3 家の最寄り駅に着いた頃にはもうあたりには薄闇が降りていた。しっとりと降り注ぐ雨が薄布のカーテンのように視界を奪う。 栄純のマンションに足を向けかけ、少し考えて方向転換する。それは予感というより確信に近かった。 あいつはきっと俺のところに現れる。視界の悪さと雨音に紛れて、こっそりと。 うちのアパートの裏は、宅地になる前の森林をほぼそのまま残した公園になっている。おかげで虫は多いし夏は公害レベルでセミがうるさいが、その緑の多さを栄純は気に入っていた。 一度帰宅し、電気をつけっぱなしにして部屋を出て、そのまま公園の東屋の陰に身をひそめる。 長丁場に備えて持参した缶コーヒーを開けながら、ふと一人で笑ってしまったのは、最初の時にもこんな風に罠を張ったのを思い出したからだ。 毎晩俺の部屋のドアにおかずの入った袋をそっとかけていく『犯人』を捕まえるため、バイトを休んで暗い部屋に身をひそめた。 ずいぶん時間は経ったのに、やってることは同じだ。俺はまだちゃんとあいつを捕まえられてなかったってことなんだろうか。 それから一時間ほど経った頃だった。 雨音に紛れて、足音は殆どしなかった。 暗がりから街灯の下に現れた栄純は、半そでTシャツに薄手のパーカーを羽織っただけの軽装で、普段より幼く、頼りなく見えた。 傘をささずに歩いてきたらしく、髪からはぽたぽたと大粒の滴が垂れている。 ずぶ濡れじゃねぇか、バカ。 本人は垂れるしずくを気にもとめていない様子で、静かに建物を見上げる。端から二番目、明かりの点いている俺の部屋を。 それは胸が痛くなる光景だった。 なんで見てるだけなの。俺はおまえのなんなの? 「ストーカーは卒業したんじゃなかったか?」 狼に出くわしたウサギもかくや。 比喩じゃなくぴょこんと飛び上がった栄純が、背後の俺をノロノロと振り向くまで、ゆっくり数えて5秒はかかった。 「みゆき、さん」 「なんで傘ささねぇの。風邪引きてぇの? 俺はおまえみたいに美味い粥は作れねぇからな」 捕まえた指先の冷たさにこっちの心臓がヒヤリとした。紙のように白い頬もきっと同じ温度なんだろう。 なんでもっと自分を大事にしねぇかなこいつは。 「ほら、帰るぞ」 「……怒ってねぇの?」 「怒ってるよ。おまえはとりあえずその逃亡癖をなんとかしろ」 決して逃げだせないようにきつく繋いだ手は、栄純の皮膚に食い込んできっと痛みを与えている。そうわかっていても力を緩めることができなかった。 「おまえがいなくなんの、トラウマなんだよ」 部屋を完璧に片づけ自分の痕跡を消し、こいつは俺の前から姿を消した。 一年近くも前の話だってのに、あのときのことは今も思い出したくない。自分の家なのにうまく息ができなくて苦しくて、ひどく惨めな気分だった一週間を。 俺の手を握り返した冷たい手が、ほんの少し力が強くなった気がした。気のせいかもしれないし、偶然かもしれない。 けど、それ以上の抵抗は見せずに栄純はおとなしく部屋についてきた。 まずは風呂に湯を張って問答無用で放り込み、出てきたところをつかまえて有無を言わせずバスタオルで包む。 ほこほこと湯気の上がる体と赤い頬に安堵して力まかせに頭をゴシゴシしてやれば、タオルの中から「すいやせん」と消え入りそうな声が聞こえた。 続いておずおずと出てきた顔は真っ赤で、せっかく拭いたのに頬はまたぐしょぐしょだ。 舐めたらしょっぱいだろうその頬を両手で包んで、潤んだ目をしっかりとらえる。 聞け。 「おまえさ、いいかげんちゃんとわかれ」 自分がどれだけ俺の中で大きな存在なのか。俺にとっておまえがなんなのか。 「俺はおまえのつくる飯じゃないともう美味いと思えないし、おまえを腕に閉じ込めてないと眠れないし、おまえが隣で笑ってないと息ができない」 大きな目がこぼれそうに丸くなり、残っていた涙が縁から伝い落ちて俺の手を濡らす。 知らなかっただろ? こんなに俺を変えたのはおまえなのに。 「とんでもなく面倒くさい男だろ? 離れてダメになるのはきっと、圧倒的に俺の方だ」 もしかしてこれは究極のダメ男の口説き文句なのでは、と思わないでもなかったが、恐ろしいことに全部事実だからしかたない。 「俺の幸せを遠くから祈るくらいなら、そばにいて俺に人間らしい生活を送らせるべきじゃね?」 「……御幸さん、俺がいないとダメなんすか?」 「おう、ダメダメだ」 少なくともこんな風に、息もできなくなるほど人を愛しいと思う瞬間は二度とこない。 だから。 「……もう、離れんな」 二度と。 最後はみっともなく掠れてしまった台詞はすがりつくようだった。 これじゃますます女房に逃げられそうになっているダメ男そのものだ。 大きな目からあふれ続ける涙は、沈黙が落ちてもまったく枯れる気配を見せなかった。 なあ、どうする? まだ逃げんの? 何度だって捕まえてやるけどな。 「俺、3日間ずっと自分の部屋にいたんです」 涙まみれの顔を一度タオルに押しつけ、鼻を大きくすすって、栄純がやっと口を開いた。 「だと思ってた」 「高校ん時から住んでて、俺の居場所はずっと学校かそこしかなくて」 「うん」 「なのに今はもう、何日経っても落ち着かなくて、寝れなくて」 「……うん」 「ここに、……家に、帰りてぇって、思っ、」 最後まで言いきる前に、骨まで折る勢いで抱きしめた。 バカ、ほんっとバカ。 「ここ以外どこに帰る気だよ。だいたいここまで完璧に餌付けしといて俺のことを捨てたら、おまえ史上まれにみる酷い男だぞ?」 少し緩めた腕の中から、泣き笑いのふにゃふにゃの顔がのぞく。 ちょっと不細工で、けど俺の目にはとびきりかわいく映る、愛しい笑顔。 「なら俺、御幸さんが長寿で自治体から表彰されるまで長生きさせてみせやす!」 「なんだよその具体的すぎる目標は」 思わず噴き出したじゃねぇか。 けど言質は取ったからな、覚悟しろよ? 「約束な」 もう一度力をこめた腕の中、栄純は確かに頷き、負けないくらい強く俺の背を抱きしめた。 雨の音はもう聞こえなかった。 |