教育実習3日目。3時間目の臨時LHRが突然俺に任された。
「生徒たちと親睦を深める良い機会です」とダンディにほほ笑んで職員室に去っていた高橋先生だけど、午後の授業のプリントを作り忘れていたと今朝ぼやいていたのを俺は知っている。
取り残された教室で何をどうしたもんかとまごついているうちに、生徒の一人が手を上げた。体育祭の実行委員だ。
「先生、体育祭のことでいくつかクラスで相談する必要があるので、俺たちで進めさせてもらってかまいませんか?」
「あ、ああ。まかせた。俺はこっちで見てるからよろしくな」
「はい。ありがとうございます」
慣れた様子で前に出た体育祭実行委員二人によってLHRは滞りなく進められていく。
体育祭は一か月後の10月半ばだとかで、今日は係の分担と個人の出場種目を決めるらしい。
最低一種目は全員出場すること、色別対抗リレーは原則タイム順になること。
選出の際のルールを手短にてきぱきと説明する様子を見守りながら、俺よりよっぽど堂々と教壇に立つ姿に内心ため息が漏れた。どっちが先生だ。
教室の端っこで授業の資料を作りながらそれとなく進行を見ていると、出場種目の決まった生徒から応援団の小物作りなどの各自の作業に移っていく。
後に残っていくのは不人気種目で、全国トップの偏差値だろうがセレブの集まりだろうがこういう時にもめるのは同じらしい。
女子同士がちょっと険悪になりかけやや騒然となったところで、実行委員から御幸にヘルプがかかった。
ちょっとドキドキしちまったのは、「自分の仕事じゃない」とスルーするんじゃないかと思ったからだ。去年の御幸なら確実にそうした。
けど、やる気無さそうに立ち上がった御幸はそのまま相談の輪の中に入り、実行委員と話しながら表になにか書き込み始めた。
騒がしかった周囲が急におとなしくなって、じっとそれを見守っている。
輪の真ん中に、御幸がいる。
「先生、なに笑ってんの?」
「うわぁ!」
心臓が止まりかけた、確実に。
御幸に気を取られているうちに、俺の机の周りにはいつのまにか、手に作りかけの布の花を持った三人の女生徒が椅子ごと移動してきていた。
どうやらここで作業をする気らしい。女子会か。
「俺、笑ってたか?」
「すっごい嬉しそうだったよ」
「いや、仲のいいクラスだと思ってさ」
「うん、中等部の時よりまとまってるかも。御幸くんがHR代表でクラスの真ん中にいるからじゃないかなあ」
「……御幸が?」
「私、去年も御幸くんと同じ組だったんだけど、前は端っこから動かなくて、教室の中で誰が何をやってても邪魔はしないけど興味もない、関わりたくないって感じだったから」
「ああ」
その例えはすごくよくわかった。目の前にその光景がはっきりと浮かんでくるみたいだ。俺が出会ったころのあいつはまさにそんな感じだった。
「中等部の終わりくらいからかな? なんとなく雰囲気が柔らかくなって話しかけやすくなったの。で、話してみたらちゃんと聞いてくれるし、頼めば行事なんかも協力してくれるようになったんだよ」
「へえ、そっか」
のんびり話しているうちに、揉めていた輪からどよめきと拍手が起こった。どうやら問題が解決したらしい。
真ん中にいる御幸が無表情で愛想が無いのは変わらないけど、バシバシと背中や肩を叩かれ、笑顔を向けられている。人の輪の中にちゃんと溶けこんでる。頼られて好かれてる。
――それは、俺がずっと見たかった光景だった。
(……よかった)
際限なく頬が緩んでいくのを抑えられなくて、頬杖をつくふりをして両手で口元を隠した。これ以上へらへらしてたらただの不審者だ。
「ねえ先生、御幸くんてかっこいいでしょ? 」
今度は変な声が出そうになった。なんたる不意打ち。このタイミングでなんてことを聞いてくるかなこの子は。
いや、深い意味はないのはわかってるけど、それでも心臓に悪すぎる!
「あー、うん。だな、イケメンだ」
「頭もいいし大人だし、すごくモテるんだけど、前は断り方が容赦なかったの。ね?」
「うん。手紙とかは全部無視だし、直接告白されても『興味ない』の一言でバッサリだったんだよ。だからわりと早い時期に告白しようって子も校内にはいなくなっちゃって」
「ふんふん」
「でも今年は高等部に上がって外部生が入って来て、春は大変だったんだよ」
「……ほう?」
なにそれ、聞いてねえ。
「だよね、入ってきた女子の半分くらいは御幸くんにいったんじゃないかなあ? でも、その子たちへの断り文句が『大事な人がいるから』だったらしくて、それで大騒ぎになったんだよね」
「あれすごかったよね! けど校内では誰ともつきあってる風はないし、最終的によその学校の子だろうって話になったんだけど、誰も見たことがないの」
「あんまりガードが硬いから、実はアイドルやモデルが相手なんじゃないかって噂もあるんだよ」
「へ、へえ……」
背筋をたらたら流れる冷や汗が止まらない。
それは、あれだ。ガードが固いんじゃなくて視界に入ってないだけだ。
俺たちは普通に家を行き来してるし外で会うことだってわりとある。けど御幸と俺が歩いててもその『大事な人』だとは誰も思わないだけ。嬉しいような悲しいような。いやいいんだけど別に。
それにしても。
(あいつ、本当に有名人なんだなあ)
あらためて実感する。一挙手一投足が注目されて、本人不在でもあちこちで話題に上る。誰もが先を争うようにその名前を口にする。まるでアイドルだ。
でも。
……人に隠し事すんなって言っといて、自分だって結構いろいろ隠してんじゃねぇかあのヤロウ。
と、ちょっと胸の中がモヤモヤしてきたときだった。
「先生ー!」
「うお!」
背中に乗っかってきた生徒の勢いを殺しきれず、机で強かに額を打つ。ゴンって漫画みたいな音がしたぞ今。痛ぇよ!
「こら柔道部! おまえ自分の体重考えろ!」
「あ、俺が柔道部って知ってんだ?」
「そりゃ自分のクラスの生徒だしな」
「先生、じゃあ俺は? 何部?」
あらかた出場種目が決まったのか、後から後からわいて出る生徒達の顔と名前、部活を必死で重ね合わせているうちに、初めてのLHRはあっという間に終わりのチャイムが鳴った。
生徒たちとの親睦を深めるという当初の目的は十分達せられた気がする。てかこれもレポート提出だっけ。しまった、なにをどう書けばいいんだ。
そして、そのままバタバタと違うクラスの授業の準備に向かった俺は、最後まで気づかなかったんだ。

御幸がずっとこっちを見ていたことに。

■□

「沢村先生、今いいですか? 体育祭のことでちょっと」
その日の昼休みも後半になって、御幸は非常に礼儀正しく実習生の部屋のドアをノックした。
「おう。いや待て、なんでおまえが? それって実行委員の仕事じゃねぇの?」
「忙しそうだったから引き受けたんです。他の先生は?」
「宮野先生は保健室で女子会中。斉木先生は生徒とバスケしてくるってさ。まあ座れよ」
「うん」
俺しかいないことをちゃんと確認してから態度を変えてくるあたり、さすがに抜かりない。
斜め前の椅子に座った御幸の手もとには、一冊のファイルと小さな紙袋があった。どうやら体育祭の資料らしい。
「高橋先生じゃなくて大丈夫なのか?」
「その高橋先生が沢村先生に任せるって」
「俺、当日はもういねぇのに? まあいっか、どれ?」
「これ。借り人競争のお題を、先生にも5枚ほど書いてもらえって」
「借り、人?」
「その名の通り人を借りてくるんだよ。これは去年のなんだけど、先生や来賓は名指しされるし、他にも『学校で一番怖い人』とか『お父さんにしたい先生』とか色々ある」
「へえ。面白そうだな」
机の上にあけた紙袋の中身は一筆箋くらいのサイズの紙片の山だった。一部汚れたりよれたりしているのが昨年の生徒たちの奮闘を思わせて微笑ましい。
「高等部で一番盛り上がる種目なのは、こんなのも入ってるせいだよ」
御幸がつまみあげた一枚を受け取り開いてみる。……はい?
「好きな人ぉ?」
「毎年これで何組かくっつくんだって」
「いないときはどうすんだ?」
「家族でも友達でも、別にどういう好きかは限定してないから」
「なるほどなあ」
確かにこれは盛り上がるかも。勢いで告白するやつもけっこういるんだろう。若いって素晴らしい。
「で、ほかにはどんなんがあるんだ?」
紙の山に伸ばしたはずの手は、届く前に御幸の手に阻まれた。
そのまま包むようににぎにぎと握りこんで、正面から俺を見据えた目はなぜかやたらと険しい。
「先生、隙がありすぎ」
「隙?」
「そんな簡単に触らせないでよ」
「簡単にって、今のはおまえが」
「今じゃない、教室で。肩を組まれたり背中に乗られたり、ベタベタベタベタ」
俺のなのに。
と尖った唇はあれだ、けっこう本気で拗ねた時の顔だ。
『頭が良くていつも冷静で大人な御幸くん』。
『最近人間的に丸くなって頼り甲斐があって、ますます大人な御幸くん』。
……どこが?
「別に肩や背中くらい普通に触るだろ。変な気があるわけじゃねぇんだし」
「そんなのわからないだろ」
「わかるっての」
そんな物好き自分だけだってのがなんでその出来のいい頭で理解できないのか、俺は心底不思議だよ。
「それにおまえだって」
「俺? なに?」
「春にすげぇモテてたらしいじゃん? 編入生の女子に。俺、全然聞いてねぇんだけど」
「言う必要ある? 全部断ったに決まってるだろ」
「……けど、他のやつから聞くの、なんかもやっとするだろ」
「ヤキモチ?」
「違ぇし!」
別に妬いてるわけじゃねえし!……たぶん。
「ふふ」
さっきとは一転、明らかに機嫌をよくした恋人が、避けようがないほど自然に手をのばしてくる。
触れるか触れないかで頬をなぞっていく指がくすぐったくてわずかに身を捩れば、満腹の猫みたいに細められた目がなんかエロい。
「さ、触んじゃねえ!」
「なんで。肩や手くらい平気なんでしょ」
「おまえは変な気があるからダメ」
「変ってどんな?」
「だから! 触り方がエロいんだよ!」
爪の先から付け根まで辿ってきたひんやりした指の先が、今度は指の間をゆっくりとなぞる。
ゾワゾワと背を駆けのぼる覚えのある感覚。たまらず引いた腕を、逃がさないとばかりに机に縫い止めるしなやかな指。
「おいこら、」
「わかってる」
セリフとは裏腹に、悪い顔でうやうやしく俺の手をすくいあげ、わざと音を立てて指先にキスを落とす。そんな、どこの王子様かと思うような気障なしぐさが完璧に様になってしまうのがイケメンの怖いところだ。
壁の時計を見上げれば、予鈴まであと5分だ。あちこちから聞こえる、移動を始めた生徒たちの歓声や笑い声にまじって、廊下を近づいてくる足音が聞こえた。
生徒の上履きとは違う大人の足音。
ヤバい。
急いで引こうとした腕を、さらに強い力で御幸の手が捕まえる。
「御幸…!」
このバカ!
と叫ぶ寸前。
ガラリとドアが開いた。
「ただいま。あれ、お客さん?」
「お邪魔してます」
入り口から俺の姿を隠すように立ち上がった御幸の陰で、俺はギリギリで解放された左手を抱えたまま、崩壊した顔を必死で立て直していた。
普通の顔普通の顔。普通の顔ってどんなだったっけ!?
「ああ、A組の、御幸くんだっけ? 沢村先生に用事?」
「はい。体育祭のことでちょっと」
にっこりほほ笑む綺麗な顔からは、さっきまでの甘ったるさもエロさも綺麗さっぱり拭い去られていた。
なにその優等生面。その切り替えの早さはなんなんだよ。
と噛みついてやりたいのを我慢してたら、斉木先生が俺を見て不思議そうに首を傾げた。
「沢村先生、なんか顔赤くない?暑い?」
「え、いやその、ちょっとこの部屋エアコンの効きが悪くないかなって! ははは!」
「そうだな、日差しがきついし。ちょっと温度設定下げようか」
壁のパネルに向かった斉木先生の背後で、振り向いた御幸がにっこり笑って小さく舌を出す。

……おぼえてやがれこのエロ高校生!