17

隣で息を呑む音がはっきり聞こえた。「なんで」という弱々しい呟きも。
手だけのばし、濃灰の袴の上で固く握りしめられていた手をとる。水仕事と畑のせいか少しカサカサしている、一回り小さな手。
(違う、そうじゃない)
黙っていたのは、おまえが頼りないからとか信用してないとか、そんな理由じゃないんだ。
「どうしても欲しいものがある」
沢村が俺の横顔を食い入るように見つめているのは感じられたが、あえてそちらを見なかった。というよりそんな余裕がなかったと言った方が正しい。正面からの鋭利な視線を受け止め押し返すだけで精一杯だったからだ。
「沢村に、これからも俺の傍にいて欲しい。それが俺の幸せであり答えだ。ボーナスとして、こいつと俺の契約期間の無期限の延長を要望する」
そう言い終わった部屋に落ちた沈黙は、なんとも不穏な、さしずめ嵐の前の静けさのような緊張感をはらんでいた。
塀の外の満開の梅の木から、のどかな鳥のさえずりが聞こえてくる。うららかな小春日和の昼下がりの光景が、どこか遠い世界のものに思えた。
最初に口を開いたのは、眉間に深いシワを刻んだ監察官だ。
「一応聞くが、そいつが貧乏神だと知ってるよな? この期に及んでまだ信じてないとかじゃねぇよな?」
「知ってる。日々身をもって実感してるよ」
「それでもか? おまえはこの先一生、どこに行っても何をしても日の目を見ることなく終わるんだぞ? ギリギリの貧乏生活で、不本意なことだらけで。それでいいのか?」
「ダメだ!」
噛みつくように返事をしたのは俺じゃなかった。やけに静かだと思っていたら、うちの貧乏神は今やっと俺の話の内容を理解したらしい。相変わらず鈍い。
「なにいってんだよ、んなのダメに決まってんだろバカ! バカ御幸!!」
「なんで」
「バカ! 俺は! 永遠にあんたを不幸にすんのなんてまっぴらごめんだ! 倉持先輩、俺、配置換えを要求します! 行きやしょう今すぐ! ほら!」
「こら、どこ行くんだよ」
立ち上がりかけた沢村のグレーの袖を、その素早い動きより一瞬早く掴まえた。そのまま引っぱったらくるんと半回転して、小さな体が俺の懐に飛び込んでくる。
久しぶりに真正面から見た俺の神さまの目は思いきり水分過多で、パンパンの水風船を思わせた。さっきみたいに頬をつついただけで簡単に破裂しそうだ。
胸が痛む。説明できなかった理由があったとはいえ、驚かせて泣かせているのは俺だ。
「何血迷ってんだよあんた、頭いいんじゃなかったのかよ!」
「そのいい頭で考えたんだから安心しろ。そもそも今だって不幸じゃねえし?」
「不幸だろ!」
「俺の幸せや不幸は俺が決める。それよりおまえにまだ聞いてないことがあるんだけど」
「俺に?」
「生活水準とか幸せ不幸せとはの論議は置いといて、おまえはどうなの。どうしたい?」
「へ」
「このまま俺と暮らすのは嫌か?」
「んなの、」
「嘘ついたってバレバレだからな」
動揺が顔に出まくっている沢村の頭を撫でながら、わかりやすいやつでよかったとしみじみ思った。
こいつの押し隠した望みを、俺は本当は知っている。それでもこの口からちゃんと聞きたい、言って欲しい。というのは子供じみたワガママかもしれないけれど。
最後の抵抗を試みる沢村の声は、もう涙声だった。
「お、俺は貧乏神で」
「知ってる」
「一緒にいたら御幸はなんにもいいことなんかなくて、好きな仕事もできなくて、ずっと貧乏で」
「それも知ってる」
「誰にも見えねぇし、役に立たねえし」
「しかも大食いだし?」
とたんに眉尻の下がった表情に、そんな場合じゃないのに笑ってしまいそうになる。そこがおまえのいいところだろ?
「全部わかってるよ。それでも俺はおまえがいい」
そう言い終えるのと同時だった。
ぱた、と音をたてて、表面張力の限界を超えた涙が一粒、俺のシャツに落ちて小さな染みを作った。
「……バカだ、御幸」
「はっは! 何回言うんだよおまえ」
最初に落ちた大きな粒を追いかけるように、次から次へと零れる涙は止まる気配を見せず、シャツの腹の部分を濃い色に染めていく。
顔全体をクシャクシャにして、全身を震わせて。それは、なんで泣いているのか自分でもわかってないんじゃないかと思わせる、幼い子どものような泣き方だった。
しばらく嗚咽が続いたあと、自分でももう泣きやむことをあきらめたらしい。沢村は涙まみれの顔を上げ、俺の手を痛いほど握って、先輩監察官にまっすぐに向き直った。
「……せん、ぱい」
「おう。なんだ」
「おれ。俺、ほんとは」
はくはくと何度も呼吸困難に陥りながら、言葉が途切れるたびに言葉を探して、少し汗ばんだ手が俺の手をぎゅっと握る。

「俺も、御幸といたい、です。これからもずっと」

心臓が誰かに握りしめられた気がした。ぎゅうぎゅうとしめつける音が聞こえそうなほど。
思いきり握り返した手はきっとかなり痛かったはずだ。悪ぃ。けど、そうでもしなきゃ俺まで泣いてしまいそうだったんだ。
水分でベタベタの顔を上げ、沢村がへにゃりと笑う。ひでぇ顔。
俺はどんな顔でそれに応えてるんだろう。もしかしたら同じくらいひどい顔なのかもしれない。
それまで黙って俺たちを見守っていた監察官が、小さく息を吐いた。
それだけで空気がピリリと緊張をはらむ。
静かな視線はひたと沢村をとらえていた。こくり、と息を呑む小さな音が鮮明に耳に届いた。はりつめた空気が痛いくらいだ。
「契約終了後の人間から離れない、イコール職務放棄だぞ? 懲罰対象だ」
「はい」
「待てよ、沢村に責任はないだろ? 俺の希望なんだから」
「黙ってろ。おまえには関係ない」
関係ない訳ない。
そう食い下がろうとした俺をかばうように、沢村がわずかに前に出た。つないだ手はそのままに。
「この男を選ぶなら、おまえが目指していた一級貧乏神にももうなれない」
「はい」
「本当にわかってるか? 家族にも総長にも二度と会えないんだぞ」
「……っ、は、い」
「いいのか?」
それでもおまえはこの人間を選ぶのか。
それだけの価値があるのか。
真正面からそう切りこんだ、嘘やごまかしを許さない問いかけだった。
ぴんと背筋を伸ばしたままの沢村の隣で、俺はかろうじて声は上げなかったものの、内心ひどく動揺していた。
俺は答えを見つけてからずっと、どうやって沢村を自分のもとに留めるかだけを考えていた。
契約の無期限延長という要望が通ったとしても、それは俺の貧乏生活が無期限に延びるだけで、沢村の立場や環境にそれほどの影響が出るとは思わずにいた。甘かった。
こいつにとって、俺の傍にいるという選択は、そこまで大きな犠牲を伴うことなのか。
俺以外のすべてを捨てろと言っているようなもんじゃないか。
そんな俺の心の内を見透かしたのか、沢村が俺を見上げ、にこりと微笑む。まだ目に涙は揺れていたけれど、それはこいつがたまに見せる、すべてを包みこむような大人びた笑みだ。
あらためて監察官に向き直った大きな瞳からは、その溜まった涙がこぼれて落ち――それでも俺の貧乏神は、しっかりとした声で「はい」と頷いた。
「……そうか」
監察官の腕組みが解かれるのと同時に、場の空気がわずかに緩んだ。一番の山場は越えた。そう思わせるような。
だから、油断した。
沢村を立たせ、自分も立ち上がった監察官が沢村の額に手のひらを当てた時、俺の手は、さっきまでつながっていた沢村の手を離していた。
「沢村栄純。監察官権限により、今この時を以って貧乏神の資格を停止する」
その瞬間、自分の中から何かが消え失せたのがわかった。
消えて初めてそこにあったことに気づいた、おそらくは沢村と俺の契約を示す『何か』。
漠然とした喪失感を押し殺し見遣った先では、さっきまでの厳しい表情を崩した監察官が、うってかわった柔らかい目で沢村を見下ろしていた。
「……あっちでちゃんと説明するんだな。大仕事だぞ」
「へ?」
沢村が目を丸くして首を傾げる。
監察官が沢村の両肩に手を置いた、そこからの一部始終を、俺はまるで画面越しに次元を隔てて存在するかのように、ただ傍観者でいることしかできなかった。
「え、あ、え?」
自らの異変を感じ、慌てたようにパタパタと自分の体を叩く沢村が、その手ごとどんどん薄れて、部屋の向こう側の壁が透けてくる。
みゆき。
そう口が動いたのがわかった、けれど声はもう聞こえない。
俺に向かって伸ばされた手をがむしゃらに掴もうとして、届かなかった。
まだ目尻に涙がたまったままの大きな瞳が俺を映したまま、その姿がすうっと薄れ、……掻き消えた。
まるで最初から存在しなかったかのように。

なにが起こったのかわからなかった。というよりも、頭が認めるのを拒否していた。
消えた。沢村が。
貧乏神じゃなくなって、俺との契約も切れて、消え失せた。

どこへ?

そこでやっと体が動いた。
同じように突っ立っていた監察官の胸ぐらを掴むと、しかめっ面に戻った男は至極面倒くさそうにゆっくりと俺に顔を向けた。
「何をした? どこへやった!」
「離せよ、痛ぇだろ。手続きに入っただけだ」
「手続きってなんの!」
詭弁にしか聞こえなかった。
俺が望んだのは、沢村が無期限に俺の貧乏神でいることだ。契約を解除された今ではそれももう叶わない。
消える間際の沢村は、自分の身に起こっていることにひどく驚いた顔をしていた。本人の意思じゃないし、知らされてもいなかったってことだ。
「まだ結論は出ていなかったはずだろ!?」
俺は間違えたのか?
答えを見つけたことを明かすべきじゃなかった?
自分の間抜けさにはらわたが煮えくり返るようだった。
何故手を離した? あいつは必死で俺に手をのばしていたのに。
目の前がぐるぐる回って、揺れる体を耐えきれず壁に預ける。情けないけれど、まっすぐ立っていられず目を閉じると、すぐ近くから深い深いため息が聞こえてきた。
同時に肩に食いこんできた手が、容赦ない力で俺を現実に引き戻す。
「いいからおまえは少し落ち着け」
しかめっ面の監察官の声は、呆れを色濃く含んでいた。
「資格を停止したら人間界にいるための術式が解除される。それで自動的に送還されただけだ」
「何の説明もなくか?」
「先にあいつの意思を確認する必要があったんだよ。この先は一応機密事項だからな」
「……? 何の話だ?」
「あいつはな、」
苦笑い、と呼ぶのが一番近いかもしれない。何とも複雑な顔の監察官――倉持の口から出た台詞は、俺の心臓を止めるのに十分だった。


「人間になるんだよ」