11 「おかえり、今日も一日お疲れさまでした!」 室内の暖かな空気をまとって、割烹着姿の沢村がパタパタと玄関までかけてくる。 その後ろをいかにも面倒くさそうにのそのそとついてくる猫の「にゃ」という短い鳴き声も一応「おかえり」らしい。沢村いわく。 「飯にするか? 先に風呂?」 「飯」 「わかった、じゃあ着替えて来いよ」 鼻歌交じりに沢村が戻っていった台所では、ガス台にかけられた土鍋がコトコトと音を立てている。いい匂いだ。 最初はどうなるかと思った沢村の家事能力だが、この二ヵ月ほどのあいだになかなかの進歩を見せ、最近は鍋もの限定ではあるが一人で台所をまかせられるようになった。地道な努力の成果だ。 この調子でいけば冬が終わるころには他のレパートリーも増えているだろう。夏に鍋のオンパレードは遠慮したいのでちょうどいい。 ……いや待て。もちろんそんな時期まで貧乏でいる予定はないけれども。 「あ、そういやハガキが来てたぞ? なんか外国っぽいの」 「外国?」 「えっと、これ」 渡されたハガキの裏面では、青い空と海を背景に、色違いのアロハシャツを着た両親が満面の笑みを見せていた。リターンアドレスがないあたり無駄に逃亡者っぽい。 よくあるクリスマスと年賀状を兼ねたカードだが、前の住所から転送されてきたせいで、正月気分もとっくに抜けた今日の配達になったらしい。元気そうでなによりだ。 おたまを持ったまま背後からのぞきこんでいた沢村が「誰?」と首を傾げる。そういや写真の類をこいつに見せたことはなかったか。 「うちの両親。どうやらハワイにいるらしいな」 「へえ、ハワイって何が美味いの?」 「さあ? マカダミアナッツチョコのイメージしかないけど」 「何それ美味そう、名前が」 もはや名前で判断するのか。いいのかそれで。 「御幸はお父さん似だな!」 いい笑顔で言い切った沢村に少しばかり複雑な気分になったのは内緒だ。 ……親父、少し薄くなってんだけど。主に頭頂部あたりが。 「さて」 寄せ鍋を〆のうどんまで完食したあと、手を合わせ箸を置いた沢村がおもむろに正座しなおした。 つられて姿勢を正しながら、すでにもう嫌な予感しかしない。こいつが改まるときはたいてい何かしでかした時だから。 「年もあらたまったことですし」 「もう半月過ぎてるけど?」 「細かいことはいいんだよ! そういうことですし、俺もそろそろ本気で仕事しようと思いましてですね」 「てことは今まで本気でしてなかったってこと?」 「そ、そんなことねぇし!」 自覚はあるらしく、おたおたと目をそらした沢村の声は見事に裏返っていた。 ちゃぶ台の上には、いつの間に出したのか例の黄色いファイルがのっている。ずいぶん久しぶりに見た気がするのは、このひと月ほど、沢村の話題は猫とご飯とお笑い芸人で埋め尽くされていたせいだ。 仕事のことなんか一言も……いや、サンマを拾ってきたのは仕事の一環か? 家計の支出増を狙った。 違うな、何回も謝ってたし。 「ええと、それでですな! なんとなくでもわかってきたか? あんたの幸せ」 「いやまったく」 「……だよなあ」 がっくりと肩を落とした貧乏神がしおしおとうなだれ、恨めしげにファイルの表紙をなでる。 そこから少しはみ出した封筒らしきものを、俺の目は見逃さなかった。 「おまえさ、なんで突然やる気になってんだ?」 「だから、年もあらたまったし」 「そういう表向きの理由はいいから。それ、なに」 「……! こ、これは別に、あ!」 慌てふためいて隠そうとしたファイルから、見慣れない白い封筒がちゃぶ台の上にパサリと落ちた。こういう場合笑ってやったほうがまだマシなんだろうか。コントみたいだ。 「……ま、その。今日、ハワイのはがきと一緒に届いたんだよ」 観念したのか、ずいっと差し出された封筒の宛名は、俺の住所と名前に並べて沢村の名前がちゃんと書いてあった。貧乏神の組織はこの国の郵便システムをしっかり使いこなしているらしい。 「俺が御幸のとこに来てもうちょっとで三ヵ月だろ? そろそろ最初の報告書の提出期限がくるんだ。その書類だ」 「そんなもんがあんのか」 「もっと慣れたら口頭での報告でいいらしいし、そもそもベテランになるほど一回の契約にかける日数は短くなるから、報告期限の前に仕事を終わらせられるようになるんだって」 「まあ回転が早い方が効率もいいだろうしな」 「でな、問題はここからなんだ」 「うん?」 「3カ月で成果が全然出てなかったら、契約者との相性が悪いと判断されて呼び出しが来たり、最悪配置換えになっちまうんだよ」 「……はい?」 なにそれ。初耳なんだけど。 「違う貧乏神が来るってことか? 冗談じゃねえぞ」 「俺だって嫌だし! なあ、手がかりみたいなものだけでもいいからなんかねぇの?」 「そう言われても」 心当たりがないものはどうしようもない。そもそもこいつが来てからはいつだって何か問題が起きていたり騒がしかったりで、そんな抽象的なことを考える暇などなかった。 「あのな、俺、今日『幸せ』を本棚の辞書で引いてみたんだ」 「……それはまた」 「えっとな、幸せ、幸福とは『心が満ち足りること』らしいぞ? だから今までの人生で心が満ち足りた時のことを思い出してみればいいんじゃね?」 「満ち足りる、ねえ?」 そんな大げさな表現を使うほどのことが人生にあっただろうか。思い当たらない。 「えっと、例えばスポーツで試合に勝ったときとか」 「そこまで本気で打ちこんだことがないからな」 「試験に合格したときは?」 「普通にやれば合格すると思ってたから特に感慨もなかった」 「じゃあ恋愛だ! 恋が実ったとき、これはどうだ!」 「どうもなにも、片思いしたことも自分から告白したこともねぇし」 「うわぁ…」 なにその微妙な目。話を振ったのは自分のくせに。 「自分でなんか思いつかねぇの?」 「うーん、強いていえば仕事か? けど満ち足りるとかそういう感じでもないしな」 「手強いなあんた!」 「何度も言ってるけど、俺は元の生活に戻してもらうのが一番幸せなんだけど」 マル秘マニュアルを睨みながらうんうんうなる沢村に、決まり文句を口にしてから、違和感を覚えた。 俺は本当にそう思っているか? 戻りたいと? 二ヵ月と少し前、こいつが俺の前に現れたときには100%そう思っていた。それは確かだ。 けれど今、「明日から元の生活に戻してやる」と言われたら。 俺はとっさになんて答えるだろう。 そんな俺の動揺に気づかず、沢村はさらにムキになってギャンギャンと言い募る。 「それじゃ俺が来た意味ねぇじゃん。どっかにあんだよ、あんたが気づいてないあんたの幸せ!」 「じゃあおまえは?」 「俺?」 「幸せと思う瞬間、……はたくさんありそうだなおまえ」 「俺は美味いものを食ってるとき!」 ああ、うん。言うと思った。即答か。 「あとな、サンマと遊んでるとき。それと御幸といるとき!」 「は? 俺?」 「御幸と一緒だと、一人のときよりご飯がずっとずっと美味いんだ」 食欲増進剤か俺は。 「てかさ、俺のことはいいんだって!今大事なのはあんたの幸せだろ」 「思ったんだけどな」 「おう?」 「考えてる時点で駄目なんじゃね? そもそも頭で考えるもんじゃねえだろ」 「だって二ヵ月かけても変わってないんだし、なんかしなきゃ。時間がねぇんだって!」 時間がない。 沢村は「報告書の提出期限まで」という意味で口にしたに違いないその言葉は、予想外に俺の胸にずしりとのしかかった。 「……そうだな」 「へ?」 沢村は仕事でここにいる。契約終了とこの生活の終わりは同義だ。それは最初からわかっていたこと、というかそもそもの大前提だ。 なのに俺の中ではいつのまにかこいつがいるのが当たり前になっていて、このままずっと二人と一匹の生活が続いていくような気がしていた。 そうじゃなかった。 契約が無事終了するか、配置換えという形になるのか――どちらにしても終わりはくる。それもそう遠くない未来に。 「なんとかしないとな、そろそろ。いつまでもこんな生活してるわけにもいかねぇし」 それは半分以上自分に言い聞かせたセリフだった。 胸がチクチクと痛む理由を、今はあえて考えない。 このままずるずると俺の幸せとやらが見つからずにいれば、違う貧乏神が派遣されてくる。 今さらこいつ以外の貧乏神に憑りつかれるなんて絶対にごめんだ。とにかく今はそれを阻止しなければ。 「あ、……おう。そうだよその通り、 俺たち相棒だしな!」 一瞬だけ間が空いて、沢村が首がもげそうなほど頷き勢いよく立ち上がる。 「よし、俺も頑張るからあんたも頑張れ。御幸幸せ計画発動だ!」 そのネーミングはなんとかならなかったのか、マジで。 |