2 「で、拗ねてるってわけか」 「別に拗ねてねぇし」 我ながら思い切り拗ねた口調の反論は、思った以上に泣き言のようにしか聞こえなかった。 年代を感じさせる研究室は、必要な照明以外は落としてあるせいでやや薄暗い。 喫茶店のマスターの如く慣れた手つきでコーヒーを淹れる倉持と、テーブルを挟んで向かいに座る俺。 まるで三日前に巻き戻ったみたいだが、状況は一変している。思えばあの時の悩みなんか幸せ以外のなにものでもなかった。 窓の外は今にも雨粒が落ちてきそうなどんよりとした曇り空だ。自分の胸の中をのぞきこんでいるようで余計に落ちこむ。 あの日、コンビニでしばらく頭を冷やしてから戻った部屋にもう栄純はいなかった。 その時点で追いかけなかったのは、俺も少しばかり意地になっていたからだ。 プロポーズと呼べるほどちゃんとしたもんじゃなかったが、それでも頭から否定されればやっぱりダメージはくらうし落ち込みもする。 それでも一日経っても帰ってこないとなると、意地よりなにより心配と焦りの方が大きくなる。 昨日行ってみたあいつのマンションは、何度インターホンを押しても反応はなかった。 こんなにあいつと離れているのはあの時――あいつが予告なく俺の前から姿を消したあの一週間以来だ。そう思ったら、空っぽのはずの胃のあたりに重く冷たいなにかがどんどん詰まっていく気がした。 「なんでこんなことになってんだかなー…」 俺はただ欲しいものをそれとなく聞きだしたかっただけだ。 今週いっぱいかけてプレゼントを探して当日はケーキを買って、せっかく二十歳になるんだから酒もいろいろ見繕って。ありきたりだと笑われそうだが、あいつの喜ぶ顔を思ってあれこれ考えるのは楽しかった。 なのにこのままじゃ誕生日を一緒に祝えるかどうかすら怪しい。 本当に、なんでこうなった。 「おまえ、本当はあいつがうちに来てねぇのはわかってたんじゃねぇの?」 「……まあな」 冷蔵庫から本格的なクリームポットを出してきた倉持が、ため息を一つついて、やや乱雑に正面に腰を下ろした。 バレてる。すっかりなじみになったこの研究室を今日訪ねたのは、栄純が来てないか聞きたかったから、…というのは口実で、実際は倉持の言うとおりだ。 この兄貴分は過保護だが、一方だけの話を聞いて盲目的に味方をするような真似はしない。 栄純がここに逃げてこなかったのは、今回の事情を知れば倉持は自分の味方にならないと判断したからだ。 つまりあいつも自分の言い分がおかしいってのはわかってるってことに他ならない。 そして、友人が増えたとはいっても、あいつがそんなに気軽に人の家に転がり込めるわけがない。 インターホンに応答こそしないが、栄純はきっと自分の部屋にいる。あんなに苦手だと言っていた自分の部屋にこもって、今頃何を考えているんだろう。 (……泣いてんだろうな) はぁ、と吐き出したため息はテーブルを白く曇らせ一瞬で消える。一見なめらかに見える表面にも細かい傷は無数についている。 それはここで多くの学生たちによって多くの実験が行われてきた証だ。時を経てなんの傷もないものなんて存在しない。人も、モノも。 なのに。 「あいつはさぁ」 カップをのぞきこめば、少し冷めたコーヒーの漆黒に、思ったよりずっとしょぼくれた自分の顔が映って揺れた。 「この先ずっとああしてくだんねぇ負い目を抱き続けんのかね」 「かもな。『俺と会わなかったら御幸さんはもっと』とか思ってんだろ」 「……ったく、あのバカ」 俺があいつを好きなことはちゃんと伝えられているはずだ。そこは自信がある。 だからこそこの半年であいつは変わってきた。よく笑うようになってクラスで友達もできて、バイト先でも俺が心配になるほどに可愛がられている。出会ったころのビクビクおどおどしていたあいつとは別人のように。 けど、「愛してる」とどれだけ繰り返したって、それだけで魔法のように傷が消えるわけじゃない。残念だがそれも事実だ。 時間をかけてつけられた傷は回復にそれ以上の時を要するし、それでもどうしても消えないまま残ることもある。 その消えない傷やいびつな部分を自覚して、あいつをまた必要以上に『俺なんか』と自分を追い込んでいく。絵にかいたような悪循環だ。 思わずもれた舌打ちに、倉持の眉が一瞬だけ跳ね上がり、すぐに苦々しげなため息が落ちる。 理由はわかっていても、度を越えた遠慮や自己評価の低さはやっぱり腹が立つし嫌いだ。それには、自分が一番価値を置いているものを否定されたやるせなさも含まれている。いくらそれが本人によるものだとしても。 あちこち傷痕があって、いびつなかたちで。けどそれがあいつそのもので、俺はそれこそが丸ごと欲しいのに。 「そういやあいつ、将来の話をしたことがなかったな」 「将来?」 「三日後の特売とか二週間後締め切りのレポートとか、一か月後の初詣とか。そういう目の前の話はしても、大学を出た後や、もっと先の話をしたことは一度もなかった」 俺の卒ゼミや就職セミナーの話題からそういう話になりかけても、今思えば不自然に話題を変えられていたような気がする。 それはきっとあいつが、その先の未来を思い描くことを自分に禁じていたからだ。 固い床の上、うつむいて表情を隠した栄純の、膝の上に置かれていた拳の白さをやけに思い出す。固く固く握りしめられた拳。引き結ばれた唇。 そのすべてがたったひとつの事実を示してるってのに、本人だけが認めようとしない。 (バカだな) 嘘でも俺と別れるなんて言えねぇくせに。たったそれだけであんな泣きそうな顔をするくせに。 強情っぱりめ。 「強情なら負ける気がしねぇけどな」 「なんの勝負だよ」 「ま、好きなだけ逃げればいいし? 逃がさねぇし」 「はっ、怖ぇな」 「 あんなに俺を愛してくれるやつはいないし、この先も出て来ねぇよ」 「そこは同意してやってもいいけどよ」 「さらに困ったことに、俺のほうがもっとあいつのことを愛してんの」 「だからノロケは家でやれっつってんだろ!」 深い深いため息を右から左に聞き流しつつ、冷めたコーヒーを一気に飲み干す。 いつの間にか外は雨が降り始めていた。無数の雨粒が若葉を揺らし、汚れを洗い流していく。一雨ごとに目に見えて緑が勢いを増していくこの季節にあいつは生まれた。 健やかで強い生命の息吹を一年で一番感じる時期。きっと本来のあいつによく似合う季節だ。 (……会いてぇな) 一度そう思ったらいてもたってもいられなくなった。 触れたい。抱きしめたい。あんな苦しい顔じゃない、笑った顔が見たい。 「あいつんとこ行ってくる」 「あのバカに、落ち着いたら連絡しろって言っとけ」 「了解」 笑顔ひとつないままに見送る兄貴分は、栄純を見てきた時間が長い分、きっと俺より複雑な思いを抱えているんだろう。けれど口も手も出してこようとしない。 託されている。 その信頼がありがたかった。 |