに取り上げられればその特別感はあっという間に失われてしまう。何よりこの店に行列は似合わない。
「細々で悪かったな。人は身の丈にあった生活が一番なんだよ」
唇を尖らせた店主が、最後の一本を綺麗に包みリボンをかける。パチン、と小気味よく響いたハサミの音と同時に浮かんだ満足気な笑みは子どものようで、さっきまでの鬼気迫る集中力と迫力が嘘みたいだ。つくづく惜しい素材ではある。
「おまちどう。まとめて紙袋に入れてもいいっすか?」
「頼む。領収書、さっきの名刺の会社名で切っといて」
「あんたが出すんじゃないのかよ」
「福利厚生費から捻出する」
「セコい!」
ずいぶんな言われようだが、慎重に預けられた紙袋からのぞく柔らかなピンクとふわりと広がる花の香りは確かに和む。こういう社員サービスもたまにはいい。
「決めた。これからうちの社用の花は全部ここで頼むことにするわ」
「はぁ? んな大口無理に決まってんだろ、もっとでかいとこに頼めよ」
「大丈夫だ小さい会社だから」
「そんな味気ない仕事はお断りだ」
「へえ? じゃあやっぱり社を挙げてここのことを大々的に宣伝しちゃおうかなあ」
「え」
「いかにも中高生に人気が出そうなコピーじゃないか? 恋を叶える魔法使いのいる花屋だなんてさ」
「あ、あんたさっきうちは細々なのがいいって、」
「客が殺到して昼寝する暇もなくなるかもな」
「……!」
「どうする? 魔法使いさん」
「卑怯な!」
赤くなったり青くなったり忙しかった店主の顔色が、最終的に赤くなったまま止まった。握りしめた拳がぷるぷる震えてるのは怒りを抑えているからだろう。
勝負あり、だ。
「そんなわけで今後ともよろしく。また来るわ」
「来なくていい!」
「俺、客だけど?」
「……まいどありぃ!」
「はっはっは!」
声を上げて笑ったのは久しぶりだった。柔らかなドアベルの音色に見送られ、夕暮れのビジネス街を大量の花を抱え歩く。店を訪ねた当初の目的はとっくにどこかへ消えてしまっていた。会社の御用達花屋に、というのは完全にあの場での思いつきだ。そう頻繁にあちこちに花を贈るような仕事でもない。なのにどうしてあんなことを言ってしまったのか――理由はそう、強いて挙げるならば、口の悪い、けれど鮮やかな魔法の手を持つ同い年の花屋の店主ともう少し深く関わってみたくなった。それだけだ。
立ち止まって見上げた夕空のオレンジがかったピンク色は、抱えたバラの色によく似ていた。
心が知らず浮き立つ、そんな鮮やかな空だった。