19 倉持が帰っていったあとの部屋はずいぶん広く感じた。沢村はいずれ必ず帰って来るのだという希望がなければ、その唐突な静けさにきっと耐えられなかっただろう。 悔いが残るのは、あまりに突然すぎて、あいつが消える時になにも言ってやれなかったことだ。待っている、とちゃんと伝えられなかったこと。 離れている不安が全くないと言ったら嘘になる。あいつは今、生まれてからの殆どの時間を過ごしてきた世界に、大好きな人たちと一緒にいるんだから。 けれどあの時、俺とずっといたいのだと、あいつはまっすぐな目で言い切った。 なら俺はただ、信じて待つだけだ。 沢村がいない最初の夜は、案の定よく眠れなかった。あの絶対かつ唯一の俺の抱き枕は今どこで何をしているのかと考え始めたら止まらなくて、けれどそんな俺をたしなめるように、布団の足元にどっしりと居座ったのがサンマだった。 その日からそこを定位置にして寝るようになったこの猫は、もしかしてあの小春日和の日の沢村の願いを忠実に守っているのかもしれない。つまり俺のお守り役だ。 沢村が消えて三日目の夜、突然帰国した実家の両親から連絡があった。なんでも夜逃げしていた友人が宝くじの一等を引き当てたらしく、負債の穴埋めに使った俺の貯金も全額戻って来たらしい。 さらにその翌日、いつも通り出社したら、見えない雲の上でまたも権力闘争があったらしく、俺を閑職に回していた派閥のトップが一夜のうちに辞職していた。 どれもこれも俄かに信じられない話だが、今の俺は、この一連の動きが誰によるものかを知っている。世の中、目に見えない所でいろんなことが動いているもんだ。 一新された上層部は俺に対してなんの含むところも無いらしく、以前のポジションへの復帰を打診されたが断った。 あいつが帰って来たとき、以前のような深夜帰宅続きでは絶対寂しがるからだ。 かわりにそこそこ忙しいが残業のほとんどない部署に回してもらい、そこそこの給料をもらい、日々ほぼ定時に帰宅している。 事業推進部の面々も、大半は元の部署に復帰して散り散りになったが、相良さんや江木さんとの緩やかな交流は今もゆるく続いている。 沢村が帰ってきたら二人にも会わせてやりたい。きっと気が合うはずだから。 そんな風に、それなりにめまぐるしい日常を努めて淡々と過ごし、季節が春真っ只中を迎えたころ、倉持がふらりと姿を見せた。 一通の手紙を手にして。 「もしかして、沢村から?」 「言っとくけど本当はこれも違反だからな。まったく、総長はあいつに甘すぎる」 これでもかという渋面に笑い出しそうなったのをなんとかこらえる。多忙の中、一通の手紙をわざわざ届けに来ているこいつも人のことは言えないだろうに。 真っ白な手紙の封を切ると、中には同じく白い便箋が数枚入っていた。 はやる気持ちを抑え、なるべくていねいに三つ折りの紙を開くと、真っ先に目に飛び込んできたのは俺の名前だった。 『御幸、元気ですか?』 あいつの手書きの文字を見るのは初めてだった。のびのびとした勢いのある字が、まるで本人がそこにいて楽しそうにしゃべりかけてくるようで、自然に頬がゆるむ。 『俺は今、総長のところで人間界のことを勉強し直しています』 ……。 二行目でもう引っかかったんだけど。 「総長ってあいつが大好きな?」 「おー、好きで好きで一時期はお守りがわりに写真を持ち歩いてたくらい大好きなクリス総長な」 「なにそれ」 総長って総理大臣並みに偉いんじゃなかったか?それがなんで沢村に直接指導? おかしくね? 「まああの人は男から見ても文句なく男前だからな。頭も切れるし人格者だし、大人の男って感じのイケメンだし?」 「おまえ絶対面白がってるだろ」 ……まああれだ、その総長とやらがどんなにいい男でも沢村は俺のところに帰って来るんだし。 という俺の心の平安のための呪文を、強面の監察官(今日はリーマン風の紺のスーツだ)はいとも簡単に打ち砕いた。 「あ、言っとくけど本人が翻意した場合には人間になるって話はチャラだからな」 「……は?」 「今ごろ家族友人総出で引き止めにかかってるかもなあ。特にあそこのじいさん、やたらパワフルだし、孫大好きだし」 「……」 「しかも、なかなかかわいい幼なじみもいたりするわけだこれが」 「……」 「いいからさっさと続きを読め、俺も暇じゃねぇんだよ」 「……おう」 完全に弄ばれている感は否めないが、そうだ、とりあえず今は沢村だ。 この一ヵ月どうしていた? つらいことはないか、困ってないか。 いつ帰って来る? 『俺が人間になるって言ったら大騒ぎになったけど、両親もじいちゃんも「おまえの生きたいように生きろ」って認めてくれました。 だから、こっちにいる間にたくさん親孝行とじいちゃん孝行をするつもりです』 『毎日いっぱい話して聞かせてるから、うちの家族は今、御幸のことに俺と同じくらい詳しいです』 そこにいない人たち――おそらく一生会うことの叶わない人たちに、自然に頭が下がった。 それにしても、何をどんな風に話してんのか、聞きたいような聞きたくないような。ちゃんと大事な息子であり孫であるあいつを託せる男だと思ってもらえてるんだろうか。 『サンマは元気ですか? また太ってねえ? まだもうちょっとかかりそうだけど、俺が帰るまで二人で元気で待っててな!』 そこでいったん結ばれた手紙は、かなりの余白を置いて、便箋の一番下へと続いていた。まるで内緒話でもするように。 『えっと、こっちに来るときちゃんと話す暇がなかったし、顔を見たらなんか恥かしくなっちまいそうだから、ここに書きます。 あのとき、貧乏神でも俺がいいんだって御幸が言ってくれたの、すげぇ嬉しかった。 俺の最初で最後の契約者が御幸でよかった。 家に置いてくれてありがとう。 美味いもんいっぱい食わせてくれてありがとう。 料理を教えてくれて、いろんなとこに連れてってくれて、…優しくしてくれてありがとう。 何回も言った気がするけど、俺は御幸のこと最初っから大好きだからな!』 へへ、と照れ笑いが耳もとで聞こえた気がした。 倉持がいてよかった。でないと大事な手紙を握りしめてぐしゃぐしゃにしてしまうところだった。 ありがとうはこっちのセリフだ、バカ。 あの日、俺を見つけてくれたこと。たくさんの笑顔。そして、俺の傍を生きていく場所に選んでくれたこと。そのすべてに。 帰ってきたら、もう聞き飽きたと叫ぶまで言い続けてやるから。だから早く帰って来い。 「沢村の家族に伝言を頼めるか?」 「ああ」 「大事にします、と」 「……わかった」 「沢村には、待ってるからって」 「さあな、そっちは伝えられるかわかんねぇわ」 「おい」 「あいつ、会うたびにおまえのことばっかでうぜぇんだよ。耳にタコができるっつの」 ニヤリと口の端を上げた倉持の意味ありげな笑みに、不覚にも頬に熱が集まるのを感じた。 ほんと、なにをどんな風に話してくれちゃってるんだあいつは。 さんざん忙しいと言っていたくせに、その日倉持は夜が更けるまでうちにいて、一人と一匹の晩酌に毛色の変わった客人としてつきあった。 沢村の小さいころの話をたくさん聞かせてもらって、腹を抱えて笑ったり、ちょっとしんみりしたりと表情筋と腹筋の忙しい夜だった。 話を聞けば聞くほど本人に突っ込んだり聞きたいことがたくさん出てくるのに、隣にあいつがいないのが変な感じがした。 沢村の帰還の時期を何度聞いても「本人次第だ」としか返ってこなかったが、これは沢村の努力が足りないわけじゃなく、単純に学習内容が難しくなっているのだという。 基本的に契約者としか関わらない貧乏神と違い、人間になればさまざまな人と関わって、社会に溶けこんで生きていかなければならない。覚えることも桁違いというわけだ。 「あいつは座学が苦手だからなあ……」とため息をついた倉持の遠い目を見るに、もう少し時間がかかるのは覚悟しなければならないらしい。 倉持が来た次の週、あいつが春に備えてせっせと耕していた庭の畑にミニトマトときゅうりを植えた。収穫はまだだが、順調に丈を伸ばして青々と葉を繁らせている。 植えたいと熱望していたイチゴは時期が合わなかったし、きっと自分の手で植えたいはずだ。来年でも再来年でも、時間はいくらでもある。今度は大家さんにもお隣さんにも自分で作り方やコツを聞きにいけるし、あいつはあの人たちに大いに可愛がられるだろう。 昨日、引っ越ししてから初めて、沢村と奇妙な出会いをした場所を通りかかった。 あのときの俺をここに連れてきても、今の俺が半年後の自分の姿だとは絶対に認めないだろう。そんな想像で思わず笑ってしまって、やっぱり行き交う人にじろじろ見られた。当分あの場所にはいかないつもりだ。 『早く見つけような、御幸の幸せ!』 一緒に過ごした半年間、沢村は口癖のように何度もそう言っていた。けれど、今にして思えばあの日、俺はすでにその『幸せ』に出会っていたことになる。 あの出会い自体が俺にとってはかけがえのないものであり、ならば沢村は最初から俺にとっては不幸をもたらすもの――貧乏神ではなく、福の神だったということだろう。 けど、呼び方などささいなことだ。 貧乏神だろうが福の神だろうが人間だろうが、あいつがあいつで、隣で笑っているならそれでいい。 その日は、今年初めて真夏日に届く気温になると予報された日曜日だった。 燦々と照りつける日射しはもう完全に夏のもので、ぬけるように青い空に色づきかけたトマトの実がよく映えていた。 「こらサンマ、それは餌じゃない」 摘んだトマトの脇芽をふんふんと嗅ぐ猫を牽制し、野菜に水をやり終える。 うっすらと汗をかいて縁側に上がるのと同時に、ピンポン、とやや間延びしたチャイムの音がした。 日陰で寝そべっていたサンマが頭を起こし、ドアをじっと見つめたあと、ゴロゴロと喉を鳴らしながら軽い足取りで玄関へと駆けていく。 心臓が大きく鳴った。その丸い瞳はドアの向こうになにを、誰を見ている? 上がり框にピシリと姿勢よく座った猫の尻尾が、喜びを抑えきれないようにゆったりと左右に揺れる。 今、俺の口元にも隠しきれない笑みが浮かんでいるだろう。 ――少し汗くさいし手は泥で汚れているけれど。 このまま抱きしめたってきっと怒らない、よな? 「ただいま!」 開いたドアの向こう、四角に切り取られた青い青い空の下。 俺の神様――元神様が、少しだけ息を切らして、変わらぬ眩しい笑顔を見せた。 |