5 高すぎるコミュニケーション能力というのは、いったいどんな環境でどんな風に培われるもんなんだろうか。 廊下をひょこひょこ歩いていくスーツの後姿を眺めながらわりと真剣にそんなことを考えた。 どうやら4時間目は隣のB組にいたらしい。腹が減ってるんだろう、なんとなく忙しなくみえる先生の足取りは、けれどたいして進まないうちに止まった。 「沢村先生、お昼なんですか? お弁当?」 「今日はパンだ。ここの購買のパン、何気にうまいよな」 「一番人気はカレーパンなんだよ」 「マジか! ちょうど今日買ったとこだわ」 声をかけたのはたぶん隣のクラスの女子たちだ。 今日はもう朝からずっとこんな感じで、教室でも廊下でも生徒たちが切れ目なく寄っていくもんだから、俺が声をかける隙がない。 たった一週間。しかも今日はまだ金曜だから、実質は4日と半日。 先生がこの学校に来てからそれだけの時間しか経ってはいないはずなのに、まるでずっと前からここにいたかのような自然な馴染みっぷりだ。 まあこうなるんじゃないかという予感は薄々あった。二人で出かけたときも、ちょっと目を離せば公園で子供と全力でサッカーをしていたり、ベンチのいかめしい老人とノリノリで話し込んで笑い転げていたりする人だから。 けど、それが現実になればやっぱりモヤモヤするのは仕方ないと思う。狭量だと笑うなら笑え。 「大人気だなあ、沢村先生」 隣から俺を見下ろす、事情を知る唯一のクラスメイトの目は、笑いを噛み殺しつつもはっきりと同情をたたえていた。複雑な気分だ。 「ま、いいことなんじゃね? 教師の資質として大事じゃん、生徒に好かれるのって」 「……わかってるよ」 俺だってとっくにわかってるんだ、そんなことは。 その日、昼休みを挟んでの5時間目は、沢村先生のこのクラスで二回目の現国の授業だった。 三部構成、上中下の下だけがこの教科書にはとりあげられていること。上と中の『私』と下の『私』は違う人物であること。 机と机の間をゆっくりと回りながら、穏やかな声で作品の概要を説明していく。 この数日で他のクラスでも数をこなしてきたせいか、板書も授業の進め方も随分スムーズになった。おかげで初日よりは落ち着いて見ていられる。いや、見ていられたはずだった。 「先生も高校生のときやっぱり全編通して読むように言われて、『私』で混乱して訳が分からなくなったんだ。そこだけ注意してください。まあぶっちゃけ三角関係の話ですな」 「先生!」 「はい、なんですか?」 「先生は三角関係のもつれって経験あるんですか?」 「えーと、三角関係、は、ないです。けど、最初に読んだときより今のほうが『私』の気持ちはわかるよ。そんな風に、読む年齢によって印象の変わる話だから、みんなにも二十歳を越えたらもう一度読んでみて欲しいです」 「ところで先生、今彼女いるんですか?」 雲行きが怪しくなったのはこのあたりからだ。 先生が危うく取り落しかけた教科書がバサバサと大きな音を立て、教室の空気がなんとなく砕けた雰囲気になる。 「なななに言ってんだ、それと授業となんの関係が」 「だって先生、この前俺らに聞いたじゃん、『今好きな人がいるか』って。俺らだけ聞かれんのって不公平でしょ」 うん、確かに言ってた。 なにを言いだしたのかと最初は驚いたけど、すぐに作品への興味を引っぱるための導入なんだとわかった。高校生にとって最も関心が高いだろうネタだから。 それを逆手に取られてるあたりはまだまだ隙だらけだ。 「そ、それとこれとは」 「違いませーん」 「で? いるんですかいないんですか?」 「あ、まさかの妻子持ちとか!」 先日のLHRから後、このクラスの奴らは先生に対して遠慮というものが全くなくなった。 この人がまたいちいち動揺したり顔を赤くしたりするもんだから収拾がつかなくなる。サラリとかわせばいいのに……いや、無理か。だって先生だし。 「ああああもう! 彼女は! いません!」 授業が遅れるという焦りもあるんだろうけど、結局そう白状した先生にクラス中から歓声と笑いが起きる。その賑やかさの裏でこっそり頭を抱えたのはもちろん俺だ。 「もういいだろ、次のページいくぞ! 飯島、音読!」 強引に打ち切って授業に戻ったものの、それによってクラスメイトたちの好奇心がさらに大きく膨らんでしまったのが手に取るようにわかった。 この授業が終われば、沢村先生がフリーだという噂はクラスの壁を越えてあっという間に広まるだろう。主に女子の間で。 由々しき事態だ。 その後、やっと先生を捕まえられたのは、最後のSHRが終わった後だった。 実習生の部屋へ戻る途中の先生に追いつき連れ込んだのは、社会科準備室という名の物置だ。たまに教材を出し入れする以外は誰も立ち入らない、埃っぽくて時間が止まったみたいな部屋。 ちなみに鍵の入手にはそれなりの犠牲をはらった。なんでこんな無駄な労力を使っているかといえば、実習生の部屋には昼休みや放課後に常時生徒が入り浸るようになってしまったからに他ならない。全く迷惑な。 「……来ると思った」 全部わかってたって顔で先生は机の上に行儀悪く腰かけ、これみよがしなため息をついた。行動を見透かされているあたりがちょっと悔しい。 「さっきの授業のことだよな? だって他に言いようがねぇじゃん。『彼女はいないけど恋人はいます』なんて言い換えんのも変だし、それに」 「それに?」 「……生徒にはなるべく、嘘をつきたくねぇしさ」 二つ目のため息は期せずして俺と同時だった。 わかってる。この人は悪くない。あの場ではああいう以外になかったし、仮に「彼女がいる」と言ったとしても、それはそれで複雑な気分になっただろう。 俺との関係はバレたらそく破滅の隠し事だし、その存在自体が今の先生にはプレッシャーでありストレスだ。 それでも、この人が今誰のものでもないと学校中の人間に広まったと思うと行き場のないモヤモヤが胸を占める。 「……とって食われないか心配で心配で」 「食われる? なにに」 「肉食系女子に」 同時にこてんと額を先生の肩に預けたら、頭の上で苦笑する気配がした。ぽんぽんとなだめるように背中を叩く手に、なんだか自分が情けなくなる。 実習を応援したいのは本当だ。けど同時に、この人を独占したくて、俺のものだと叫びたい衝動を抑えられなくなる。 これじゃガキだと言われても反論できない。焦って拗ねて、まるでおもちゃ売り場で駄々をこねる幼稚園児だ。 「おまえは俺をなんだと思ってんの。震える子ウサギじゃねぇっての」 「けど、生徒には冷たくできねぇだろ」 「それとこれとは別だし、そもそもだな、斉木先生みたいなイケメンが横にいんのに俺がモテるわけねぇだろ?」 「……もっと自分を知ってよ、頼むから」 「知ってるし。俺が人生でモテたと胸を張って言えるのは一回だけだ!」 「なにそれ、聞き捨てならないんだけど」 どこの誰だと問い詰めようとして、恨みがましく見上げてくる目の意味にやっと気づいた。 「それ、もしかして」 「おまえにだよ! 言わせんなバカ!」 拗ねてそっぽを向いた顔を両手で包んで上向かせたら、真っ赤に熟れた頬が溶けそうな熱を手のひらに伝えてくる。凶悪にかわいい。 こんな風に、人が絶対に来ない状況での二人きりはずいぶん久しぶりかも。そう気づいてしまったとたんに、抑えていた欲が膨れ上がる。 もっと触りたい、キスしたい、もっともっと――けど、最後の最後で理性がなんとか勝利をおさめ、未練たらたらな手をやわらかな頬からそっと引いた。 そんな俺のギリギリの葛藤をわかっているのかいないのか、手が離れた瞬間の先生の顔が少しだけ寂しそうに見えた、のは俺の願望だったのかもしれないけれど。 「しょうもない心配ばっかしてたらそのうち禿げるぞ?」 「不吉なこと言わないでくれる?」 「まあ禿げても腹が出てきても、どんなでもおまえはきっとかっこいいけどな!」 「……」 そんな不意打ちで人の心臓を止めかけておいて、自分はさっさと立ち上がってドアに向かう。本当に性質が悪いったらない。 鍵を開けた先生が隙間から顔だけ出して左右を伺い、先に外に出て俺の手を一気に引いた。 「ほら、人が来ないうちに出るぞ、急げ」 強引に引っ張り出された廊下には、確かに人影はまったくなかった。それは断言できる。 ――なのに、数歩歩いたところで振り返らずにはいられなかったのは、看過できないほどの不快感を首筋のあたりに感じたからだ。 チクチクと小さなとげが突き刺さるような視線、もしくは気配。 けれど振り向いた先にはただ、静まりかえった廊下がのびているだけだ。 ……気のせいか? 「御幸? どうした?」 「ああ、うん。なんでもない」 のんきに鼻歌を歌いながら歩いていく先生の後をついていきながら、覚えた違和感を振り払うようにうなじを何度もこすってみる。 少し過敏になっているのかもしれないと自省しながら。 その違和感について俺があらためて思い出すのは、翌週。 教育実習が後半に入ってからのことだった。 |