楠木先輩と会ったその日の夜も、バイトの終わりの時間にいつも通りに御幸が迎えに来た。
いつも通りじゃなかったのは、靴を脱ぐこともなく玄関で別れてそのまま大学に向かうはずの御幸が、俺の背中を押すようにして一緒にリビングまで上がり、コートとマフラーを脱ぎ始めたことだ。
「行かねぇの?」
首を傾げた俺に、そのままソファに腰を下ろした御幸がゆったりと笑って頷く。
「今夜はちょっと余裕があるんだ。しばらく休んでいくから、沢村くんは先に風呂に入ってあったまっといで」
「けど」
「上がってくるまでちゃんとここにいるから。勝手に出ていったりしないから」
クスクス笑いに背中を押され、着替えを抱えて風呂に向かう。……なんか、バレてる。いろいろ。
ざっと洗って湯船で高速で100数えて出たら、御幸はソファを背もたれにして床に座って新聞を広げていた。
タオルを頭にかぶったままペタペタ寄ってった俺を見て眉をしかめ、立ち上がって洗面所に消えた、と思ったら戻ってきた手に握られているのはドライヤーだ。なんで?
「ほら、おいで」
「へ」
「そのままじゃ風邪引くし。その様子じゃいつもちゃんと乾かしてねぇだろ」
「そ、そんなことは」
「あるって顔に書いてある」
引く気のなさそうな笑顔に無駄な抵抗はあきらめて、言われるままに背中を向け、御幸の前に三角座りする。
タオルの上からわしゃわしゃと髪を掻き回されたかと思うと、すぐに温かい風が吹き付けてくる。
いつもは御幸を送り出してから風呂だから、俺の風呂上りに御幸がいんのってもしかしなくても初めてだ。
……気づいたとたんになんか恥ずかしくなるのはなんでだ。別に裸のままなわけじゃねぇのに。
「熱かったら言ってな」
後頭部にあたる温風はちょうどいい強さと暖かさで、マッサージみたいに地肌をほぐす指が疲れを全部吸い取ってくれるみたいだ。
気持ちいい。このまま寝ちまいそう。イケメンはドライヤーの使い方までうまいらしい。
暖かくてふわふわして、俺が猫なら惜しみなくのどを鳴らして賞賛を贈るとこだ。ああ幸せ。
「そういや沢村くん、年末年始は? 実家に帰んの?」
「んー? どうすっかなあ。去年はずっとバイトを入れてたんだけど、今年はそれも禁止されてっし」
「禁止?」
「うん。年末年始は時給高ぇし稼ぎ時じゃん? 去年はクリスマスから冬休み明けまで、コンビニとかけもちで単発もいくつか入れて、ほぼ一日中働いてたんだよ。したらフラフラになっちまってコンビニで倒れかけて、オーナーと楠木先輩にすげぇ怒られてさ」
あんなに怒った先輩を見たのは後にも先にもあのときだけだ。今思い出してもありがたくも申し訳なくて正座したくなる。
そんなことを思い出して思わず背筋を伸ばした俺の頬を、後ろから伸びてきた手が「こら」とつまんだ。
「いひゃい!」
「今楠木のこと考えてたろ」
なぜわかる。おかしいだろ絶対。
「けど、叱りたくなる気持ちはすげぇわかる。俺もその場に居合わせて説教したいくらいだわ」
「まだ全然他人だろそのころ」
そうだ、去年の今ごろはまだ御幸のことを知らなかった。俺を知らない御幸。御幸を知らない俺。
同じ大学に通ってんだから、もしかしたら食堂で隣だったり廊下ですれ違ったりもしてたのかもしれないと思うと不思議な気分になる。
その頃って何してたんだっけ? 毎日誰と飯を食って誰と話してた?
「頼むからもっと自分を大事にしてください? もう沢村くんだけの体じゃないんだから」
「その言い方、なんか変態くせぇ」
「ひどいな」
含み笑いと同時に、ドライヤーの音がピタリと止まった。手ぐしで整えられる髪の毛はすっかり乾いて、ふわふわしてんのが自分でもわかる。
頭皮をすべる指の心地良さに目を細めたら、その指がそのまま頬を下りて唇に辿りついた。
「んっ、」
ドライヤーのせいなのか、いつもはひんやりしてる御幸の手もぽかぽかしていて、触れられたところから溶けそうになる。下唇をふにふにとなぞる硬い指の腹。つむじからうなじを這う唇も同じ温度だ。
「ん、いい匂い」
「シャンプーも石鹸も、あんたと一緒、だろ」
「それがいいんだろ。すげぇそそる」
首に吹きかけられるように漏れた満足気な吐息に、背筋に甘いしびれが走る。
「なんで沢村くんはどこもかしこも美味しそうなんだろうなあ」
「んなの、知るか、」
御幸につながるすべての場所から熱が生まれて体が勝手に熱くなる。震えないように抑えるのが精いっぱいで、息が苦しい。
心臓の音がドライヤーに負けないくらいにうるさく響く。こんな近くにいれば御幸にだって絶対伝わってるはずで、顔が上げらんねぇ。
死にそうだ。これならもういっそ、
「いっそ強引に手ぇ出してくれれば楽なのに、なんて思ってるだろ」
……こら待て、だからなんでわかる!
この男、意味がわかんねぇくらいハイスペックだと思ってたら、ついに人の心まで読めるようになったのか!
と心中で絶叫した一語一句までをも読み切ったみたいに、御幸が笑う。
「だから顔に書いてあるんだって、全部」
「ん、なこと、」
「できるかできないかで言えば、できるね。沢村くんをとろとろにして好きにすること」
今すぐにでも。
と耳に直接注ぎこまれるいつもより低めの声音に、まず真っ先に脳が悲鳴を上げた。
なんか今すげぇこと言われたような。これか、これが経験の差というものか!
悔しいけど、でも納得せざるを得ないほどに御幸の手も唇も全部が簡単に俺を翻弄する。あっけなく流されそうなほどに。
何も考えられなくなってしまえるなら、もうそれでもいいかも。
そんなことを考えた、まさにその瞬間だった。
「けど、駄目。――そんな楽はさせてやらねぇよ」
その声音に、頭にかかりかけていたもやがスッと引く。
思わず振り仰いだ御幸の顔に浮かんでいたのは、苦笑というのが一番近かったかもしれない。ちょっと困ったみたいな、拗ねたみたいな笑顔。
「ひどい男だろ?」
違う、と真っ先に思った。考えるより先に、全力で首を横に振る。
ひどくなんかない。てか、そんなに甘くていいのかってくらい俺に甘いだろそれ。
ひどいのは俺だ。最後をこいつに委ねるってことは、責任も押しつけるってことじゃねぇか。
そんなの駄目だ。ちゃんと決めねぇと。俺が、自分で。
「みゆ、……ウヒャ!」
口にしようとした「ごめん」が変な悲鳴に変わってしまったのは、うなじを這っていった生温かい感触のせいだった。
熱くて濡れた、単独の生き物みたいなそれが何だったのか、一拍遅れてやっとわかった。舌だ。御幸の舌。
「なんで舐める!?」
「ん? どれくらい熟れたかなと思って。風呂上りなのにちょっとしょっぱいかな?」
「へ、変態!」
「そんな俺も好きなくせにー」
「台無しだバカ!」
俺の感動と反省を返しやがれ、と憤慨している間にも御幸の唇はうなじから下に下りていき、やがて肩甲骨に小さな痛みが走った。……か、か、
「噛むなー!」
言ってることとやってることが違うじゃねえか!
その間もずっとクスクス笑いは止まらない。噛んだ場所を癒すように舐め上げる熱い舌。ヘソからわき腹へと撫で上げる手のひら。くすぐったくてむず痒くて、じんじんして。心臓が破れそうだ。
「なあ、もっと俺を欲しがって」
「…っ、」
「早く熟して落ちておいで」
「ん、あっ」
マンゴーかなんかか俺は。
そう怒鳴ってやりたいのに、口をあけたらもっと変な声が溢れちまいそうで、手で押さえることしかできない。
くそ、力が入んねぇ!

「残念。時間切れだ」

進退窮まってぎゅっと目を閉じたところで、やけに冷静な御幸の声がした。
同時につむじにちゅ、とキスが落ちてきたと思ったら、背中を覆っていた体温がスッと離れていく。
力が入らない体をなんとか保って振り返れば、御幸がソファにかけていたコートを手に取ったところだった。
「座ってていいよ」なんてムカつくことを言いやがるから、気合で立ち上がって玄関までついていく。ちょっと足がふらついたのは内緒だ。
靴を履いて振り返った御幸はまるっきりいつもの顔だ。なんでそんななんでもなかったみたいにしてられんだこいつは。
「じゃあいってくる」
「おう。無理はすんなよ」
「大丈夫、たっぷり沢村くんを摂取したから」
「摂取って言うな」
「ふふ、おやすみ。また明日」
「……おやすみ」
腹が立つほど綺麗なウインクが、いつもよりゆっくりと閉まった気がしたドアの向こうへ消えたのと同時に、へなへなとその場に座りこむ。
俺の体に――下腹に溜まったこの熱にあいつは気づいてたんだろうか。きっと、いや絶対気づいてた。顔から火を噴きそうだ。
『なんたって経験値が違うしな』
あの楠木先輩の台詞の意味が全力でわかった気がして、俺は体の熱が冷めるまで、冷たい床にうずくまっていることしかできなかった。

……差がありすぎだろ! ムカつく!