翌朝は雲一つない晴れ模様で、この冬一番の冷え込みだと朝のニュースの天気予報が告げていた。昼に布団を干しに帰らねば。
一限が終わって、日陰に残った霜柱をサクサクと踏みながら研究棟に向かう途中でバッタリ出くわしたのは、数日前に会ったばかりの眼鏡美女ともう一人だった。
「沢村くんこんにちは」
「あ、高島さん!と、」
なんだっけ、御幸と腐れ縁の白頭の人。そういや名前聞いてねぇ。
「礼ちゃんでいいわよ」
「鳴ちゃんでいいよ!」
いや、いいよと言われましても。
俺の足元をチラリと見て、わざわざ日陰を歩いていた理由をあっさり看破したらしく、高島さんがにっこりと慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
ちょっと恥ずかしかったものの、鳴さんが嬉々として残った霜柱を片っ端から踏み潰し始めたから、理系の研究者ってのは意外とフリーダムなのかも。
「えっと、これ。御幸の弁当、お願いしてもいいすか?」
「ええ。毎日偉いわね、大変でしょう」
「皆さんの方が大変じゃないっすか。連日泊りがけで、もう年末だってのに」
俺のセリフに鳴さんの霜柱撲滅ステップがピタリと止まり、二人が顔を見合わせた。それから俺に向けられた表情は、双子みたいにそっくり同じだった。
「聞いてないの?」
「へ」
「教授の実験は先週で一段落ついてるの。もう夜中に泊まり込む必要はなくなっているのだけれど」
「……え?」
「御幸くん、そういえば今週もずっと朝一番に研究室にいたわね」
「え、と」
頭がうまく回らなくて、長くもない台詞の内容を理解するのにずいぶん時間がかかった。
それはつまり、御幸はもうする必要もない泊まり込みを何日も続けてるってことか?
それって。
「おまえらさあ、本当にうまくいってんの?」
「ちょっと成宮くん」
「だってさ、んな大事なコト言えねぇのっておかしいじゃん」
なにも言い返せなかった。鳴さん(ナルミヤっていうらしい)が言うことはグサグサくるけど当たってる。
御幸がなんでそんなことしてるのか、考えるまでもない。俺のためだ。俺を困らせないように。時間をくれるために。
「……あのバカ」
出てきたのは自分でもびっくりするくらい低い、腹の底から絞り出すような声だった。
自分の家なのに。俺にはちゃんと自分の部屋だってあるってのに。
バカ、ともう一度胸の中で罵ってやる。でないと泣いてしまいそうだった。
強引で好き放題してるようにみえて、最後の最後は全部俺のためだ。バカすぎで優しすぎだろ。
目の奥が熱くなるのをなんとかこらえて顔を上げたら、高島さんが気遣うように優しく俺の頭を撫でた。泣いちまうからやめてください。こんなとこで泣いてる場合じゃねぇし。
「あの、今の話、俺が聞いたことは」
「御幸くんには言わないわ。けど、ちゃんと二人で話をするのよ」
「……はい」
「なあ、この間言ったこと覚えてる? 今度俺にも弁当作ってよ!」
「あ、はい。御幸がいいって言ったら」
「えー、言うわけないじゃんあのけちんぼが!」
その騒がしさに少し空気がゆるんだのがありがたかった。手を振って研究室に戻っていく二人に頭を下げて、唇をかみしめる。
自分がなにもできない無力な子供に戻っちまった気がした。



その夜、夕飯のときにその話を敢えてしなかったのは、バイトだ大学だとバタバタすることなくゆっくり話がしたかったからだ。
いつも通りコンビニから御幸の部屋まで、今日一日のなんてことない話をしながら一緒に歩く。
玄関で立ち止まった御幸の手を、先に靴を脱いで廊下に上がってからしっかりと捕まえた。行かせるものかという無言の決意をこめて。
目を丸くする御幸の腕をグイグイ引き、問答無用で部屋の中まで引っ張り込んで、そのまま両肩を掴んでベッドに座らせればミッション第一段階の完了だ。第二第三は出たとこ勝負だけど。
「沢村くん?」
何事かと不思議そうに俺を見上げる顔の角度が見慣れなくてちょっと新鮮。
こいつに見上げられんのってあんまないもんな。あ、つむじ。いや待て、今はそうじゃなくてだな。
「俺、今夜から自分家に帰るから。あんたも自分のベッドでゆっくり寝ろよ」
「え、」
「もう泊まり込みはとっくに終わってんだろ?」
一瞬だけ息を呑んだ御幸は、なんで俺がそれを知ってるのか、その情報の流れたルートも含めて即座に理解したっぽかった。
一度目を伏せ、ため息とともに「ごめん」と小声でつぶやき、それから上げた顔は叱られるのを待つ犬みたいだ。
違うし、怒ってんじゃねぇし。俺が怒るとこじゃない、ただ情けなかっただけだ。こんな風にかばわれ気をつかわせてる自分が。
「なんで、とか聞かねぇけど。あんたお人好し過ぎんだろ」
「俺のことをそんな風に言うのは沢村くんだけだよ」
肩にかけたままだった両腕をそっと外し、御幸が苦笑しながら俺の腰を引き寄せる。座ったままだから、眼鏡ごと俺の腹のあたりに顔が埋まる。
小さい子供がお母さんにしがみついたみたいだ。そのせいなのかなんなのか、見下ろすつむじが妙にかわいく見えて少なからず戸惑う。こんなん初めてだ。
「……正直、見た目より余裕は無いんだ」
「へ?」
「カッコつけたことばっかり言ってるけど、惚れてる相手が風呂上りに上気した頬で石鹸のいい匂いをさせながら目の前をうろうろしてたら普通にヤバいんだよ。俺も男だし」
……それって、昨夜ももしかして我慢してたってことなのか? あんなに余裕たっぷりに見えてたのに?
「だから俺が自分の部屋に帰れば解決じゃん」
「駄目。帰さない」
「でも俺、」
「わかってる。そんな顔しなくても約束はちゃんと守る。俺はただ、ここに帰ればいつも沢村くんがいてくれるのがすげぇ嬉しいの。家に帰って来たって実感できてホッとするんだ。だからここにいて」
御幸の腕の輪っかが少し縮んで、吐いたため息が俺の腹をくすぐった。
まただ。名前を知らない感情が湧き上がってくる。体の中にいっぱいになったそれは出口を求めて気を抜けばすぐに涙になろうとする。
違うのに。悲しいわけじゃねぇのに。
「……そういうの、もっと見てぇのに」
「え?」
「かっこ悪いとこや余裕のないとこも全部。俺の前だけってんならよけいに」
髪を掻きまぜるようにして頭を抱きしめる。少し屈んでつむじに頬を寄せれば御幸の匂いがして、胸がギュッと締めつけられる。
「だいたいあんたは! 普段イケメン過ぎんだから、積極的にカッコ悪いところを見せるくらいでちょうどいいんだよ!」
「ガッカリしねえ?」
「俺は別に、あんたがカッコいいから好きになったわけじゃねぇし」
いや、顔はかなり好きだけど。けどそれだけじゃねぇに決まってんだろ? わかれよ。
「……敵わねぇなあ」
俺の腕の中で短いため息をついた御幸の身体がわずかに震えた。笑ってるんだと気づいたのと同時にくるりと視界が回る。
「のわぁ!」
バックドロップよろしく俺を抱えたままベッドに倒れこみ、こつんと額を合わせてきた恋人は満面の笑みを浮かべてた。
降ってくるキスの雨がくすぐったくて笑っちまったら、またころんと転がされて、半分乗り上げられるみたいな形になる。
熱い体。絡む足。御幸の重み。そういうのを意識した瞬間、ネットで検索した時の画像が頭に浮かんじまって、どうしようもなく体が強張ったのがわかった。
それが後ろめたくて申し訳なくて、けどそんな俺を宥めるように、これ以上ないくらいに優しい手が頬を撫でていく。
……情けねぇの。
抱きしめられるとこんなに嬉しいくせに、勝手に体が竦んじまう。
ガキな自分が悔しくてギュッとしがみついたら、全部見透かしたみたいなのんびりした声が頭の上から降ってくる。
「年末年始は二人でのんびりしような。蕎麦を食ってカウントダウンして、初詣にも行こう」
「おう。雑煮もな」
「ふふ、楽しみにしてる」
あやすように背中を叩き続ける手のリズム、御幸の匂い、体温。その全部に包まれて、だんだんまぶたが重くなるのがわかった。
昼間にたっぷり干した布団からはひなたの匂いがする。とろとろと押し寄せる眠気に素直に身を委ね、夢の中に落ちていく。

ごめん、御幸。
もうちょっとだけ、待っててな。

そう口にできたのか、できなかったのか。
「おやすみ」と額に落とされた唇があんまり優しくて、また少しまぶたの奥がじわりとにじんだ。