ずいぶん早く学校に着いていたにも関わらず、俺が全校朝礼のある講堂に入ったのは時間ギリギリだった。なぜって、心の準備がなかなかできなかったからだ。実は今もできてない。
9月半ばだ、中高全学年が集えば、冷房は入っていても講堂内はかなり蒸し暑い。
じわりと額ににじむ汗に、きっちりスーツを着込んで来ているだろうあの人を思ってつい小さなため息がもれた。

基本転入のないうちみたいな中高一貫校においては、高等部にもなれば同学年はもちろん、先輩後輩に至るまで基本的には見知った顔ばかりだ。
例外は高校から入ってくる外部生だが、それも半年も過ぎれば自然に集団に馴染んで一体化し同じカラーになる。
つまり毎年この時期にやってくる教育実習生というのは学校全体のいい暇つぶしであり、注目度は高い。朝礼が始まる前のざわめきがいつもより大きく感じるのはきっとそのせいだ。
毎年スルーしてきたこの恒例行事に、今年俺が無関心ではいられないのはある事情がある。教育実習生の中に自分の恋人がいるからだ。
誰が聞いても冗談だと笑い飛ばしそうな設定だけれど、これが紛れもない事実なんだから世の中は恐ろしい。

唐突に学校に現れた年上の恋人に危うく心臓を止められそうになってから一週間。
うちに泊まった翌朝、「じゃあ今度は学校でな!」と言い置いてあっさり帰っていった先生とは、本当にその日以来連絡が取りにくくなってしまった。
準備で忙しいのはわかってるけど、電話にもなかなか出ないし返って来るメールも長くて三行だし、何度家まで押しかけてやろうと思ったかわからない。
ぐっとこらえたのは「ちゃんと協力する」と約束したからだ。自分でも甘いと思うけど、あんな顔で頼まれたら嫌だと言えるはずもない。
放っておかれた俺が学校で我慢できなくなったらどうする気?
そう聞けばあの人はきっと「だっておまえのこと信じてるし」と笑うんだ。あざとい。

やがて朝礼が始まり講堂が静まりかえる中、壇上に学園長と一緒に上がった教育実習生は6人だった。
計算上は一学年一人だけれど、高2高3はすでに全てのカリキュラムを終了し授業をしていないはずだから、どういう振り分けになっているのかは全くわからない。
スーツ姿の実習生たちは一様に緊張した顔をしていた、と思う。思うというのは正直一人しか目に入っていなかったせいだ。
先生は、まだどこか着慣れない感じの紺のスーツで、背中にものさしが入っていそうな角度でぎくしゃく歩き、そのままの姿勢でパイプ椅子に座った。一瞬目が合ったと思ったけど気のせいだったかもしれない。
校長の短い話の後、実習生たちが左端から順番に前に出て自己紹介とあいさつをしていく。
先生は四番目だ。心臓が痛い。朝礼でこんなにハラハラするのは初めてだ。
「沢村栄純です。担当教科は国語で、クラスは高等部1年A組になります」
その瞬間周囲がどよめいた。1年A組。つまりうちのクラスだ。ここまでくると誰かの意図が働いてんじゃないかと疑いたくなってしまうんだけど。
「ちなみに俺、じゃない私はこの学校の出身じゃありません。わからないことも多いと思いますので色々教えてください」
最後にちょっとだけ笑顔を見せ、まずまず無難に最初のあいさつを乗り切った先生は、椅子に座り直すところでちょっとつまずいた。思わず一歩踏み出した足をそっと戻す。落ち着け。
控え目に深呼吸をしていると、次第にざわめきがおさまってきたクラスの列の中、引きつった顔で俺に何か言いたそうに振り返っているやつが一人。
(あ、)
小松だ。そういやあいつも先生と面識があるんだった。
すっかり忘れていたあたり、俺もまだ冷静になりきれてはいないらしい。賭けてもいいけど先生も絶対忘れてる。
「御幸、なあ、今のって」
「ああ、うん。そう」
「だよな、やっぱ沢村さんだよな? おまえ知ってたわけ!?」
「クラスは今初めて聞いた」
「マジか。俺、もうちょっとで叫ぶとこだったわ」
その気持ちはよくわかる。つくづく俺は段階的ショックでよかった。
朝礼後、とりあえず小松に口止めをしつつ、それとなく周囲の会話に耳をすませたが、今のところ去年の体育祭の俺の家庭教師と教育実習生が同一人物だと気づいた生徒はいないみたいだった。けど、これについては早めに擦り合わせをしておかないと。
そして、生徒達が教室に戻るのを追うように、担任に連れられて沢村先生は教室に現れた。さっきよりは肩の力が抜けているように見えたけど、かたくなにこっちを見ないから意識してるのが丸わかりだ。
担任からの簡単な紹介と、先生からの一言。そして。
「御幸」
「はい」
この人は初対面の他人だ、他人。そう言い聞かせなければ声が裏返ってしまいそうだ。
やっとこっちを見た先生は、どこかから切り取ってきて貼り付けたような顔で笑っている。多分俺も。
「HR代表の御幸一也です。よろしくお願いします」
「沢村です。二週間よろしく」
ぶひゃ、と後ろの方でくしゃみをむりやり押し殺したような音がした。あいつは後で〆る。

その後、午前中の授業は特に問題なく過ぎた。実習生の初日の仕事は、孵ったばかりの雛のようにひたすら指導教諭についてまわって授業を見学することらしかった。
タイミングの良いことにちょうど4時間目が現国の授業だったので、チャイムが鳴ってすぐ、後ろでメモを取っている先生にさりげなく近づく。今日ほどHR代表でよかったと思ったことはない。
よく知った人間に他人のふりをするのがこんなに難しいとは思わなかった。俺は役者にはなれそうにない。
「沢村先生、お昼は持ってきてるんですか?」
「いやあ、朝時間がなくてな。購買でなんか買えるかと思って」
「よかったら学食にご案内しましょうか? 俺も行くところなので」
「それは助かるなあ」
はてしなく棒読みだ。この人も絶対役者には向かない。
小声で話したのは「俺も」「私も」と便乗されるのを避けるためだ。
首尾よく二人で教室を出ると、先生は横目でちらりと俺を見て口をモゴモゴさせ、結局何も言わないままで閉じた。
もどかしすぎる。

「おまえ山田さんの弁当はどうしたよ?」
学食はほどほどの混み具合だった。一番奥の隅の席を陣取り、ひそひそと内緒話モードで最初に聞かれたのがそれだった。
山田さんのご飯が大好きだもんな、この人。
「こんなこともあるかと思って、今日は休みにしてもらったんだよ」
「先読みしすぎだろ、超能力者か。……それにしても、まさかクラスまで大当たりとはなあ。心臓に悪すぎるっつの」
きつねうどんをすすりながら、先生が小さくため息をつく。
一応『初対面の実習生と生徒』を意識してお互い妙にとりすました顔をしているもんだから、ちょっと気を抜けば笑い出してしまいそうで地味につらい。
「そういえばうちの担任、国語科だったね」
「情報が遅ぇよ」
「あ、それと、俺との関係についてなんだけど」
「関係って!」
「……もと家庭教師ってこと」
「あ、そ、そっか! だよな!」
なんの関係だと思ったのか(わかるけど)じっくり聞き取りたくてしかたない。じっくり。なんでここは学校なんだろう。
「小松には俺から口止めしといた。他にも去年のことを覚えてるやつがいるかもしれないけど、とりあえず知らない顔をしとけばいい?」
「助かる。すっかり忘れてたわ。ったく、こんなことなら体育祭で頑張りすぎるんじゃなかったなあ」
「賭けてもいいけど、もう一度戻っても同じことをすると思うよ」
「……俺もそう思う」
思わず顔を見合わせ、同時に小さく噴き出した。一瞬素に戻り、慌ててよそゆきの顔を作り直す先生を見ながら、なんだか胸がじわりと温かくなる。
体育祭や卒業式や、そういう非日常じゃなく、日常の学校生活にこの人がいる。
「……変な感じ」
「ん?」
「うちの学食に先生がいる」
「変っておまえ」
「学校のどこにでもあたりまえみたいに先生がいて、廊下や階段でバッタリ会うかもしれないと思うと」
「思うと?」
「学校が楽しい」
何気ない俺の呟きに、先生は一瞬固まって眉尻を下げた。
ああ、違う。そうじゃなくて。
「普段は楽しくねぇの?」
「それなりに楽しいしちゃんとやってるって。いつまでも問題児じゃないよ」
本当に心配性なんだから。そりゃ一年前は高等部に来る気もなかったし、学校も家もなにもかも興味がなくてどうでもよかった。
けど、この人に会った。会えた。自分がどれだけ俺を変えたのか、先生は本当にはわかっていない。
まあそういうとこもかわいいんだけど。
なんて考えながら最後に残ったフルーツを口にいれたところで、一足先にごちそうさまをして箸を置いた先生がわずかに口をとがらせた。こころなしか頬が赤い。
……口に出してないよな? 頭の中身。
「んな顔すんなよバカ」
「どんな顔?」
「だから! そんな甘ったるい顔だよ!」
「そんなこと言われても」
しようと思ってしてるわけじゃないし。
自分こそ今どんなにかわいい顔をしてるのかわかってんの?
「実習生と生徒として親しくなるのはありじゃねぇの?」
「初日から親しすぎたら変だろ。……あ、悪い、俺、いかねぇと」
「もう?」
「昼休み中にさっきまでの授業をまとめないとなんだ」
壁の時計を見上げて立ち上がった先生は、もうしっかり教師の顔をしていた。
「うん。――沢村先生」
「ん?」
深呼吸を一つ。ここから先はもう一度線を引く。
俺は俺にできることを。
「がんばってください。また教室で」
と、せっかく人が頑張ってみせたというのに。
「……教室でな!」
振り向きざまに見せたその笑顔こそ、初日の初対面の生徒に向けたとは思えない眩しすぎる笑みだった。
……背後にいる人間全員の記憶を抹消するにはどうしたらいいんだ。

人タラシめ。