鍵を貸してほしい、と鬼気迫る表情の御幸に迫られたのは、金曜午後の現国、つまり沢村先生の授業が終わった直後だった。
「……沢村先生?」
「ほかになにがあんの」
あ、開き直りやがったこいつ。

俺が密かに持ち歩いている社会科準備室の鍵は、郷土史研究会に代々引き継がれてきた極秘財産だ。授業をサボるときやよからぬ密談、もしくは秘め事のためのとっておき。この夏の三年生の引退により、唯一の非幽霊部員である俺が引き継いだ。
部外者貸し出し厳禁、口外も厳禁のその鍵の存在を御幸が知っていたのは、引き継いだその日にたまたま帰りが一緒になったからだ。
その時は「へえ」の一言で全く興味無さげにスルーしたくせに、この賢すぎる頭の中には情報としてきちんとしまいこまれていたらしい。学年首位の記憶力、恐るべし。

俺の名前は小松という。私立の中高一貫校の、今年無事に高等部一年になった。
沢村さん、いや沢村先生はうちの学年一の有名人御幸一也の家庭教師だ。いや、だった。
沢村先生を初めて見たのは去年の中等部の体育祭だ。
第一印象は、すごく普通。平凡でどこにでもいそうな大学生に見えたその人は、けれど御幸にとっては特別な存在なのだとすぐに気づいた。だって恐ろしくわかりやすかったから。
教育実習がはじまって一週間。沢村先生はあっという間に生徒達になじみ、見かけるたびに誰かに囲まれているような状況になってしまった。
遠くからそれを見守る御幸の背中には、そっとさすってやりたくなるほど常に哀愁が漂っている。
御幸はきっと、自分の方が相手よりずっと気持ちが大きいと思ってる。沢村先生を追う目がそう言ってる。
けど、俺は知っている。
御幸が沢村先生を見てないときに限って、沢村先生がそっと御幸を見てること。クラスのやつらといる御幸を見て、すごく優しい顔で笑うこと。
この二人を見ていると、恋愛というのは恐ろしいとしみじみ思ってしまう。
俺はまだ、こんな風にすべてを持っていかれるような感情を誰かに対して抱いたことはない。俺らの歳だと大半はそうじゃないかと思う。
沢村先生に関わると、クールで大人で何事にも動じないというクラスメイトから見た御幸一也像が掻き消え、恋人に振り回される年相応の男子高校生が現れる。たぶん、素のままの御幸が。
人が本心や望みを秘めたり偽ったりするのは、それがささいな傷でも痛みを感じてしまう場所に収まっているからだ。
その場所――心の一番奥を否応なく他の誰かに占められ、乱され揺さぶられる、そんな恋。
それは傍で見ていても大変で理不尽で、そしてひどく幸福そうで。
だから俺は御幸一也のことを密かに羨ましいと思っているし、二人を応援したいとも思っている。直接言ったことはないけれど。シャイですから。

まあそんな俺の心境はどうでもいい。
翌日、鍵を返しに来た御幸の手を押しとどめて、俺は王侯貴族のごとき鷹揚さでもってこう告げた。
「来週まで預けとく」
来週まで。つまり沢村先生の実習が終わるまでだ。
「そのかわり中間考査は頼りにしてるからな?」
鍵を手にしたまま目を見開いていた御幸は、俺の言葉に昨日とはうって変わった晴れやかな笑顔を見せ、「期末考査までまかせろ」と言い切った。マジか。もうけた。
しかしなんですかね、今日のその落ち着いた雰囲気は。昨日その鍵で存分によしよししてもらったんだろうか。
リア充め。

■□

その日、土曜の午前授業が終わり、部活前の学食で盛り上がったのは、今年の教育実習生の品定め(と言ったら言葉は悪いけど)だった。
「女子に人気は斉木先生で、男子に人気が宮野先生。総合じゃ沢村先生だろ」
「あーうん、まあそんな感じだな」
今年の実習生はなかなかレベルが高い。顔の偏差値もだけど、なんだか例年より身近に感じる、というのが大方の意見で、後半部は主に沢村先生の存在によるところが大きいんじゃないだろうか。
沢村先生については一番多く耳にするのは「かわいい」だ。本人が聞いたら拗ねそうだけど。もちろんそれだけじゃなくて、話しやすいとか見てて面白いとか飽きないとかいろいろ、……だめだ、もっと拗ねそうだ。
一人でこっそり笑いをこらえていたら、隣にいた女子(初めて見る子だ)が「えー、でも」と首を傾げた。確かE組の外部生だ。
「沢村先生のこと嫌いな人もいるでしょ?」
「そうなん? 俺、聞いたことねぇけど」
「噂だけど。特定の生徒をひいきするんだって」
「なにそれ、俺知らねぇわ」
「私も聞いたことないよ?」
「ひいきって……教育実習生にひいきされてなにかいいことあんの?」
「そんなの知らないよ、私は授業受けたことも話したこともないし。ただ噂で聞いたってだけだし」
なにそれ。
なんで一番遠い、沢村先生と直接関わりのないクラスからそんな噂が出てくんの? 変だろ。
なんか嫌な感じだ。
「それ、どこから聞いた? 教えて欲しいな」
人懐こいとよく言われる笑顔で顔を覗きこめば、E組の彼女はなんの警戒心も見せずに頷いた。
かっこいいともかわいいとも分類されたことのないあっさり系平凡顔の本領発揮だ。
…別に泣いてなどいない。

その後食堂を離れて部活に向かう途中、階段を上がって二階の廊下に入ったところで、突き当りの階段の前にいる沢村先生を見つけた。
実習生の部屋は、俺の目的地である特別教室棟(ほとんどの文化部の部室を兼ねている)の並びにある。ということは職員室からそこに向かう途中なんだろう。
先生は一人じゃなかった。
先生が腕に抱えているノートの山(たぶんうちのクラス全員分の現国のノートだ。昨日提出した課題のやつ)が崩れて床に落ちたのを、数人の生徒が拾ったところらしい。
その生徒が体を起こした瞬間、背筋がヒヤリとした。まさに今、歩きながら俺の頭の中に浮かんでいた顔だったから。
意識的に歩調を緩めているうちに、三人の生徒は先生に頭を下げて階段を降りていった。その姿が見えなくなっても立ち尽くしたままの先生に、今度は早足で近づいて声をかける。
「沢村先生!」
「おお小松くん」
「くんづけは変っすよ。みんなと一緒でいいですって」
「あ」
そっか、と照れ笑いする沢村先生を見てなんだかほっこりした。アイドルに親しげに笑いかけられたみたいなむずむずする嬉しさと、ほんの少しの優越感。
他のクラスメイトよりちょっとだけ親しみを持たれてんじゃないかと自惚れてるのは、御幸をのぞけば俺だけが、実習に来る以前から沢村先生と知り合いだったから。
二ヶ月ほど前、偶然街中でこの人に会ってお茶をした。
まあそのときに俺は御幸と沢村先生の仲を知ったわけなんだけど、沢村先生はきっと俺が知ってるってことを知らない。御幸が言うわけがない。独占欲の塊ですからあいつ。
「持ちますよ、また落としそうだし」
「いや、すぐそこだし」
「俺の行き先も同じ階なんで」
「そうか? 悪いな」
半分よりは少し少な目に渡されたノートを抱えて、歩き出した先生の隣に並んだ。
実習が始まってちょうど一週間。一対一で話すのはそういや初めてかも。
「さっきのやつらになんか言われたんすか?」
「ん? ああいや、俺が落としたノートを拾ってくれたんだ。その上半分持つって言ってくれてな。親切な子たちだよな」
「それだけ?」
「それだけだぞ? なんで?」
なんでかと言えば、そんなハートウォーミングな話をしてるのにも関わらず、この人らしくない浮かない顔だから。
知らず知らずのうちに俺も似たような顔になっていたのか、沢村先生がちらりとこっちを見て、ちょっと困った顔で笑った。
「……なんか首のへんがゾワゾワしてな。風邪かな?」
「そりゃいけませんね。明日休みなんでゆっくりしてください」
「だなあ。 あ、ここまででいいよ、ありがとな!」
廊下でぶんぶん手を振る沢村先生と別れて部室にむかいながら、俺の頭に浮かんでいたのは御幸のセリフだった。
『たまに妙に勘がいいんだ、普段は鈍いのに』
沢村先生のことをそんな風に評して愚痴とものろけともつかないため息をついていた、確かあれは一月ほど前だったっけ。
先生が感じ取った空気は、俺が感じている違和感と同じものかもしれない。
だってさっきの奴ら――笹田たちが沢村先生に好意的である理由を俺は思いつかない。
御幸とあいつらの確執(と思っているのは笹田たちの方だけだけれど)を俺は忘れない。
もともと御幸を毛嫌いしていた笹田たちだけど、それは片思いに近い一方的なもので、御幸のほうはあいつらをクラスメイトとして認識していたかどうかすら怪しいスルーっぷりだった。
一度だけ正面から対峙したのは去年の体育祭のあと。不当に沢村先生を貶めた笹田たちに対して御幸が放った一言は、あいつらの一番痛い場所を深く抉った。
そして、高校に入ってからも御幸が一度もトップを譲っていないのとは対照的に、あいつらは不合格にこそならなかったものの、ずっと最下層でくすぶっている。
「沢村先生が特定の生徒をひいきをしている」という噂話の発信源は、先生とは直接関わりのないE組だ。かつクラスの半分は外部からの編入生で、沢村先生との接点はほぼないといっていい。
過去の確執、そして今の接触と、勘がいいという沢村先生のこの反応。
かけらを全部合わせれば一つの絵が浮かび上がってくる。けれどそれはあくまで俺の仮説であって、今のところ気のせいといえば気のせいで終わる話だ。さらに言えば俺自身、沢村先生よりのフィルター持ちだという自覚もある。客観性は期待できない。
さあ、どうする。
一番の問題は、さっきの噂話も含めて御幸に話すべきか否かだ。
今のところ実害があったわけじゃないし、沢村先生はE組の授業はないから授業妨害という手も使えない。直接何かできるとは思えない。
沢村先生が絡むと御幸の理性が吹っ飛ぶのは実証済みだし、実習期間も来週いっぱいだ。ここで下手に危機感を煽ることは、却って事を大きくしてしまうことにならないか?
「……うーん」
一人で考えても答えは出そうになかった。幸い今日は土曜日、明日は休みだ。
もうちょっと様子を見て、雲行きが怪しくなったら対応を考えればいいんじゃないかな。うん、そうしよう。

明日やろうはバカヤロウ。
週明けの月曜日早々、俺は自分の甘さを思い知ることになる。