「誕生日? あいつの?」

驚きを隠せなかった俺の台詞に、その原因となった相手もまた、前髪の間から一瞬だけのぞかせた目を丸くした。
新緑が目に染みるGW明けの水曜日。心地良い風が並木の間を吹き抜け、足元の石畳には揺れる木陰が落ちる。
普段より人の少ない大学構内で立ち尽くす俺ら二人に、追い越していく学生たちがチラチラと視線をよこしてくる。それだけ俺たちの間の空気が緊迫してるってことなんだろう。
「……もしかして知らなかったんですか?」
「……聞いてねぇわ」
俺の眉間に寄った縦ジワを見て、目の前の美少女めいた男は叱られた子供みたいに首を竦めた。


「小湊といいます」
そう名乗られる前に、声をかけてきた人物が誰かは確信を持ってわかった。
小柄な体に顎までのサラサラのピンクの髪。しょっちゅう性別を間違えられている、なのに誰よりも男前、しかも賢くて優しい『春っち』。
栄純がベタ褒めに褒め倒していた、あいつの大学での話の中で一番よく聞く名前だからだ。
用件は簡潔にしてはっきりしていた。
2週間後の栄純の誕生日にサプライズでお祝いをしたいが、ついては俺との予定を聞いて、それを外して日程を決めたい。
プレゼントも丸かぶりは避けたいので、どんな系統のものかだけでも教えてほしい。
その二点だ。
それを聞かされた時の俺の衝撃をわかってもらえるだろうか。第三者に恋人の誕生日を知らされるこの脱力感ときたら。
「15日ってもちろん今月のだよな」
「あ、はい。5月15日だって言ってました」
「サンキュ、助かったわ。なにをやるかってのはちょっとまだわかんねぇけど、たぶんかぶることはないと思うから好きなものを選んでやって。あと日にちは、そうだな、前日の夜と当日は一応空けといてもらえるか?」
「わかりました。あの、俺が言ったってこと、栄純くんには」
「言わねぇよ。ほんと悪いな」
「いえ。それじゃ俺はこれで」
礼儀正しく頭を下げて去って行ったピンク頭をしばらく見送り、改めて今日の日付を確認する。
「あと10日もないじゃねぇか」
舌打ちしたタイミングですれ違った男が、俺の顔を見て慌てたように飛びのいた。どうも相当凶悪な顔になっているらしい。
別に怒ってるわけじゃ……いや、正確に言えば怒っている。けれどそれは自分にだ。
栄純が自分からこの手のことをアピールしないのはわかっていたのに、うっかり聞きそびれていた俺がうかつだった。
聞くタイミングは何度かあった。そのうちの一回が去年の俺の誕生日だ。
当日はテーブルに乗り切らないほどの俺の好物が並び、さらに始めたばかりのバイト代を全部つぎこんだと思われるキーケースをもらった。
そうだ、あの時に確かに誕生日を聞いたんだ。
なのにあいつときたら「今年はもう終わりましたから」の一言で済ませて、その後ビールと料理攻めにしてくれたもんだから。

正門を抜けてフラフラと歩きながら、どうしてやろうかと頭の中で算段する。
幸いGWはお互いバイトの予定があってどこにも行けずに終わったから、予算的にはそこそこ余裕がある。
そこまで考えて、ぴたりと足が止まった。
後ろを歩いていたサラリーマンが迷惑そうに咳払いをして追い抜いていったが、気にする余裕もなかった。
なんてことだ。大問題だ。

「……あいつが欲しいものって、なんだ?」

■□

「だからなんでここに来るんだよ」
「だって栄純に欲しいもん聞いたって絶対に言わねぇじゃん。それか『御幸さんがいてくれるだけでいいです』とか言いそうじゃん?」
「ノロケか。帰れ」
はるばる電車に揺られて会いに来た義兄(と言うと本気で嫌がるので積極的に使っている)は、相変わらず俺には容赦なく冷たかった。
そう言えば初対面の日以来、こいつの眉間のシワが消えたところを見たことがない気がする。それくらい俺と話すときはいつも仏頂面だ。栄純には思い切り甘いくせに。
「欲しいもんってのは好きなもんとイコールでいいのか? ならわかるけど」
「なんだよ」
「料理と洗濯と俺」
「だからノロケに来たんなら帰れ」
ノロケでも冗談でもなく、至極真面目に言っている。
俺を最後にしたのはちょっと謙遜してみただけで、あいつが一番好きなのは俺だ。
なら自分にリボンをかければいいと思うかもしれないが、第一に似合わないし、第二に今の時点でもう全部あいつにやってしまっているつもりだから、改めてやるものが何もない。
そんなことをぽつぽつと語り終えてふと目をやれば、そこには遠い目をしてやけに無表情になった倉持がいた。
ちゃんと聞いてんの? 真剣に相談してんだけど。
「で、なにがいいと思う? 無難なとこで身に着けるもん…服とか靴とか財布とかか? どこか食事に連れてってもいいけどあいつの飯の方が断然美味いし、外でベタベタしたら怒るしな」
「なにをもらってもあいつは喜ぶだろ」
「わかってねぇなあ」
もちろん何をやったって、それこそコンビニで買ったアイス一本だってあいつは喜ぶだろう。そりゃもう心の底から。それは知ってる。
けど、だからこそあいつが本当に欲しいものを用意してやりたい。なんたって二人で迎える最初の誕生日だ。
なのに何も浮かばないなんて、恋人としては忸怩たるもんがあるだろ?
「ぬかせ。だいたいおまえら二人とも、俺に対してはさんざんノロケるし好きなことばっか言ってるけど、お互いの会話が足りねぇんじゃねえの?」
「……痛いとこ突くねおまえ」
栄純と奇妙な出会い方をして一年。ちゃんとつきあいだしてからでももう10か月になる。
あいつは今やほぼ俺の部屋で寝起きしているし、大きなケンカをしたこともなく、まずまず順調につきあっているつもりだ。
けど、それでもあいつはまだ自分の誕生日すら俺に主張することができない。
そういう行き過ぎた遠慮に対して、今さら腹を立てたりはしない。ただ少し胸が痛くなるだけだ。
あいつが俺の誕生日を特別だと思うのと同じくらい、あいつの誕生日は俺にとって特別だ。
そんな簡単なことがどうしてわからないのか、たまに歯がゆくてたまらなくなる。
「ほらよ」
「…サンキュ」
いつの間にか淹れなおされたコーヒーが目の前に置かれた。
こみあげる笑いが顔に出ないよう苦労する。帰れと言うなら水も出さなきゃいいものを。
「そういや、ここに来るとなんとなく栄純の機嫌が悪くなるんだよな。気のせいか?」
「そのものずばり嫌なんだろうよ、おまえが俺と会うのが」
「なんで? 兄ちゃんを取られた気になるからか?」
「バカ、逆だ。おまえを俺に取られた気になるらしいぞあいつは」
「…………は?」
「この間ボソッと言ってたぜ。『御幸さん本当に洋兄のこと好きだよな……』とかなんとか、恨みがましい目で」
「マジで? ゾッとしねぇな」
「まんまこっちの台詞だ」
げんなりした顔を見合わせ、期せずして同時にため息を吐く。
よりによってなに考えてんだあいつは。

■□

結局答えは得られないまま(まあそんな気はしていた)帰路についた。
家に着いたらバイトが終わった栄純が一足先に帰っていて、手早くエプロンを身に着けながら「おかえりなさい!」と満面の笑みで出迎える。
「ただいま」と抱きしめると「暑ぃ!」と文句をいいつつも大人しく腕の中におさまってるのがかわいい。
そのしみじみとした幸せを破ったのは、弾かれたように俺を見上げた、ちょっとだけ険しくなった大きな目だった。
「御幸さん、また洋兄のとこ行ってた?」
「……なんで」
「男の勘っす」
しきりにシャツに鼻を押しつけてるけど、まさか匂いを嗅ぎ分けてるわけじゃねぇよな? 男の勘恐るべし。
む、とふくれた頬はありありと不満を示している。もしかしてこれか、倉持が言ってたヤキモチってのは。なにそれクソ可愛いな。
「そりゃ会いたくなんのはわかりますけども! 洋兄は男前だし包容力抜群だしああみえてすげぇ優しいしそれに」
「はいストップ」
流れるようにスラスラと倉持を褒め称えた口をつまんでやる。ヤキモチはかわいいけどそれはNGだ。
「ひゃひをふふ!」
「俺以外の男をほいほい褒めてんじゃねえぞ?」
「洋兄っすよ!?」
「兄ちゃんでもだーめ」
「……へへ!」
そこで喜んじゃうのがこいつのかわいいとこだ。
飛び込んできた体を受け止めもう一度抱きしめたら、ふわりと優しい匂いがした。
香水とかそういう単色の強い匂いじゃない。シャンプーや柔軟剤やその日の料理の匂い、そういうのが全部一緒になった「うちの匂い」だ。
自分の恋人から自分の家の匂いがするってのはなかなかいい。まるごと全部自分のもんって気になる。
鼻をすり寄せれば自然に目を閉じる、これも俺が教えたこと。ちゅ、と軽く触れるキスを繰り返すうちに、吐息に混じった「御幸さん」というかすれた囁きがやたらエロい。
「そういやおまえ、ずっと『御幸さん』だよな」
「へ?」
「俺の呼び方。なんか他人行儀じゃね? 呼び捨てでも下の名前でも好きに呼べばいいのに」
「俺、御幸さんの名字好きなんで。響きが優しいし、いい名前っすよね」
「ならおまえもなってみれば?」
「え」
「御幸になればいいじゃん」
口調は我ながら最高級の羽毛より軽かったし、すごく話のついでっぽい流れになってしまったけれど、思いつきで言ったわけじゃない。ずっと考えていたことだ。
実家がこいつを傷つけるだけのものならば、すっぱり切り離してやればいい。DNAレベルではどうしようもなくても法律上他人になることはできる。
もちろんうちの親にも話を通す必要があるし、実現するにしても最低限俺が自立してからになる。まだまだ遠い先の話だ。
けど、いつかは。
その思いが伝わったのかどうかはわからないが、栄純が俺の腕の中で体を強張らせたのがわかった。
顔を見ようとした俺の手をするりとかわし、体を離して一歩分距離をおいて、床の上に正座する。ひどく固い、なのに泣きそうな表情で。
「ダメっすよそんなん」
とっさに言葉が出なかったのもしょうがないだろう。まさかそんな真剣に否定されるとは思ってもみなかったから。
「……なんで」
「ご両親に怒られちまうし」
「うちの親は基本不干渉だから問題ねぇけど?」
「御幸さんが人に後ろ指さされたり、生き方の幅を狭められる人生を送るのは俺、絶対嫌っす。御幸さんはいつだって日の当たる場所の真ん中にいる人だから」
「……」
上がりかまちに膝をついた俺と、正座する栄純。その間の一歩分の距離。そこにスッと一本、目には見えない線を引かれた気がした。それはこちら側からは飛び越えることのできないラインだ。
その日の当たる場所にいる俺の隣に自分の場所は無いのだと、最初から決めてしまっている思いつめた目。
俺を見上げるその目を見てしまえば、言わずにはいられなかった。
「なあ、わかって言ってる? それ、いつかは俺と別れるってことだぞ」
返って来るのは沈黙だけだ。重く息苦しい、けれど頑なな。
「……よくわかった」
まだ靴を履いたままだったのはよかったのか悪かったのか。
そのまま踵を返し部屋を後にしても、追ってくる足音は聞こえなかった。