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「御幸、ごはんー!」
「んな大声じゃなくても聞こえてる」
台所から飛んできた威勢のいい声に、こたつの端で丸くなっていたサンマがのそりと頭を上げ、家中に満ちたカレーの匂いに鼻をひくつかせた。
鍋ものの制覇に続き、最近沢村のレパートリーにはカレーとシチューが加わった。中でもカレーは、テレビやネットでレシピを入手してはあれこれと自分流を試しているようだ。
食器を運びながらそれとなく鍋をのぞけば、今日の具材のメインは小エビとブロッコリーらしい。それはいい。何故そこにパイナップルを入れた。攻めすぎだろ。
「ご飯こんくらい?」
「もうちょっと少なめで」
「俺のはカレー大盛りな!」
「わかってるよ」
なみなみとルーを注いだ深皿を器用にこたつまで運び、俺が座るのとほぼ同時に沢村が大きな声で「いただきます!」と手を合わせる。
恐る恐る口にいれたパイナップルは意外と『あり』な味だった。酢豚みたいなもんか。
いただきます。


あのアパートのボヤ騒ぎから一週間が経った。
数日間は部屋の中にいてもどことなく焦げ臭さが鼻についたものの、それ以外の被害もなく、明日からは火元の部屋の改修工事も始まるらしい。
沢村の提出した報告書へのレスポンスもいまだに届かないままだ。それが普通なのかそうじゃないのか俺にはわからないが、待つしかない身としてはなんとなく落ち着かない毎日が続いている。
「なあ、一つ確認しときてぇんだけど」
「なんだ?」
「俺が『幸せ』を見つければ、おまえは俺から離れるんだよな?」
「おう。めでたく契約終了だからな」
「その後は?」
「そりゃ新しい憑りつき先を見つけねぇと。仕事だし」
「それがもし近所だったら、街中でまたおまえとバッタリなんてこともあるのか? ……いや待て、やっぱいいわ。今の無し」
沢村の答えを聞く前に自分の中で結論が出てしまった。
他のやつに憑りついたとしても、俺とも会えるならそれも有りかとチラリと思ったけれど、これは無しだ。却下。
こいつのことだから、新しい憑りつき先でも契約者のために一生懸命に尽くすんだろう。一緒に飯を食って一緒に寝て、二人目の契約者にも「大好き」なんて言うんだろうか。想像だけでムカつく。
俺の沈黙と眉間の縦ジワをどう解釈したのか、沢村が拗ねて口を尖らせる。
「そんなに嫌がることねぇじゃん。喜べ、契約終了したらもう会うことはねぇよ。絶対だ」
「……どういう意味だ?」
「契約終了すれば、その人間にはもう二度とすべての貧乏神が見えなくなる。そういう決まりなんだ」
カレーの海にスプーンを落としかけたのは、呼吸が止まりそうになったからだ。いや、確実に一回止まった。
そんな俺には気づくことなく、早くもおかわりに立った沢村は、興奮気味な目をキラキラと輝かせて俺の顔をのぞきこんだ。
「あ! もしかしてわかりそうなのか? 御幸の『幸せ』!」
「……いーや、まったく? そんなことよりこぼすなよ」
「なんだよ、期待させといて!」
尖った唇は、二杯目のカレーを一口食べたとたんに幸せそうな笑みを刻んだ。単純で助かる。
皿の縁から溢れそうなほどのルーを慎重にライスと混ぜる沢村を見ながら、粟立った二の腕を気づかれないよう袖の上からそっとなでた。
姿が見えなくなる。二度と会えない。
それは永遠の別れとどう違うというんだ。


一週間前のあの日、俺は沢村が探しているものを見つけたと思う。
沢村との契約の鍵。俺の『幸せ』。その答えを。
それをこいつに教えてやれば大喜びするのはわかっている。わかっているのに俺はずっと口をつぐんだままだ。
食器の片づけを終えた沢村は、俺の『幸せ』の手がかりを探そうと、こたつの上に俺の古いアルバムを広げている。
見当違いだったりまったく無駄骨だったりするものの、常に前向きで一生懸命だ。それはつまり、その先にある俺との別れをこいつが問題なく受け入れている証でもある。
まあそれはそうか。沢村にとって俺は、これから無数に増えていく契約者の一人にすぎない。一人目というある意味特別なポジションではあっても唯一じゃない。貧乏神の仕事を長く続けていけば、「そういえばそんなやつもいたっけなあ」とたまに思い出す程度の存在になるんだろう。
それを当然だ、と思うのと同時に、胸がチクチクと痛み続けている自分もいる。
(なあ、沢村)
ああでもない、こうでもないと独り言を呟いている背中に語りかけてみる。もちろん胸の中でだけだ。
(本当はとっくに見つかってるんだ)
金や名誉より大事にしたいもの。
けどそれを口にしたらその瞬間、皮肉にもこの穏やかな優しい時間は終わりを告げる。
おまえを欺いてでもそれを手放したくないと思うのは、俺のワガママか?
おまえが自分の仕事に誇りを持っているのも、この最初の仕事にどれだけ気合を入れているかわかっていても、それでも。

もちろん答えが返ってくるはずもなく、その秘密を抱えたまま、季節はゆっくりと春に向かう。
それは二月半ばを過ぎた日曜日だった。一ヵ月ほど先の気温だと天気予報士がどこか嬉しげに天気図を指していた、水温む陽気の昼下がりのことだ。
大家さんに家賃を納め(なんと今時現金払いだ)、野菜と米をもらって家に帰ると、日当たりのいい縁側に寝そべったサンマと、その隣にちょこんと三角座りした貧乏神――濃淡はあれど同じようなグレーの塊が二つ並んで、春めいてきた日射しを浴びていた。
寝てるのかと思いきや、ぼそぼそと話し声が聞こえてくる。俺が帰ってきたことには気づいてないらしい。
もちろん意味は通じちゃいないだろうけど、いいタイミングでサンマが鳴いたりのどを鳴らしたりするもんだから、本当に会話をしてるみたいだ。
そのやわらかい空気を乱したくなくて、そっと足を忍ばせ、台所の壁に静かによりかかると、一人(?)と一匹の会話がよりはっきり聞こえてくる。
「あーぬくいな…幸せー…」
「なー」
「お、おまえもか? だよな、いい天気だし腹はいっぱいだし」
ふぁ、と大きなあくびの気配に喉の奥で笑った。そういやこいつは初めて会った日から腹を空かせてたっけ。
このまま寝落ちる前に布団をしいてやろうか、と立ち上がろうとしたところで、今にも眠りに落ちてしまいそうにふわふわしていた声が、わずかに色を変えた。
「なあサンマ、聞いてくれるか?」
「な」
「俺さあ、貧乏神失格なんだよ」
「にゃ」
「俺がいるから御幸は貧乏になったし、したい仕事もできないし、このままじゃきっと結婚もできないと思うんだ。だから早く離れてやらないとなのに、……俺、思っちまったんだ。このまま御幸がクリアできなかったらいいのにって」
「……なー」
「……バチが当たったのかなあ。だから配置換えなんて言われちまうのかな」
喉の奥からせり上がってくる声を必死で飲みこんだ。
それは、いつも元気で食べ物のことばかり口にする沢村がひっそりと隠していた、俺には絶対見せないはずだっただろう本音だった。
小さく息を吐いて、できるだけ気配を殺す。盗み聞きの罪悪感を、知りたいという欲が簡単に駆逐した。
もっと知りたい。こいつが何を考えているのか、何を望むのか。
「サンマはずっとここにいろよな? ふらっといなくなったりすんなよ」
「な?」
「もうあんまり時間はないと思うんだ。御幸の『幸せ』は見つかりかけてる、気がするし」
腹の底がひやりとした。態度に出してはいない自信はあったのに、こいつがそんなに聡いわけないのに、どうして?
「だから頼むな。御幸がちゃんと幸せに暮らせるように、おまえがついててやってくれな」
「んな」
「御幸、いやいや世話してるように見えて何気におまえの好き嫌いもわかってくれてるだろ。爪とぎとかブラシとか買って来てくれたのもあいつなんだぞ、貧乏なのに」
「にゃ?」
「俺のこと貧乏神ってわかってんのに、なんであんなに優しいんだろうなあ」
猫の鳴き声を合いの手に、ぽつりぽつりと沢村の一人語りは続いていく。
「なあ、おまえは野良猫してたときに見たことあんのかな。この間さ、御幸と一緒に駅から歩いて帰ったときな、星がすごかったんだ。今にもパラパラ降ってきそうで、すげぇ綺麗だった」
「にゃ」
「俺、全部覚えとくんだ。御幸といて楽しかったことや嬉しかったこと全部、一つも忘れずに持っていく。そしたら次の場所でもまた頑張れるだろ?」
突然駅まで沢村が迎えに来た日の、妙にテンションの高かった帰り道を思い出す。
あれは、俺との思い出を増やそうとしていたのか。そうして一人で離れる準備を進めてた。寂しさも未練も俺には綺麗に隠したままで。
いつからそんな器用になったんだよ?
「……ここからは内緒な。絶対言うなよ?」
沢村の声がもう一段低く小さくなる。
それでもその最後の本音は、消えることなく俺の耳にちゃんと届いた。
「俺、おまえが羨ましいんだ」
「にゃ」
「俺もずっと御幸のそばにいたかったなあ……」
そのまま途切れた独り言は、しばらくして健やかな寝息に変わった。一人と一匹、仲良く寝入ってしまったらしい。
布団に運んでやらないと、と思うのに体が動かない。油断したら情けない声が漏れてしまいそうだった。
バカだ。
心の底からそう思った。
俺は万人に優しい訳じゃない、むしろその対極にいる人間だ。関心のない人間は本当にどうでもいいし、他人がどれだけ困っていようが知ったこっちゃない。
沢村が俺を優しいと感じるなら、それはこいつ自身が優しいからだ。
人間が好きで、人間の暮らしが好きで、とうてい貧乏神だなんて思えないくらい明るく、いつも太陽みたいに笑う。
バカ正直で単純で不器用で、貧乏神である自分と仕事に誇りをもっていて、……それでも俺が不遇な目に遭うたびに罪悪感でいっぱいになっていたのを知っている。
「人に嫌われんのが仕事だ!」なんて胸を張っているけれど、それでもやっぱりこのお人好しはその度に傷つくんだ。
俺のいないところで誰かに傷つけられるこいつを想像しただけではらわたが煮えくり返りそうになる。
行くなよ。
そう言ってやりたかった。
貧乏なんてどうでもいい、現に今だって二人と一匹暮らす分にはなんとかなってる。
閑職も実力を養うための充電期間だと思えばいい。そりゃ貧乏神がいる限りなんの仕事をしても成功はしないかもしれないけど、それなりには生きていけるはずだから。
(……けど)
それも長くは続かない。契約終了か配置換えか、どちらに転んでも沢村といられる未来は見えない。八方ふさがりだ。
どうすればいい?
考えろ、考えろ。今役に立たない頭なら、今までの学歴だの仕事の実績だのに何の意味もない。
知識も経験も、持てるものすべてを使って手段を探せ。

――こいつを手離さずにすむ方法を。