12

幸せとはなにか。
と聞かれてなんの迷いもなく答えられる人間は世の中にどれくらいいるんだろう。
ここで言う幸せとは、一般論ではなく個人個人のそれだ。
あの妙なネーミングの計画を発動後、沢村は沢村なりに昼間に研究しているらしく、帰宅した俺に「こういうのはどうだ」「これ、楽しそうじゃね? 幸せじゃねえ?」と様々なプレゼンをしてくるようになった。
その八割が食に関するものなあたり、この貧乏神の幸せの基準というのは本当にわかりやすい。
ひょいひょいと片っ端から却下していくと「あんたも真面目に考えろよ!」と怒られたりもするけれど、思いつかないものはしょうがない。
常に冷静で、突発的なトラブルにも最善の対処ができる。人事考課の際に挙げられた俺の長所だ。
長所と短所は表裏一体。もしかして俺は人より心の動きが鈍いのかもしれない。誠に遺憾ながら。

「幸せとはなにか、って?」
職場での休憩時間中(といってもほぼずっと休憩みたいなもんだが)なんとなく聞いてみたら、部屋にいた二人がそろって目を丸くしてしまった。鳩が豆鉄砲を食ったようなというのはたぶんこういう顔だ。
「宗教の勧誘じゃないですよ。昨日知り合いに聞かれてとっさに答えられなかったので、他の人はどうなんだろうと思って」
「あ、そうなの。ちょっとびっくりした」
「すみません、唐突でしたね」
「いやいや、君から仕事以外の話をしてくれたのが意外でね」
たっぷりとした腹を揺らしながらホッとしたように笑ったのは相良さんだった。社内でも一、二を争う多忙な営業部の第一線で活躍していた、いささかふくよかな四十代。
「ふふ、私も同じことを思っちゃった」
もう一人、経理畑一筋の江木さんは中学生と高校生のお子さんを持つお母さんでもある。
けれど、俺はそんなに仕事の話しかしてなかっただろうか。確かに積極的に話の輪に加わることはなかったけど、……ああ、うん。確かに自分から雑談をもちかけたことは無かったかも。
「いや、態度が悪かったとかじゃないんだよ? でも、仕事以外の話を振っていいのかちょっとためらうところがあって」
「……すみません、愛想がないのは素なので気にしないでもらえると助かります」
焦って言いつくろう相良さんにかえって申し訳ない気持ちになる。
そんなに不機嫌そうに見えていたとは。いや、実際異動になったころはすこぶる機嫌が悪かったけれど。
「いやいや、君みたいに優秀な人材がこんなとこにいるんだから、ストレスがたまるのも当然でしょう」
「それは相良さんも江木さんも同じじゃないですか」
「そりゃまあ最初は『なんでこんなことに』とため息しか出てこなかったけどねえ」
「私も。お給料も減ったしね」
二人そろって吐いたため息は、セリフの割にはずいぶんやわらかかった。その笑顔と同じように。
「幸せかあ。半年前なら新規の大口顧客の獲得、とか答えたかもしれないけど、今は『家族で過ごす時間』かな。定時で帰るようになって、最初は針のむしろだった家がね、庭仕事や家事を手伝ったり娘と一緒に犬の散歩に行ったりしているうちに、なんとなくこういうのもいいかななんて思えて来てね」
「…ええ」
「まあ何とかしないと、来年は娘の進学もあるし経済面で困るんだけど。悪いことばかりじゃないよね。この年末年始は久しぶりにのんびりと過ごせたし」
半年前の俺なら間違いなく負け犬の遠吠えとしか思わなかったろうその台詞は、今はすんなり納得できるものだった。
きっと同じことを思ったんだろう、渋い黒緑の湯呑みを持ち上げながら、江木さんもうんうんと頷いている。
「私ね、せっかく残業がなくなったんだからこのさい料理を極めようと思って。今まで短い時間でパパッとできるメニューばかり食べさせてきたもんだから、ちょっと凝ったものを出しただけで喜ばれるんだわ、『すっげー!』って。単純だけど、その美味しい!って顔が私の幸せかもね。すごく小さなことだけど」
「お勧めのレシピがあったら教えてください。知り合いに人一倍食い意地のはったやつがいるんで」
「あら、奥さん? はまだいなかったわよね、ふふ、彼女?」
「そういうのじゃないんですけど」
「隠さなくてもいいのに。御幸くんもそろそろお年頃だし、早く元の部署に戻れたらいいわね」
朗らかな笑顔に湧き上がってきた感情は罪悪感、と呼ぶのが一番近かった。
この人たちにとっても不本意なこの配属の元凶は、うちにいるあの元気すぎる貧乏神だ。
そして、本来なら一刻も早く追い出してしかるべきあいつをずるずると家に置いているのは俺に他ならない。
けれどそんなことを口にできるはずもなく、俺は結局その場であいまいな笑みを浮かべることしかできなかった。

結局そのままもやもやした気分をひきずりつつ会社を出ると、とろりと濃い夕日が乾いた空気を染め上げていた。沢村なら熟柿と表現しそうな色だ。
定時退社でまっすぐ帰路についても、電車が自宅の最寄り駅に近づく頃には窓の向こうを流れる景色はもう夜のものに変わっている。冬至は十二月だが、夜が一番深いのは個人的には一月だと思う。春の足音もまだ遠すぎて聞こえない、じっと頭を垂れて厳しい寒さをやりすごす季節だ。
最近では窓の外の灯りの数で、自分の家が近づいてきたのがわかるようになってしまった。
改札を抜けて、自宅への道の最初の曲がり角の街灯の下にちんまりとした影を見つけたのは、一緒の電車を降りた人たちが各々の帰路へと散ってあたりに人気がなくなってからだった。
そのシルエットを見間違えたりしない。
「沢村?」
「お帰り!」
「なにしてんだこんなとこで、寒いのに」
「うん。御幸、いつもこれくらいに帰ってくるだろ? 毎日家までどんな風に帰ってくんのかなって、なんか見てみたくなってさ」
「……別に普通に歩くだけだけど」
「まあいいじゃん、二人で歩けば楽しいし!」
俺の手をぐいぐい引っ張りながら歩き出した沢村は、鼻歌でも歌い出しそうに上機嫌に見えた。家でなにかトラブルがあったわけじゃないらしい。となるとますます意味がわからない。いったい何を考えてんだこの貧乏神は。
帰り道も半ばを過ぎ、左右が田んぼと畑ばかりになってくると、街灯の灯りもポツポツと間遠になる。自分の足元さえあやふやだ。
比例して濃くなった宵闇と静けさをなぎ払うように、沢村の声が驚くほど大きくあたり一帯に響いた。
「すっげー星!」
「放射冷却がすごそうだな」
「そんなんじゃなくてさ、御幸も見てみろよ、ほら上!」
顎を強制的に押し上げられ、否応なく見上げた夜空は――満天、というに相応しい一面の星空だった。
冬は星が綺麗に見えることが多い。それは主に大気の乾燥や晴天日の日数などの条件によるものだ。
なんていう知識がどうでもよくなるくらいの圧倒的な星、星、星。
こんな星空の下を俺は毎日、前だけを見て歩いていたのか。知らなかった。
「綺麗だなあ」
しみじみとした声が隣から上がる。小さく頷いてから沢村にはきっと見えていないことに気づいたが、俺がなにか口にする前に、小さくて温かい手が俺の手をぎゅっと握った。
「…ずりぃよな」
「なにが?」
「俺が御幸を幸せにするほうなのに、なんだか俺ばっかりもらってる気がするんだ」
「……。おまえ、幸せなの?」
俺はきっと理想の契約者とはかけ離れている。それくらいの自覚はある。
それなのに?
沢村は何も言わなかった。ただ、地表までは届かないかすかな街灯の光の下、その大きな目でじっと俺を見上げ、繋いだ手を強くひいてへにゃりと笑みを浮かべる。
「サンマが待ちくたびれちまうから早く帰ろ。腹減った!」
「……ああ」
なんだろう。今、とても大事なことがわかりかけた気がしたのに。
するりと指の間から逃げていったなにかはあっという間に霧散してしまい、もう掴むことは叶わない。
けれど。
歩きながらもう一度見上げた星空を、その息を呑むほどの美しさを――そして自分のことを「ずるい」と言った沢村の表情を、俺はきっといつまでも憶えている。
何故だかそんな予感がした。