実習2日目の6時間目。初授業はやっぱりA組だった。

現国の授業はちょうど明治の文豪の代表作に入ったところだ。誰もが名前を知っている、けれど通して読んだことのある学生は意外に少ないんじゃないかと思う作品。
実は俺も教科書に出てくるまでは読もうとも思わなかった。堅苦しい暗い話だと思ってたから。
昼ドラでありそうな、人間臭い感情がいっぱい詰まったこの話の面白さを俺の授業で伝えられるだろうか。
教室に入る前に目を閉じて深呼吸した。
何度も練習した。ありとあらゆる質問も想定しつくした。指導案にもOKをもらった。きっと大丈夫。
教壇に辿りついたところでちょうど始業のチャイムが鳴った。
ふと目をやれば、指導教諭の高橋先生は「僕は壁だと思ってください」との言葉通りに教室の一番後ろの隅に静かに座っている。
助けの手は入らない。一時間俺だけ。そう思うと足が竦んだ。
教室の中で一番高い場所。隣に誰もいない状態でその場所に立つのは初めてだった。昨日あいさつした時には感じなかった空気の重さを、肩にずしりと感じた。
ぐるりと教室内を見回せば、生徒達が無言で俺を見返してくる。30人ちょっとの目が全部俺に集中して、俺の話を聞く。俺の授業を。
そう実感したとたん、頭の中が真っ白になった。
ちゃんと導入も最初の一言も考えてあったのに、何一つ浮かんでこない。
ヤバい。どうすりゃいいんだ。
カラカラと空回りする頭の中は空っぽで、なぜか回し車をぐるぐると疾走するハムスターの映像だけが浮かんでいる。意味がわかんねぇ。
凍りついた顔の下で必死で言葉を探して、けどやっぱり真っ白で、このまま50分の授業が終っちまうんじゃないかと途方にくれた時。
強い視線を感じた。
吸い寄せられるようにそこに目を向ければ、――見たこともないほど強張った顔をした御幸がそこにいた。
その目に色濃く浮かぶのは『心配』だ。
すっと重なったのは自分の母親の顔だった。ピカピカの小学一年生の初めての参観日、勢いよく手を挙げた俺をハラハラと見守っていた母親の目。
……保護者か。
そう思ったらすとんと肩の力が抜けた。自然に浮かんだ笑みに呼応するように教室の空気が柔らかくなるのがわかって、それに引っぱり出されるように最初のセリフが頭に浮かんだ。
もう一度大きく深呼吸をして、意識して口角を上げる。
こうなりゃもう出たとこ勝負だ。
「ええと、教科書の152ページを開いてください」
一斉にページをめくる音に紛れて、御幸が安心したように息を吐いたのが視界の端に見えた。
やっぱ保護者か。

■□

「終ったあ……」

部屋に入るなりパタリと自分の席に倒れ込めば、同期の二人がクスクス笑いと共に温かく迎えてくれた。
「お疲れさん」
「お茶、よかったらどうぞ」
「あー、いただきます」
ほわほわと湯気の立つ湯呑みを押し頂き、口をつける。
舌が火傷しそうな熱さが今は心地良くて、ふわりと鼻腔に広がる緑茶の香りが全身を解してくれる気がした。和む。

教育実習生に与えられたこの部屋は、いくつかある会議室の中で一番小さい。
中央に長机をコの字型並べ、その周りにパイプ椅子をいくつか置いただけの殺風景な部屋だけれど、気を張らなくてすむ実習生だけの居場所があるだけでありがたかった。
この部屋の俺以外の二人――数学の斉木くんと音楽の宮野さんはこの学校の出身だ。
イコール賢くて、でも気さくで親切で、ガイダンスですぐに打ちとけた。この二人と一緒なのはかなりのラッキーだったと思う。
斉木くんは高校時代はバスケ部主将だったという長身のイケメンだ。天は二物も三物も気前よくひょいひょい与えるってことは某教え子兼恋人でよく知ってるけど、この学校にはそういうタイプの生徒がわりといる。
ちなみに宮野さんも名門音大に通う楚々たる眼鏡美女で、つまり天は二物も三物も、以下略。
「二人は? どうだった?」
今日は三人そろって初めての授業があったもんだから、朝からそれぞれ自分のことに手いっぱいで、ろくな会話すらしていなかった。
改めて見れば二人とも疲労が色濃く残っている。「お疲れさま」と小さく湯呑みを掲げれば、お揃いの湯呑みを手にした二人からはよく似た苦笑が返ってきて、期せずしてため息の三重奏になった。
「こんなんで最終日までもつんかな」
思い出したらまた足が震えそうだ。生徒の側にいた時はそれが当たり前だと思ってたけど、毎日複数の授業をこなしている本職の先生はやっぱすげぇ。超人か。
「けど、沢村くんはほぼ指導案どおりにできたんだろ?」
「まあ最後の方はちょっと時間が足りなかったけど、一応やりたいとこまではなんとか」
「すごいな、俺なんか予想外の高度な質問が飛んできて完全に詰まっちまったのに」
「私もピアノ伴奏を何度も間違えたよ。沢村くんは緊張しなかったの?」
「や、すげぇしたし頭も真っ白になったし。最初の一言がどうしても出て来なくてさ、焦った」
「よくそこから立ち直れたね」
「はは、生徒に助けられただけだし」
俺よりよっぽど死にそうな顔をしていた御幸を思い出して、また頬が緩んだ。自分の受験のときには他人事のような涼しい顔をしてたくせに。
SHR後、すぐに代表の委員会があるという御幸とは、教室を出るときにちょっと目が合っただけだ。
(……話、したかったな)
ちゃんと礼を言いたかったのに。いや、言ったってなんのことかと首を傾げられるだけだろうけど。
正直、実習に入る前も入ってからも、御幸のクラスではやりにくいだけだろうと思ってた。
けどそうじゃなかった。そこにいてくれるだけでホッとするなんて、俺は自分で思ってるよりずっと、あの年下の恋人を頼ってんのかも。
いや待てだめだろ。頼ってる場合じゃねぇ、俺がしっかりしてあいつにどーんと頼られるくらいにならないと。
だって俺はあいつの先生なんだから。
と、決意を新たにしたところで、電源を入れたばかりの携帯が震えた。
『お疲れさま』
多分会議中にこっそり送ったんだろう、一言だけの短いメール。
とっさに顔を伏せた自分の反射神経を褒めてやりたい。
……なんでこういうかわいいことをするかなこいつは!
「沢村くん?どうかした?」
「いやその、俺、……ちょっとごめん!」
不思議そうな顔の二人を残して部屋を飛び出し、廊下を早足で歩きながら「どうか誰にも会いませんように」と祈る。鏡を見なくてもわかる、すげぇ熱いし絶対真っ赤だ。
なんて返事をしてやろう。『ありがとう』?『助かった』?それともいっそ『愛してる』にしてやろうか。会議中に今の俺くらい赤面しやがれ。
廊下の端で返信の文面を作っては消しを繰り返し、結局あいつと同じく一言だけ返信してパタリと携帯を閉じる。
廊下の窓から見上げた空は、鮮やかなオレンジに染まっていた。

明日からもまた頑張れる気がした。