15

その日、玄関まで出迎えた沢村を一目見ただけで、何かあったのがわかった。
「どうした?」
ただいまを言うより先に俯いた顔をのぞきこんだら、いつも通りを目指して失敗したらしい中途半端な笑みが胸をついた。
「このまえ出した報告書の返事、じゃなくて通知? が来たんだ」
「だと思った。で、なんだって?」
「……次の日曜、監察官の訪問が、あるって」
それが何を意味するのか俺には正確にはわからない。けれど、沢村の表情からして状況はあまり芳しくないと思った方がいいんだろう。
「監察官ねえ、やけにものものしいな。何者?」
「えっとな、監察官ってのは俺たち一般の貧乏神の仕事が順調か、契約者との深刻なトラブルや不正がないかを調べる仕事で、貧乏神の中でも一握りの成績優秀者しかなれないエリートコースなんだ。総長になる人はみんな若い時に経験してて、日本じゃなんて言うんだっけ、登竜門? そういうやつな」
「ふぅん。で? その監察官がうちに来て何をすんの?」
「簡単なチェックと質問って書いてある。所要時間の目安は一時間だって」
「その後は?」
「問題がなかったらそのまま任務継続だけど、もしなんか問題があった場合は本当に配置換えになるかもしんなくて、だからさ、……えっと、」
「うん?」
珍しく口籠った沢村が、意を決したように勢いよく顔を上げた。
「だから! ……ちょっとばかし順調にいってるふりをしてくんねぇかなって!」
「それって不正じゃねぇの?」
「べ、別にずるってわけじゃなくて! 御幸を幸せにすんのは俺なんだから、配置換えは困るんだよ!」
俺だって困る。
と口には出さずに、頭の中で今聞いた情報を整理する。
エリートコースに乗った、こいつよりは年季の入った先輩貧乏神。日本で言えばキャリア官僚の卵みたいなもんなんだろうか。
少なくとも沢村よりは頂点に近い存在なのは間違いない。その分権限と情報を持っているはずの存在。
「余計な工作はしない」
そう口にした俺を見上げて、沢村は一瞬だけ痛そうな顔をした。
「だっておまえよりよっぽど優秀なベテランが来るんだろ? そいつを相手に嘘をつきとおせると思うか? 主におまえが」
「う、」
「それに俺からも色々聞きたいことがあるからな」
「聞きたいこと? なんだ? そんなん俺がいくらでも、」
「沢村に聞いてもたぶんわかんねぇこと」
「……俺だって、俺だってさ、これがあれば!」
初心者マークの貧乏神は、そのまま分厚いマニュアルを抱えてこんで拗ねてしまったけれど、俺が知りたいことは多分それには載ってないんだ。

沢村をこのままここにとどめる方法を、ここ数日、自分なりに必死に考えた。今も考え続けている。けれど考えれば考えるほど痛感するのは、その基盤になる情報が全然足りていないということだ。
例えば、契約終了はどの時点で成り立つのか。少なくとも「契約者が自覚した時」ではないのは確かだ。もしそうなら沢村は今ここにはいない。
じゃあそれは沢村がそれを知った時なのか、上に正式に報告した時点になるのか。
そしてその後、契約終了した貧乏神はどれくらい元契約者のところにいられるのか。別れはどんな風に訪れるのか。物理的に引き止めることは可能なのか否か。
わからないことだらけだ。
もっと早いうちに詳しく聞いておけばよかった、と思っても後の祭りだ。今そんなことを根ほり葉ほり聞けば、さすがの沢村も不審に思うだろう。
俺の望みが断片でも知られた時点で契約終了になる、なんてことはさすがにないとは思うが、可能性がゼロではない以上、冒険をする気にはなれなかった。
そんな八方手詰まりな状況でのこの監察官の訪問は、逆に転機だ。新たな情報を得て事態を打開するための。
もちろん間違いなく危険な賭けになる。言葉は悪いが出たとこ勝負だし、下手すればすべてを失うことになる大博打。
けれど、このままずるずる引きのばしても行きつく先はデッドエンドしかない。それくらいなら。
「みゆき?」
黙りこんだ俺を不思議そうに見上げる沢村の頭にぽふ、と手をのせてみる。
デカい目がゆらゆらと揺れて落っこちそうだ。
「大丈夫だ」
それは半ば以上自分に言い聞かせたセリフだった。言ってから自分で笑ってしまう。なにがどう大丈夫なんだか。
そんな俺を瞬きもせずさらに見上げてくる沢村に、最初の日に必死に俺を呼び止めた怪しすぎる少年の面影が何故だか重なった。同じ色の夕焼けのせいだろうか。
あの日、あの雑踏のたくさんの人間の中で、こいつはたった一人、俺を見つけた。
「……好きで取り憑かれたわけじゃねえけど、」
とたんにぷぅ、とふくれた頬を指でつついてやる。
「俺の貧乏神がおまえでよかったよ」
目を丸くして、それからへにゃりと崩れた沢村の顔は、笑っているのにどこか泣き出しそうに見えた。
口に出してから気づいた。なんだか別れのあいさつじみていて不吉じゃないか?
そんな、なんとなくしんみりしてしまった空気を振り払うように、沢村が勢いよく顔を上げた。どこか得意げな笑みを浮かべて。
「俺は御幸でよかったって最初っから言ってたし!」
「そりゃ光栄だ」
「ふふん! だろ?」
ふんぞり返った小さな体を腕の中に閉じ込めてみる。抵抗はない。すっかり馴染んでしまった沢村の大きさとかたちと体温。
抱きしめ触れた部分から温かい何かが満ちていくようなこの感情がなんなのか、俺はもう知っている。
「大丈夫」
もう一度そう呟いたら、俺の背に回った沢村の腕が少し強くなった。不器用で愛しい俺の貧乏神。
手離したりしない。こいつもそれを望むならなおさら。
そう決意を新たにして3日後。

その使者は、律儀にも玄関チャイムを鳴らして我が家にやってきた。