一度開けた教室のドアをそのまま閉めて、その閉じたドアに向かって大きなため息を吐き出した。
突き当りの大窓を通して、廊下にも三月のうららかな春の陽射しがふんだんに降り注いでいる。
……確かに眠気を誘う陽気だ。陽気だけれども。
「なんで寝てるかな!」
想定外なんですけど、御幸くん。

■□

あの鍵を失くしかけた日からもう一月が経つ。
あの日、大学の研究室まで駆け戻って「明日から雇ってください」と直訴したら、先生はすべてわかっていたと言わんばかりににっこり笑って「お帰り、放蕩児」と俺に手を差し出した。
本当に全部わかられてたらどうしようかとちょっとだけ思ったけど、まあその時はその時だ。
首尾よく採用通知を受け取った俺のその後の行動はなかなか素早かった。
大学近くのホテルに引っ越し、あいさつ回りや引継ぎを自他ともに認めるコミュ力でさくさくこなした。
目の回るような忙しさだったが、しばらくふらふらしていた身と心を引き締めるにはちょうどよかった。
大学での俺の身分は准教授ということで落ち着いた。立ち位置的にはなにかと多忙な恩師のゼミや講義の全面的なサポートで、卒ゼミの実質的な責任者になるらしい。その名簿の中に見知った名前を見つけてほくそ笑んだのはほんの10日ほど前の話だ。
どう驚かせてやろうかと頭をひねり、学生たちとの初顔合わせの日――つまり今日、御幸にだけ一時間前にずらした時間が伝わるように仕組んだ。
ドアを開けて目が合って、あいつがどんな顔をするのか。第一声に何を言おうか、何を言われるのか。
さんざん考えて、ありとあらゆるパターンを昨夜シミュレーションしたつもりだったのに、寝てるとか。まさかのまさかだ。
「俺の努力と寝不足をどうしてくれんの」
そのままドアを背にしてずるずると廊下に座りこむ。
誰かが見ていれば思い切り不審がられるだろうが、幸いにも春休み真っ只中の大学の廊下には俺以外誰もいない。
はあ、とため息をもう一つついて、後頭部をひんやりとしたドアに預け、そっと心臓に手を当ててみる。極限にまで高まっていた鼓動はまだ全然おさまる気配を見せない。
一瞬で目に焼きついた光景。小教室の窓際、後ろから三列目。やわらかい春の陽射しの中、寝息のリズムでわずかに上下する肩のライン、グレーのシャツの背中。
顔は全く見えなかったけど、間違えようもない。
……御幸が、いた。
たったそれだけなのに、不覚にも目の奥がじわりと熱くなる。そんな自分に笑ってしまうけど、これはもうしょうがない。
だって、まるで駄目押しのように思い知らされちまった。俺はあいつに会いたかった――こんなにもただ、会いたかったんだと。
『バカだね、沢村さん』
頭の中の御幸がふわりと目を細める。
二ヵ月間俺の中にいた御幸は、一回りも年下のくせに、いつも「しょうがねぇなあ」って顔で俺を見て笑っている。
(ああ、そうだな)
ほんとバカだよな。大人はわりとバカで面倒くせぇよ。
妙な理屈をつけて足掻いてねじくれて、やっと本当に欲しいものにたどりつく、バカでいじらしい生き物だ。
中にいる実物のおまえはなんていうんだろう。
やっぱり「バカだね」って笑うのか?

銀色の鍵を目の前にかざす。
同じ色のチェーンに通した銀色は、ずっと俺の心臓の一番近くにあった。御守りみたいに。
この一ヵ月、着任に備えてちゃんと部屋を借りるように再三言われたけれど「当てがあるんで」と断っていた。もちろん無許可かつ一方的な『当て』だ。
この鍵を手離さなきゃいけないのか、このまま俺のもんにできるのか。
答えを握っているのは扉の向こうで眠る男だけだ。
「……おし、行くか!」
ふわりと自然に浮かんだメロディラインが優しく胸を満たし、自然に背筋が伸びる。
退路は断った。今朝送った俺のすべての荷物は、夕方にはあの部屋に届くだろう。
もう引き返せない。引き返す気も無い。
ドアノブを握って大きく息を吸いこんだら、さあ。

かくれんぼはもう、終わりにしよう。





「こんにちは、御幸一也くん」
「あ、んた、何して」
「こらこらあんたじゃなくて『先生』ね。沢村先生!」