それからしばらく、東京を中心にしつつもわりと全国あちこちを転々としていた。
誘いをもらったのは前の職場と御幸の大学だけじゃない。中には環境も報酬も申し分のない話もあったが、決めきれないでいるうちに時間は過ぎ、結局残ったのは二つだけ。
そのうちの一つ、御幸の大学に再び足を向けたのは、学生たちの後期試験がすべて終わった頃だった。
恩師の部屋に顔を出すと、机の上はほぼ同じ高さの二つの山に分けられたレポートで埋まっている。
思わず震えたのは、これがどれだけ恐ろしい光景かということを俺たち過去の教え子は身を以って知っているからだ。
どちらかは「再提出、または不可」の山だということを。
「先生、相変わらず鬼っすね」
「いや、愛だね。長い目で見れば愛だよ」
「愛って言えば全部通るわけじゃないっすよ。で? 今年はこれはって奴はいるんすか?」
「おまえほどめちゃくちゃな奴はいないな」
「めちゃくちゃって」
「褒め言葉だぞ? 思考に枠がなくてひたすら自由人だったからなあ沢村は」
いや、褒めてねぇし。
少なくとも俺は黒歴史をあれこれ思い出して胃が痛いんですけど。
「ああ、そういえば一人注目したい学生がいる。今回のレポートがなかなかの出来でね、本人はアドバイスをくれた人がいたからだと淡々としていたが」
左の山の一番上にある紙の束を先生が手にとったときはもう半ば確信があった。
「……名前は?」
「御幸だ。御幸一也。今度四年になる」
身構えていたにも関わらず、その名前は俺の心臓をゆさゆさと揺さぶった。
律儀なやつめ。アドバイスもなにも、俺はちょっと口を出しただけだってのに。
「そういえば、彼にこの間妙なことを聞かれたな」
「え?」
「このあたりに社会学に関連するような会社や研究所はないか、と。あまりにも漠然としていて答えられなかったが、あれは就職先の相談だったのかな? もしかして」
とっさに表情を押し殺せたのは俺にしては上出来だったと思う。
まあ不審がられなかったのは、この根っから天然の恩師だからかもしれないけれど。
「で、腹は決まったのか? この大学でやる気がないわけじゃないんだろう?」
「んー、魅力的な職場ではあるんですがね。……もうちょっとだけ保留にしてもらってもいいすか」
「それはいいが、新学期までもう間がないぞ」
「わかってます。すみません」

無理を言っているのはわかっていて、それでも踏ん切りがつかないまま大学を辞し、ふらふらと駅に向かった。
二月の風は容赦なく頬に冷たくて、けれどほんのわずかに次の季節の萌芽を含んでいる。春は近い。
駅が近づくにつれ、御幸と歩いた街並みが現れる。次の信号を左に曲がればハンバーグのうまいファミレスがあって、それを越えたなだらかな上り坂の向こうにあいつの家がある。
三日間を共に過ごした家。くすんだボルドーの鉄の扉。ちょっとくたびれた、居心地のいいソファ。
そこに御幸がいる。
そう思ったら、ずっとこらえていた独り言が自然にあふれた。
「……バカだなあおまえ」
先生から聞いたとき、息が止まるかと思った。
俺を探してた。あんな少ない情報で、絶望的な状況でも、諦めずに。
(なあ、なんで?)
鼻の奥がつんとなって、慌てて天を仰いだ。答えを知りたくて知りたくなかった。
気を抜くと勝手に進路を変えそうになる足を叱りつつ、まっすぐ駅を目指す。
だって俺は分別ある大人だから。
歩きながらポケットに手を突っ込んだのは寒かったからじゃなくて、それが半ば無意識の習慣になっていたからだ。
なのに。そこにあるはずの馴染んだ重みとギザギザに、何度探っても指が当たらなかった。
自分の血が音を立てて引いていく音を初めて聞いた。
ない。
ポケットをひっくり返しても、逆側にも、尻ポケットや上着まで全部くまなく探しに探しても、どこにも。
心臓が自分のもんじゃないみたいにドクドクと暴れている。
朝家を出た時には確かにあった。切符を買う時にも触った記憶がある。
どこで落とした?駅か電車か、ここまでの道のどこかか、それとも。
震える指でまずは駅に電話する。今現在、電車内も駅にも落し物は届いていないらしい。
とりあえず大学に向かって来た道を引き返しながら、目を皿のようにして道を探した。人目なんか気にしていられない。
手の中にある時はずっしりとしていたのに、いざ探すとなると鍵というのは存外に小さい。何の飾りもないからなおさらだ。
キーホルダーやリボンは一切つけていなかった。俺のものじゃないのに勝手に私物化するようで気が引けたから。それが仇になった。
やがて大学の正門が見えて来て、先に教授に話して大学に届を出すべきかと迷って顔を上げた時だった。
「あの」
ためらいがちに声をかけてきたのは、幼稚園帰りらしい母娘連れだった。品の良いお母さんと制服姿の三つ編みの女の子だ。
「もしかして、落とし物をされました?」
「鍵を、えっとこれくらいの、キーホルダーもなんにもついてない銀色の鍵なんですけど」
「これ?」
女の子の手のひらに載った鍵を見た瞬間、安堵のあまり足元から崩れ落ちるかと思った。
震える手で取り上げたそれは、見慣れた形をしていた。手にしっくりなじむ重さ。――御幸の鍵だ。間違いなく。
「これ、です」
体中の空気を吐き出す勢いで息をつけば、母娘が顔を見合わせて「よかった」と笑った。
腰を落として、小さな救世主の大きな瞳と視線を合わせる。まだ震える声と体を叱咤して。
「すげぇ大事な鍵なんだ。これがないと迷子になっちまうとこだった。ありがとうな」
「もう失くさないでね」
「ああ、約束する」
母娘に手を振って別れてから、あらためて握りこんでいた拳を開いて鍵を見つめる。
手のひらの上で体温と同化した銀色の小さな塊。この小さな鍵を、この一ヵ月間自分がどれだけ拠り所にしていたのか、嫌というほど思い知らされた。
三日間の記憶は薄れることなく、それどころか日に日に思い出す時間ばかりが増えていく。気のせいじゃもうすまない。

――降参だ。

「……はは」
なんだか笑っちまう。
一目惚れとか出会ってすぐ恋に落ちたとか、映画やドラマの中だけのことかと思ってた。事実は小説より奇なりとはよく言ったもんだ。
考えるのも悩むのも、もうやめた。俺らしくもない、これ以上うじうじしてたらカビが生えそうだ。
もう大人の分別だの責任だのは考えない。好きになったもんはしょうがない。
もしもあの一夜があいつにとって遊びやその場のノリだったとしても、それはそれでいい。今から本気にさせればノープロブレム、万事解決じゃねぇか。
「うぉし!」
正門に仁王立ちし、気合を入れて見上げた学問の府の背後には夕空が広がっていた。
俺の前途を祝福するかのような、鮮やかで目に沁みる夕焼けだった。