16

ピンポン、と場違いにのんびしりた音のチャイムが鳴ったのは、日曜日の昼飯を済ませて一時間ほど経ったころだった。
朝からずっとうろうろそわそわしていた沢村が、文字通りぴょこんと跳ね上がって、強張った顔で俺を振り返る。
来た、という小さな呟きに一つ頷いて、深呼吸をしてゆっくりと玄関のドアを開けた、その先。
……俺は、監察官というのも同じ貧乏神だと聞いていた。ならそこには当然、沢村や一度見かけたよそ様の貧乏神と同じような格好をしたやつが立っているはずだと、誰でもそう思うよな?
で、その予想に反して立っていたのが、黒スーツで身を固めた、どうみてもヤンキーまたはヤのつく職業の人的な目つきの悪い男だったとしたら。
とりあえず閉めるよな? ドアも鍵も。
けれど、確かに施錠したはずのドアは次の瞬間、何事もなかったかのように外からすんなりと開いた。もちろん人間業じゃない。
さっきと同じ場所に立ち、二割増しで人相の悪くなった男を見て、後ろからおずおずと顔を出した沢村が、逆に俺を押しのける勢いで「あ!」と大声を上げた。
「倉持先輩!?」
「よう、久しぶりだな。で、なんだこの失礼な男は」
「あ、えと、」
「沢村、まさかとは思うがこれ? これがその監察官?」
「これだぁ?」
あ、こいつ絶対気が合わない。
と俺が思ったことが相手に伝わったのも、相手もそっくり同じことを思っているのも瞬時にわかった。幸先が悪すぎる。
けれど、ナイフのような鋭さで俺に向けられていた視線が、沢村に移ったとたんに嘘みたいにやわらかく優しくなる。器用だなおい。
「元気そうだな」
「はい! 何もかも順調っす!」
「ちゃんと食ってんのか? いじめられてねぇか?」
「いっぱい食ってるし、俺、自分でもだいぶ料理ができるようになったんすよ」
「ほー、おまえがなあ」
ブンブン振れている尻尾が見えそうなほど喜色満面の沢村と、最初とは別人な笑顔のスーツ姿の男。
割って入れない空気がそこには確かにあって、俺はそんな二人を眺めていることしかできない。なんだろうこの疎外感。
先輩って呼んでたけど、それだけか? やけに親しそうなんだけど。
「御幸、この人は倉持先輩で、昔うちの近所に住んでた俺の兄ちゃんみたいな人なんだ。 で、先輩、こっちが御幸で、俺の一人目の契約者っす!」
「……よろしく」
「……どうも」
俺達の微妙な雰囲気には気づかず、沢村は嬉々として俺たちを引き合わせ、倉持とやらの手を引っぱるようにして家に上げた。
そして、よく考えたらうちには今、こたつくらいしかみんなで座れる場所はない。
星絣のこたつ布団に正座で入るブラックスーツの貧乏神。沢村に輪をかけてシュールだ。
「事前に送った書類は?」
「これです! 俺、お茶淹れてきますね!」
「おう、おかまいなくな」
書類に手をのばした途端、監察官はきっちりと仕事の顔になった。しばらくのあいだ、紙をめくるかすかな音だけがほぼ等間隔で室内に響く。俺は向かいに座ってそれを見守るのみだ。
「資産状況の推移は順当だな。けど、ここ――契約者の変化のところが空欄なのはなんでだ?」
「だって御幸は最初っから優しかったし、今も優しいし、変化ったってなんもないんで」
「……ほう」
三人分の湯呑みを天板に置いた沢村が、「なんでそんな当然のことを聞かれるのかわからない」という顔でこたつに入る。当たり前みたいに俺の隣にくっついて。
突き刺さる視線が痛い。聞かれてもいないのに言い訳したくなる。俺は別にやましいことはしていない。たぶん。
「で、契約者記入欄が白紙なのは? 拒否されたのか?」
「……わ、忘れてて……」
「なに、俺が書くとこもあんの?」
監察官から無言で回された書類に目を通すと、その一枚の後半三割ほどは契約者、つまり俺の記入欄になっていた。主に自分に憑りついた貧乏神への評価欄だ。
首を90度回して沢村を見下ろせば、錆びついた蝶番みたいにギシギシとぎこちなく逆側に顔を逸らす。
つまり忘れてたんじゃなくて、評価されるのが嫌だったと。点数の悪いテストを隠す小学生か。
「あー…、こいつがいつも、悪ぃな」
完全に保護者な発言は向かいの監察官からだ。こいつ案外いいやつかも。
「いや、まあたぶん想像よりはましだと思うけど」
縮こまった沢村の頭をポンと叩き、あたりさわりなく空欄を埋めていく。何ヶ所かの不備を訂正して、書類は一応整ったらしかった。
その他の質問は基本的なことばかりで、貧乏神と契約者の距離感を測るものが多く、ほとんどの問いに沢村がつっかえつっかえながらもなんとか答えていく。
時々頷きながらペンを走らせていた監察官は、やがてその手を止めて、心の奥底までを見透かされそうな眼差しを俺たち二人に向けた。
「最後の質問、これは二人それぞれにだ。契約終了までの進捗は、自分では今何パーセントだと思っている?」
思わず沢村と顔を見合わせた。それは、今回の訪問調査の結果に直接影響しそうな質問に思えた。
「は、半分くらいだと思いやす」
先に答えた沢村の声は、らしくなくとても小さかった。本当に嘘がつけないやつだ。
そんな後輩に何も言わないまま、監察官の目が俺の答えを促す。
気づかれないように腹に力を入れる。ここがおそらく今日の一番の正念場だ。
「答える前に、聞きたいことがある」
監察官の眉が不審げにピクリと動いたが、そんなのに構っている余裕はなかった。
背中を走った震えは緊張からだ。隙を見せるな、本心を悟らせるな。決して温い相手じゃない。
「貧乏神は、契約者の本当の幸せに気づかせるために仕事をしているとこいつは言ってた。本当か?」
「ああ、それが俺らの理念であり信念だ。マニュアルの一ページ目にもそう書いてある」
「その答えに契約者がたどりついたら契約終了だと聞いたが、その後はどうなる? 今度はその見つけた『幸せ』を掴むために一から自力で努力しろってことか?」
「いや、契約を終了した人間には、それまでのマイナス分の補正がかかった上でプラスαがある。簡単に言えば、失った地位や財産を全部取り返して、さらに少しばかりボーナスがつくってことだ」
さすがというか、エリート貧乏神の説明は非常にスッキリと分かりやすかった。もちろんその手にマニュアルなど無い。
ついつい沢村に目をやると、体を縮こまらせていたたまれなさげな風情だ。別に責めてるわけじゃねえよ。
「そのボーナスとやらは、具体的には?」
「それこそケースバイケースだな。見つけた答え次第だ。よくある例としては起業資金の提供、想う相手との一定期間の接点の確保、家族との関係修復の補佐といったところか」
「そこに契約者個人の要望が反映される余地は?」
「希望があれば聞くが、そのまま叶えられるわけじゃない。決定権はこちらにある」
「なるほど」
それだけ聞けば十分だ。
心もち背筋を伸ばしたら、つられたのか、視界の端で沢村の背筋までピンと伸びたのがわかって思わず口の端が緩む。本当にこいつはもう。
「……さっきの問いの答えは、」
ふ、と小さく息を吐く。心臓が口から飛び出しそうだ。誰かにすがりつきたくなるような緊張感に、知らず言葉が途切れる。
それを告げるのはそれくらいの勇気が要った。
一度口にしてしまえば引き返せない一言を。

「100パーセントだ。――俺は、自分の答えを見つけたと思う」