18

俺の頭は度重なる負荷でいかれてしまったらしい。たった一つの単語の意味をすんなり理解できなくなってんだから相当だ。
にんげん。
ニンゲンってなんだ。
……。

「人間、に? 沢村が?」

ここまでのタイムラグ、たっぷり十秒。
「大丈夫かこいつ」とくっきり顔に書いた倉持が、掴んでいた俺の肩を離し、深いため息を落とした。
「これは限られた上層部と、直接権限を行使する監察官しか知らない超法規的措置だ。『貧乏神でもいいと契約者に請われ、本人もそれを心から望んだ場合』に限り、その貧乏神は人間になって契約者と共に生きるという選択肢を得る。まあ記録にある限り、過去に数件しかないレアケースなんだがな」
なんだその9回裏ツーアウトからの逆転ホームランのような措置は。ありとあらゆる手段と可能性を考えつくしたつもりでいたけど、こんな展開は想像もしていなかった。
沢村が、人間になる。
もしそれが可能なら、俺と暮していく上で、あいつが必要のない罪悪感を抱えることもなくなる。
それだけじゃない、姿が見えるようになれば直接俺以外の人間とも関われる。買い物だって出来るしどこにでも行ける。
いいことづくめじゃないか。
「そういうことは早く教えてくれ」とものすごく言いたい。けれど、何も知らないまっさらな状態で、沢村と俺の覚悟を問う必要があったのもわかる。だからこそ掴めた選択肢だということも。
「じゃああいつは、」
「ああ。手続きや準備があるからしばらくはむこうにいるが、そのうちここに帰ってくる。おまえら二人ともがそう望む限りはな」
帰ってくる。
そのフレーズが自分の周りを何度もぐるぐると回ったあと、ようやくすとんと心臓に届いた。
「……はは、」
本当に?
夢じゃねぇよな?
こういう時に頬をつねる人間の気持ちが初めてわかった。痛みでより実感を得たくなるんだ、きっと。
ひたすら自分の頬をひねる俺を気味悪そうに見やり、倉持はまた一つため息をつく。
「貧乏神にも多様な生き方を選ぶ権利があるってのが総長のお考えでな。……俺は、あいつはいつかこうなるんじゃないかと思ってた」
「なんでだ?」
「あいつはチビの頃からなんでだか人間が大好きで、人間界の断片的な知識を拾ってきては同じことをやりたがるんだ。俺もめちゃくちゃな野球もどきに何度つき合わされたかわかんねぇよ」
遠くを見やる倉持の目にはきっと、チビの頃のやんちゃな沢村が映っているんだろう。そんな場合じゃないかもしれないが、少し羨ましい。
「周囲も心配はしてたんだ。人間が好きで期待が大きすぎる分、実際に悪意を向けられたり裏切られたときのことを考えるとな。特に一人目で変なのに当たらなきゃいいって思ってたんだが……ある意味とびきり妙な奴に当たっちまったな」
もしかしなくてもそれは俺のことか。
けど、決して人当たりがいいとは言えない俺の懐にするすると入り込み、あっさり居ついてしまったのはあいつのほうだ。
俺じゃなくても、貧乏神でもいいから沢村にいて欲しいと願う人間はいずれ現れたに違いない。
あいつの初任務が俺だったことに、俺はもっと深く感謝すべきなのかもしれない。
「で、沢村はいつごろ帰って来るんだ?」
「それはあいつの精進しだいだな。……ああ、もう一仕事残ってたか」
「仕事?」
思わず身構えた俺に苦笑しながら、倉持はさっき沢村にしたのと同じように俺の額に手のひらを置き、静かな声でこう告げた。
「御幸一也。本日付で初級貧乏神沢村栄純との契約を終了したものとみなす。特例措置により、監察官倉持洋一が代理として残務処理を請け負うこととする。……一週間以内に地位と財産を前の状態に戻してやるよ」
「ボーナスは?」
「だからそれは本人次第だってさっき言ったろ。ったく、人の話聞けよどいつもこいつも」
ぼそぼそと呟く倉持の眉間には、いつのまにかくっきりと縦ジワが復活していた。
こういう仕事だ、人間の嫌な部分も、一般の貧乏神よりも多く目にしてきたに違いない。気苦労も多そうだ。
最初は厳ついだけだった黒スーツの肩が、心なしか落ちて見えるのは目の錯覚だろうか。
なんだろう、肩をそっと叩いてやりたくなるこの衝動は。しないけど。
「また後日、状況報告に来る。今日のところはこれまでだ」
俺は帰る、と踵を返した男を引きとめる理由は俺にもなかった。なにより色々ありすぎて、俺の頭も正直キャパオーバーだ。
なんだか足元がふわふわとおぼつかない。沢村が人間になって帰ってくるというその事実を、まだどこか現実として捉えきれていないのかもしれない。一晩寝たら落ち着くだろうか。いや待て、今夜からもしかして安眠抱き枕無しで寝なきゃならないんだよな?
そんなことを考えつつなんとなく玄関までついていくと、靴を履いたスーツ姿の監察官は、そのまま立ち去るのかと思いきや、ドアノブに手をかけながらくるりと振り返った。
「一つだけ言っとくぞ」
数時間前の初対面を思い出させる、身の引き締まるような鋭い目だった。
「人間になれば、貧乏神は生まれ育った世界とは完全に縁が切れる。契約者、つまりおまえ以外にこの世界に知り合いも頼る相手もいないってことだ」
「……ああ」
「あいつには仲のいい家族も尊敬する先輩もたくさんの友人もいる。そのすべてと別れを告げてもおまえといることを望んだ。それを忘れるなよ?」
針で心臓をチクチクと刺されるようだった。
家族。友人。会ったことはなくても、あいつを見ているだけでどれだけ周囲に愛されて育ってきたのかはわかる。
そして、ここにきて初めて目の前の男の心情を思った。こいつもまた、可愛がっていた幼なじみを手離す側なんだということを。
(…いいことづくめなわけねぇよな)
いろんな人に悲しい、寂しい思いをさせてしまうことになるんだろう。
それでも俺は沢村にここにいて欲しいし、諦めることは到底できない。だから。
「わかってる。肝に銘じとくよ」
俺に言えるのはそれだけだ。
神妙に背筋を伸ばした俺を見て、倉持は少しだけ口もとを緩めた。
「本当に妙なのに惚れられちまったなあ、あいつ」
「……?」
なに言ってんだこいつ。
「惚れるって?」
「……。は?」
「沢村は男だぞ?」
確かに俺は沢村が好きだし、この先も一緒にいたいと思っている。
けどそれは惚れた腫れたとは種類が違うだろ? 俺たちのはもっとこう、家族的というか、そういう感じだし。
「………おまえなあ、」
「なに」
「……いや、いい。どうせすぐに思い知る」
ガリガリと頭を掻いた倉持が、ドアが閉じる間際、今日一番の憐みのこもった眼差しを俺に向けていたのは気のせいじゃない、と思う。


何故だ。