*『happy-go-lucky days』の5と6あたりの、御幸と離れていた間の沢村さんの話です。



目覚ましになったのは、ベランダの手すりを規則的に叩く雨だれの音だった。
部屋の中は薄暗くて、けどそれが夜明け前だからか雨のせいなのかがわからない。
壁の時計に目を凝らせば、まだ通勤ラッシュの時間には程遠いらしく、ホッと息を吐く。連休明けから日本の満員電車に揉まれるのはごめんこうむりたい。
そっと首を捻れば、すぐ目の前に目を閉じた綺麗な顔があった。
眼鏡を外して整った顔立ちがより際立っている、一回り年下の大学生。昨夜、この男に抱かれたのはどうやら夢じゃないらしい。
夜というよりは明け方まで、熱に浮かされたような時間を共有する中、途中から朦朧としていた意識の底で、ずっと雨音を聞いていたように思う。
自分を抱き枕のように柔らかく抱え込んだ男は深い眠りの底にいるようで、隣で半身を起こしても目を覚ましそうな気配はない。
まあ覚まされても大いに困るわけだが、その閉じた目が自分を映さないのがなんとなく残念な気がして、けれどその理由を考えることは意図的に放棄した。
完全に計算外だった。
なにがって、うっかり者の自分の窮地を救ってくれた通りすがりの大学生と、とても人に言えないこんな関係になったことが、だ。
住処にしていたホテルに帰る術はいくらでもあった。こんななりでもいいおっさんだ、電車代すらないとはいえ、最終的には交番に駆け込めばすんだ話だ。
それでも図々しくここに世話になることを決めた理由は一つ。御幸一也という大学生に純粋に興味がわいたからだった。
見た目も中身もハイスペックでそつのない、けれどその実、自分のテリトリーに他人が踏み込んでくることをひどく嫌うタイプ。人当たりの良い笑顔と軽やかな弁舌を駆使しながら、上手にそれを隠して生きている。
そんな男がなぜよりによって初対面の不審者、つまり俺を拾って三日間も家に置いてくれる気になったのか。
それが気になってしかたなかった。一度気になったらとことん追求したくなるのは研究者の性だ。つくづく業が深い性質ではある。
好奇心は猫をも殺すってのはこのことだ。にゃあ。
「……どうすっかね、これから」
一夜のあやまちというフレーズが頭に浮かんで噴き出しそうになる。まさか自分の身の上に、しかも三十路に入ってそんな粋な事態が起ころうとは。
どうするもこうするもない、このまま二度と会わないのがこいつのためには一番いい。それは明白だ。
前途洋々たる若者の未来を思えば、俺とのことは一夜の過ちで済ませるべきだろう。
このまま姿を消せば、御幸には俺を追うことはできないだろう。別に意図したわけじゃないが、与えた情報は名前と年齢、それに歯医者の患者番号だけだ。

のろのろとベッドから這いだし、昨日洗濯した自分の服を身に着ける。
ヘソから下の感覚が鈍い。気を抜けば軟体動物のようにくたくたと崩れ落ちそうになる。自分の足じゃないみたいだ。
持ち物を確認して(とはいっても本当に身一つだ)、借りていた服をできるだけ丁寧に畳んでソファの上に置く。
最後にのぞきこんだ御幸の顔は、こっちが拍子抜けするほどに安らぎに満ちていた。
もう一度、あの深いコハクの瞳が見たいという欲求を抑えるのに苦労する。
「ありがとな」と玄関で深く頭を下げてドアノブを握る。扉が閉まる瞬間は振り返らなかった。


昨夜ずっと降り続いていた雨は、今はこぬか雨に変わってアスファルトに踏み出した足を濡らす。
パーカーのフードをすっぽりかぶって歩いていると、すれ違う出勤途中のサラリーマンが何人か怪訝そうに振り返った。
慣れているとはいえちょっとうんざりだ。けど、サボりじゃねぇしそもそも学生じゃないんだといちいち言って回るわけにもいかねぇし。

そのまましばらく歩いて、雨宿りも兼ねて入った公園の東屋の自販機でジュースを買ったときに『それ』に気づいた。
左手首に刻まれた赤い印。見える場所につけるなと言ったら素直に頷いていたくせに、人の知らないうちにこんなとこに。
「……あのヤロウ」
ぶわりと湧きあがる熱のかたまりに息が詰まる。
昨夜、あいつに抱かれている間ずっと、全身がひたひたと温かく満たされているのを感じていた。
上手い下手でいうなら間違いなく上手い。けれどそんな技術的なことじゃない。
言葉がなくても愛されていることをごく自然に実感させられるような、そんな夜。ずっと聞こえていた雨音からの連想なのか、しっとりと降り注ぐ優しい雨のような抱き方だった。
「……はは」
笑ったはずなのに、口から出てきたのは弱々しいため息のような何かだ。
『愛されてる実感』?
それが俺の一方的な思い込みである可能性だって十分にある。
だって、
(わかんねぇじゃん)
誰に対してもああいう抱き方をする男なのかも。
だって俺はあいつのことを、あの三日分以上はなにも知らない。
「ほんと、どうすっかなあ」
落ちるため息には底が見えなかった。
まいった。本当にまいった。
気の迷いですむならすませてしまいたい。なのに。
『沢村さん』
不意に脳裏で甦った低い声に二の腕がざわりと粟立つ。何度となく耳に注ぎこまれた、熱の塊のような囁き。
タチの悪い時限爆弾だ。時と場所を選ばずよみがえっては、人の心臓をおかしくする。
朝っぱらから思い出すもんじゃない。エロ過ぎだ。

ポケットの中の鍵を握りしめる。本当は置いてくるべきだったあの部屋の鍵。
俺がこれを持ち去ったことで、あいつは何を感じるだろう。
マナーのなってないおっさんだと思ったか?
それとも。
……いや、自分に都合の良い解釈はやめとこう。
(早く返さねえとな)
ちゃんとわかってる。大丈夫だ。

――それでも、今すぐ行動に移せないこと自体が、俺のたっぷりすぎる未練をはっきりと示していた。




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