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その後の沢村の努力も虚しく、一向に成果が上がらないまま日は過ぎ、例の報告書の提出期限が来た。
最後まで「なんかねぇの?」とぼやいていた沢村だが、なんとか期限内には提出を終えたらしい。
どんな風に書いたのかは教えてもらえなかったけど、それ以来しきりに郵便受けを気にしているので結果は郵送されてくるんだろう。

そして、二月に入ってすぐのことだった。
仕事中に大家の高山さんから電話がかかってきた。もちろん会社まで連絡が来たのはのは初めてだ。
『あ、御幸くん? ごめんなさいねお仕事中に』
「いえ。なにかありましたか?」
『実はさっき、アパートから火が出ちゃってね』
「……はい? 火事、ですか?」
そう呟いた途端、相良さんと江木さんが弾かれたように振り返った。確かに不穏すぎるキーワードだ。
真っ先に頭に浮かんだのはうちの居候の顔だった。かろうじて取り乱さずにすんだのは大家さんの声が既に落ち着いていたからだ。
『幸い火元の室内が燃えただけのボヤで消し止められたんだけどね。それに御幸さんちの猫ちゃんは、さっき庭の隅でお昼寝してるのを見かけたから無事よ。心配しないでね』
「……ありがとうございます」
胸がざわつきが次第に大きくなる。
普通に考えれば、サンマが庭にいるということは沢村もその隣にいる確率は高い、けれどそれは俺にしか確認できない。
あいつは本当にドジだから、姿が見えないのをいいことに好奇心で火元に近づいて巻きこまれていないとも限らない。
火は大丈夫なのか? いや、以前素手で鍋をつかんで大騒ぎをしていた。暑い冷たいの感覚も痛みも普通の人間と変わらないはずだ。
『火元は一階の一番奥の三田村さんの部屋で、もう消防や警察も引き上げてるんだけど、一応お知らせしとかなきゃと思って。それと、放水や煙で洗濯物が駄目になったお宅もあるから、御幸さんの部屋は逆の端だから大丈夫だと思うけど、帰ったら一応確認しておいてもらえる?』
「わかりました。今から帰りますので後ほどご報告します」
電話を切ったのと同時に江木さんから早退届が差し出された。こういう時に窓際部署はありがたい。
いつもなら有り得ない位置の高い太陽からの陽射しを浴びながら、ガラガラの電車の中でどうしても座っていられず、ドアにもたれかかる。いつものんびり運行な路線だが、今日は輪をかけて進むのが遅い。
うかつだった。なにかあった時の連絡方法を俺はあいつに教えていない。無理してでも携帯を持たせておけばよかった。
時間が経てば経つほど嫌な想像だけが膨らんで、最後には小走りになって辿りついたアパートは、もう周囲に人も車もなく静まり返っていた。火元の107号室のドアは閉じられ、一見何が起きたかは分からなくなっていたが、鼻につく焦げた匂いと、ぐっしょりと濡れた壁や玄関回りが確かに火事があったという事実を物語っている。
玄関ドアを開けると、室内も外と同じくしんとして物音一つしなかった。気が急いてもつれた足を叱咤して、部屋を突っ切って庭へと向かう。
勢いよく掃き出し窓を開ければ、眠る猫の隣、庭の隅で膝を抱えて縮こまっていた沢村がゆっくりと顔をあげた。
――いた。
「みゆき、」
立ち上がろうとした沢村の膝がガクンとくだけた。伸ばした俺の手にすがり、なんとか体を支えて足を踏ん張ってから強張った口角を無理やり引き上げる。
「……へへ、ちょっと腰が抜けちまって」
「怪我は? 火傷は、」
「ない。サンマも俺も大丈夫だ」
沢村を支えながら、俺の方がその場にへたり込んでしまいそうだった。大きく息を吐きだす。押し寄せた安堵が少し落ち着いたところで、かわりにむくむくと広がってきたのは腹立たしさだ。抑えきれないほどの。
「なんでさっさともっと遠くに逃げなかったんだよ。ここだって燃えてたかもしれねぇだろ」
古い木造だ、火が廻ればあっという間だろう。
「それがさ、『火事だー!』って聞こえて、慌てて荷物をまとめてたら外に人がいっぱいになっちまって。誰もいないのにドアが開いて閉まったら変だろ? サンマだけでも先に逃がそうと思ったんだけど嫌だって言うから、とりあえず一緒に庭に逃げてたんだ。いざとなったらサンマは塀の隙間から逃げられるし!」
へらりとした笑顔に一気に頭に血が上った。抑えきれないほどに。
「バカか」
「へ」
「荷物ってなんだよ、マル秘マニュアルか? 菓子か? そんなの全部命あってのもんだろうが! それとも貧乏神ってのは焦げようが水没しようが死なねぇのかよ!?」
「えっと、でも」
「一番大事なのはなにか考えろよバカ!」
荒げた声に寝ていたサンマが飛び起き、恨みがましげな目を俺に向けた。
一瞬そっちに気をとられた沢村から、抱えていた風呂敷包みをひったくるようにして取り上げる。ずしりと重い。例のマニュアルかと思ったら無性に腹が立って、けれどほどいた包みの中から現れたのは完全に予想外のものばかりだった。
「……。写真?」
というかアルバムだ。本棚の隅にあった俺の小学校から高校までの卒業アルバムと、先日両親から送られてきた写真入りのハガキ。
「火事の時に人間が一番持ち出したいのは思い出だって、習ったから」
「だからっておまえ、」
無駄に重いアルバムをとりあえず縁側に置こうとしたら、風呂敷の中からポロリとなにかが地面の上に落ちた。まだあるのか、今度はなんだ。
「……袋?」
「あ!」
小さく折りたたんだ水色のビニール袋はまだ少し甘い香りがした。
それで思い出した。初詣のときに買ったわたあめの袋だ。とっくに捨てたと思っていたのに、なんでこんなもん。
「それはですな、その、」
「なに」
「……御幸が、俺にくれたもんだから」
一拍置いて心臓が止まるかと思った。
なんだそれ。どういうことだよ。
「あ、最初のおにぎりとか弁当とかも嬉しかったんだぞ!? でもとっておけるもんってこれしかなくて」
「……」
「ちゃんと洗ったし、だからベタベタしねぇしアリもこねぇし!」
俺の沈黙をどう解釈したのか、焦りまくった沢村の言い訳は方向がずれていた。違う、そこじゃない。
バカか。もう一度そう言ってやりたくなった。全力で。
中身がなければ何の変哲もないビニール袋だぞ? こんなものを持ち出そうとして逃げ遅れたっての?
そもそも普段どこに隠してたんだよ。洗ったっていつ?
「……おまえさ、」
苦々しげな俺の声に、沢村が首を竦めて身構える。
違う、怒ってんじゃない。そんなんじゃないのに、この胸にせりあがってくる、溢れだしそうな感情をどう説明したらいいのかわからない。
ちょっとでも気を緩めたら、不覚にも泣いてしまいそうだった。
「おまえほんと、」
引き寄せて抱き込んだ体は小刻みに震えていた。寒さのせいじゃないと知っている。
「怖かったな」
ポンポンと背中を叩くと、沢村の手が俺のコートの背中をぎゅうっと握るのがわかった。
「お、俺、サンマだけは絶対逃がしてやんなきゃと思って」
「うん」
「けど、御幸が大事なものを失くして悲しむのも嫌だったんだ」
「わかってるよ。……怒鳴って悪かった。ごめん」
「……っふ、」
涙腺が壊れた沢村の顔を自分の胸に押しつけ、より強く抱きしめる。
こいつのためじゃない、自分のためだ。そうしないと自分の震えが止まりそうになかったから。
腹が立ったのは、恐怖の裏返しだ。
怖かった。なにより、沢村を失うことが。
自分にとって替えのきかないなにかを得るということは、同時に喪失の恐怖を知ることでもある。
今ならわかる。俺がこいつに選ばれたのは、自分の中にその唯一無二の存在を持っていなかったからだ。
自分より大事に思えるなにか、自分を制御できなくなるほどに心揺さぶられる存在。そんなもの、俺は知らなかった。――こいつに会うまで。
なんて皮肉だ。

泣きじゃくる沢村を抱きしめたまま、俺は陽が傾いていく縁側からいつまでも動くことができなかった。
どうすればいいのかわからなかったんだ。