「じゃあ俺、そろそろ行くからな?」
「……ん」
不機嫌です、と顔に書いたまま無言で俺を抱きしめ、みゆきが俺の頭にぐりぐりと頬を擦りつける。
言葉が必要最低限に短くなるのはこいつがご機嫌斜めなとき。原因はわかってる。俺がこいつを置いて、今から飲み会に出かけようとしているからだ。

発端は3日前、入院していたバイトの先輩がめでたく退院したことだった。
よかったよかったとみんなで胸を撫で下ろしたのもつかの間、退院直後だというのに「退院祝いに飲もうぜ!」と元気なメールが来たのが昨日の夜。
その場で了解の返信をしたら、隣にくっついてたうちの猫が盛大に拗ねた。
そりゃ本音を言えば俺だって、久々の重なった休みだし、家で二人でのんびりしたかったけどさ。一応つきあいってもんがあるだろ? 職場の人間関係っつーか、そういうの。
くっついたままの人型猫を引きずるようにして玄関に向かえば、腰の鈍い痛みがぶり返した気がして眉間にシワが寄った。重いっつの。こら、さすんな。どさくさまぎれに尻撫でんな。誰のせいだと思ってやがる。
「帰り、迎えにいく」
「いいよ寒ぃし」
「いく」
「……おう。あ、店の場所、」
「いい。わかるから」
「あー、うん。だな」
高性能GPS内蔵型でしたっけ。
俺と契約してパワーアップしたみゆきは、かなり離れていても俺がいる方角がわかるようになった。
ちなみにある程度近づけば今度は匂いを辿れるようになるから、こいつと鬼ごっこやかくれんぼをしたら100%俺が負ける。しませんけどね。
俺が靴を履く間も、背中にくっついていた人型猫はぐりぐりとひたすら顔を擦りつけていた。まるでマーキングするみたいに。
「気をつけろよ」
「…?」
「なんか嫌な予感がする」
最後まで不機嫌なまま、それでも一応笑って俺を送り出したみゆきの直感の正しさを思い知るのは、待ち合わせの店についてからだった。


いつもの居酒屋よりやけに小奇麗だと、店に入った時点で思った。5対5にセッティングされたテーブル席の個室に案内され、さらに髪や服に気合いの入りまくった先輩と目が合ったときに全てをさとった。
そのままくるりと踵を返した俺の腕を「待て待てぃ!」と先輩がつかむ。くそ、逃げ損ねたか。
「なんで合コンなんすか! どこが退院祝いだ!」
「俺はこれが一番元気が出んだよ!」
「なら女の子たちと先輩で楽しく飲めばいいじゃないっすか! 俺、帰りやす」
「んなハーレムが自力で叶うくらいならこんな苦労はしてねぇっつの! 帰さねえよ!?」
堂々と言い放って胸を張ったこの先輩には、確かに普段からなにかとお世話になっている。基本的には面倒見がいい優しい人なんだけど、この女好きなとこだけはいただけない。
「ぶっちゃけおまえは数合わせだから、端のほうで適当に食って飲んでてくれたらいいし。な? 病み上がりの俺を助けると思って!」
手を合わせて拝み倒してくる先輩を振り切って帰る、という選択肢は、今後のバイト環境を考えたら選べなかった。大変不本意ながら。
男5人のうち先輩と俺とあと一人はバイト仲間で、残りの二人は先輩の大学の知り合いらしい。
どうも合コンだと聞いてなかったのは俺だけだったみたいだ。それ、事前に聞いてりゃ俺が断るとわかってたってことっすよね? 地味にムカつく。

やがて店に現れた女の子達は近所の大学の女子大生らしく、部屋が一気に華やかになる。
簡単な自己紹介と乾杯のあと、一番隅っこを陣取り、中央で盛り上がる話に適当に相づちをうちながら黙々と食事をしていた。
出席者に一人けっこうなイケメンがいて、席がフリーになってからも女の子の関心はそっちに集まっていたおかげでなかなか快適だ。もしかしてこのまま無難に終われるんじゃないかと思った矢先、ソファ席の隣に一人の女の子が移動してきた。
俺がぼっちで同情したのか、やたらフレンドリーに話しかけてくれるのはいいけど、ちょっと酔ってんのかやたらと距離が近い。そして香り――香水が、キツい。
これはまずい。なにがってうちの猫的に。
冷や汗をたらたら流しながら、10分ほどでトイレに立って、とりあえず個室に逃げ込んで息を吐く。女の子が座ってた右側の袖を嗅いでみれば明らかに甘ったるい匂いが移っていて、思わず頭を抱えた。
俺にわかるんだから、例え何時間経ったってみゆきが気付かない訳がない。すげぇ嫌な顔するだろうし、なんで匂いが付いたのかも吐かされるだろうし、合コンに参加したのも当然バレる。
いっそ上着ごと捨ててしまおうか。
真剣にそんな不経済なことを考えながら個室を出れば、そこには先客がいた。
俺と逆の端に座ってた、先輩の大学の人だ。俳優のなんとかって人に似てて、最初の自己紹介のときから女の子たちの視線を一身に集めてたイケメン。名前なんだったっけ。思い出せねえ。
鏡越しに目が合ったから軽く会釈したら、イケメンはイケメンらしく非常に爽やかな笑顔を浮かべて口を開いた。
「沢村くん、女が苦手なの?」
「はい?」
「ずっと居心地悪そうだったし、さっきもなるべく隣の子と距離を取ろうとしてただろ?」
「や、まあその」
それは香水がキツかったから。なんて言うのもはばかられて(だって悪口みたいだ)言葉を濁す。
なんだこの人、ずっと俺を見てたのか? んなわけねぇよな、一番離れてたし別に知り合いでもなんでもないし。
「なら一緒に抜けないか? 俺もわりと無理矢理連れて来られて困ってたし、もともと頃合いを見計らって抜けるって約束なんだ」
「約束?」
「ほら、合コンのバランス的にね」
鏡越しではなく振り返ったイケメンと直接目が合ったら、やけにフレンドリーだった笑顔がさらに深いものになった。
ああ、うん。なるほど。
つまりこの人は、言葉は悪いけど女の子たちに対する撒餌みたいなもんか。それはまあどうでもいい。
そりゃもちろん俺だって帰りたいし、穏便に抜けられるならそれにこしたことはない。
けど。
『なんか嫌な予感がする』
微かな苛立ちを含んだみゆきの声が頭の中で響いた。
これは親切心? それとも。
いやいや考えすぎだろ、みゆきの心配性の影響を受けちまってるだろ俺。世の中普通に暮らしてて、そうそうその手の人に出会うはずがねぇよな?
「ふふ、緊張してんの? かわいい」
反応が遅れたのは頭であれこれ考えすぎたせいだ。
その一瞬の隙をついて距離を詰めたイケメンにそのまま抱きこまれて、頭が真っ白になる。
……その手の人確定じゃねえか! しかもなに勝手に抱きついてやがる!
「ちょ、離してくださいよ!」
ヤバい。香水の匂いの比じゃなくこれはヤバい。
昔、まだみゆきを拾って間もないころ、通りすがりの酔っ払いに抱きつかれたことがあった。
ほんの一瞬だけ、家に着く30分も前のことだったのに、みゆきはあっさりそれを嗅ぎつけてひどくヤキモチを妬いたんだ。
今、俺との契約をすませてパワーアップしたみゆきにこれがバレないわけがない。そして経験上、女より男の匂いの方を嫌がるんだあいつは。例えば混んでる電車の中で密着して隣にいただけの人の匂いさえ。
俺の命の危機だろこれ!
「マジでやめろ!」
「なんで? こんなとこで好みの同志に会えるなんて天の配剤だと思うんだけどな」
「同志ってなんすか!」
さっきから粟立ちっぱなしの肌はちっとも収まる気配を見せない。これは生理的な嫌悪だ。気持ち悪ぃ。
あたりまえだ。俺はこいつの同志でもなんでもないから。だって、
「俺は! 男だからじゃなくて、あいつだから好きなんだよ!」
男だの女だのいう以前に、そもそもみゆきは人間でもない。それでもそばにいて欲しいのも抱きしめられて嬉しいのもあいつだけ。替えなんかきかない、たった一人だ。
その存在をずいぶん軽く見られた気がして悔しくて、じわりと滲みそうになった涙を押し込める。こんな奴の前で泣いてたまるか。
「離せ!」
全身の力をこめて突き飛ばそうとした時だった。
「……俺も」
幻聴かと思った。それくらい静かな声だった。同時に締めつけられていた体がふっと軽くなる。
一瞬体が宙に浮いた感覚のあと、背中をしっかりと受け止め抱きしめてくる腕は、振り返らなくてもわかる、よく知ってる手と体温と、馴染んだ匂い。
「みゆき?」
「うん」
「なんで」も「どうして」も思わなかった。だってみゆきにはいつだって、俺が泣きそうなときには手をさしのべてくれるんだ。
目の前の腕をギュッと掴んだら、腕の力が俺を安心させるように少しだけ強くなった。
それでちょっと冷静になって、やっと存在を思い出したイケメン自信過剰野郎は、背中かどこかを打ったのか、全くイケメンに見えない間抜け面で、洗面台にもたれるようにして口を開けてみゆきを見ていた。
やたら自分に自信があるみたいだったけど、みゆきを目の前にして明らかに腰が引けたのがわかる。あたりまえだ、うちの猫のほうが百倍かっこいいっての!
「――もれなく八つ裂き前提だけど、」
俺の頭に頬を寄せたままの呟きは、ささやき声なのに狭い空間によく通る。
優しい声だった。小さい子供に噛んで含めるようなゆっくりと穏やかな声。
ビリビリと突き刺さる空気と台詞の内容がそれを思いっきり裏切っていたけれど。
「こいつに手ぇ出す気、まだある?」
蒼白な男の目にはもはや俺はこれっぽっちも映っていなかった。何度もつまづきながらよろよろとドアを開け、まさに転がるように飛び出していく。まさに猫に狙われたネズミみたいだ。ざまあみやがれ、と閉じたドアに向かってこっそり舌を出したら、頭の上で微かに笑う気配がした。見えてないのになんでわかんの?
「栄純、帰ろう」
「でもまだ途中で、」
「あいさつすれば問題ないだろ?」
ぐいぐいと手を引かれさっきの個室に戻ったら、さっきのイケメンの姿はすでになかった。まあそりゃそうか。
そのせいなのか微妙に盛り下がった空気だった女の子たちが、俺の後ろにいるみゆきを見て目を輝かせた、ような気がした。
「遅ぇぞ沢村! ……と、誰?」
「あ、こいつは」
「初めまして、御幸といいます。栄純の恋人です」
にっこり。と音がしそうな笑顔から飛び出した爆弾発言に、場の空気が瞬時に凍りつく。ちなみに一番固まってたのは俺だ。
こいつはいったい何を言い出してくれてんの。そりゃそうだけど、間違ってねぇけど!
「……というのは冗談として、」
自分で凍らせた空間をまた一瞬で溶かして、一際綺麗に笑って見せる。場の空気は完全にみゆきの支配下だ。
こいつ、絶対自分の顔の利用価値をわかってる。あざとい。いったいどこでそんな技能を身に着けてきやがった。
「まあ保護者みたいなもんです。こいつ今朝からあまり体調がよくなくて、心配だったもんで早めに迎えに来ました」
「あ、そ、そうなんすか! そりゃ悪かったな沢村」
「あ、いや」
「そんなわけで、もう連れて帰っても?」
「もちろん!」
気圧されてコクコクと頷くのみに先輩に、みゆきが眩しい笑顔のままさりげなく顔を寄せる。
あ、なんか空気がピキピキって。
「うちのを変な場所に連れてくるの、やめてもらえる?」
耳もとに落としたその一言を拾えたのは先輩と俺くらいだったろう。それがせめてもの救いだ。
絶対零度の凍気を注ぎこまれた先輩の全身が再度凍りついた。つつけば簡単にひびが入って崩れそうなほど、カチンコチンに。
「じゃあこれで。失礼します」
優雅に一礼したみゆきにその場の誰一人言葉を発することができず、さっきまでの先輩と同じく、ただひたすら頷くことしかできない。
そんな異様な空間から逃げるように、俺も小さく頭を下げてからみゆきに手を引かれて部屋を出る。
扉が閉まる直前、女の子たちの色んな意味での甲高い悲鳴が上がった気がしたけれど、速やかに閉まったドアに遮られてすぐに何も聞こえなくなった。
……俺が謝んのもおかしいけど、うん、なんか。申し訳ない。


店を出て夜道を歩く間、みゆきは一言も口を聞かなかった。
つないだ手をたまに引いて、俺が人にぶつからないように誘導しながら前を歩いていく。
やっぱ怒ってんのかな。そりゃそうだよな。
合コンに出席しちまったこと、不可抗力とはいえ他の男に抱きつかれたこと。ああ、香水の匂いもだ。
もうなにからどう言い訳すればいいのかわかんねぇくらい、今日の俺はダメダメだ。
「みゆき」
「ん?」
「ごめん」
「……」
ほんのわずかな沈黙のあと、うなだれた俺の手を強く握ってまた歩き出したみゆきは、つないだ手を大きく左に引いて細い路地に入り、そのまま何回か角を曲がったあと一際狭い路地で足を止めた。
人の気配の遠い、細くて入り組んだ路地。このあたりはわりとよく通るのに、こんな場所があるなんて知らなかった。猫が好きそうな…あ、もしかしてこいつ、猫のときに来てんのか?
おずおずと見上げてみれば、息が止まりそうなほど優しい目で俺を見下ろすみゆきがいて、俺の腰をそっと抱き寄せる。
……怒ってねぇの?
「あのヤロウは思い切り引っ掻いてやればよかったと思うけど」
鼻に皺をよせたみゆきは、今目の前にあの気障男がいれば、引っ掻くより噛みつきそうな勢いだった。
牙を剥きそうに歪んだ口元は、けれど次の瞬間には緩み、浮かんだいたずらっぽい笑みはいつものみゆきだ。
「栄純がかわいいこと言ってたから、もういい」
……。
かわいいことって、あれか。あれだな。
うん、あれは切羽詰まってたとはいえけっこう恥ずかしい台詞だよな? けどまさか本人が聞いてるとは思わねぇだろ普通。思い出しただけで顔から火を噴きそうだ。
けど。
「……ほんとのことだし」
みゆきじゃないと俺は嫌だ。なにもかも、全部。
勢いでそう言ってしまってから死ぬほど恥ずかしくなった。もしかして俺、けっこう酔ってんのか?
穴があったら入りたいけど穴がないもんでとりあえず目の前の腹にギュッとしがみついたら、またふわりとみゆきの匂いがした。香水とかとは違う、けどこの世で一番好きな匂い。
こんなこと言ってたら俺まで匂いフェチみたいじゃね? あれだ、家族は似てくるって言うしな!
「なあ、あんまかわいいことばっかしてると、このまま抱っこして連れて帰るけど?」
「な、なに言ってんだバカ猫!」
柔らかく抱きしめる腕に包まれて、クスクス笑いとセットでつむじやこめかみに小さなキスが降ってくる。くすぐったくてあったかくて、このまま眠れそうなくらいに安心できて――なのに、キスが頬まで降りてきたところで急に空気が変わった。
首筋に顔を埋め鼻を押し付け、ふんふんと何度か嗅いだみゆきがカプリとそこに噛みついた、かと思うと腰に回った腕の力が背骨が折れそうなくらい強くなる。
……もしかしなくてもあの自信過剰野郎の匂いがするとか?
「帰ろう。早く」
低い声のそんな宣言が聞こえたかと思ったら、次の瞬間体がふわりと宙に浮いた。一瞬だけ閉じて開いた目に映るのは、高く伸びるビル群とその向こうの夜空と、ぽっかりと浮かぶ月。そして、それを背景にしたみゆきの顔だけだ。
これはあれだ、世に言うお姫様抱っこというやつなのでは。
成人男性にするもんじゃねぇだろ普通!
「ちょ、やめろよ恥ずかしいだろ!」
「誰も見てねぇし、人のいない路地を抜けてくから平気」
「そういう問題じゃなくて!」
必死の抗議の間にも、夜空もビルもどんどん後ろへと流れていって、まるで空を駆けているみたいで。
俺は結局何も言えなくなって、胸に顔を伏せるふりをしながら、こっそりとみゆきを見上げる。不機嫌そうな顔がおかしくてこっそり笑いを噛み殺したのは内緒だ。
さっきは「もういい」って言ってたくせに、やっぱ嫌なんじゃねぇか。
「すぐに風呂に入ろう」
「……『入ろう』?」
『入れ』じゃなく? それはもしかして一緒に入るってことですか?
今晩寝れんのかな俺。
「俺の匂い、これでもかってくらいつけてやる」
風の中、拗ねた口調でそう宣言した唇は微妙に尖ったままだ。
家に着いたら真っ先にキスしてやろう。
そう心に決めて、俺は両腕をそっと恋人の首に回した。