ふぁ、と特大のあくびをかみ殺し損ねたら、ちょうどガラス窓の向こうを通りがかった待ち合わせ相手とばっちり目が合った。
すげぇ笑われてる。ぐるっと回って入り口から入って来てもまだ笑ってる。そんなに変な顔でしたかね。
「よ、久しぶり」
「楠木先輩、ご無沙汰でした!」
「寝不足か?」
「寝不足っつーか、寝てんだけどなんか眠りが浅くて」
「珍しいな、一度寝たら朝まで起きない沢村が」
「ほんとっすよ」
もう一つ飛び出しかけたあくびを今度はなんとか噛み殺して、眠気覚ましに両頬をペチリと叩く。
全面ガラス張りの学食のサンテラスは、天気が良ければ真冬でもかなり暖かい。昼寝にはもってこいのスポットだ。
「ほらこれ、このまえ言ってた発達心理学概論の教科書と資料集。今年は教育学部と共通だったけど、来年履修登録の時にちゃんと確認してな」
「っす! 助かりやす」
「他にも使えそうな物があったらなんでも言えよ。俺が持っててもしょうがないしな」
ズシリと重い包みを押しいただいて、形ばかりのお礼だけれどコーヒーを献上する。
新年度の教科書代は毎年かなり痛い出費だし、お下がりをもらえるのは本当にありがたい。ありがたいんだけど。
「……先輩、ほんとに卒業しちまうんすね」
「俺もあんまり実感はないけどなー」
楠木先輩がバイトを引退して一週間になる。卒業まで3カ月を切ってなにかと多忙だからってのが理由だけど、先輩がいないだけで慣れたバイト先が違う場所みたいだ。
大学のこともバイトの仕事もこの人にたくさん教わった。財布がピンチの時にはよく飯を食わせてもらったし、何くれとなく助けてくれた優しい先輩。
同じシフトに入らなくなっただけでも寂しいのに、春からはもう大学でもコンビニでも姿を見られなくなるんだと思ったら泣けてくる。
俺があんまり情けない顔をしてたからか、ちょっと困ったって顔で先輩が笑う。
その笑顔をもう『懐かしい』と感じちまうことにまた泣ける。うう、エンドレスじゃねえか。
「そんな顔すんなよ、御幸は大学に残るんだし」
「そりゃそうだけど」
「あれからうまくいってんだろ?」
「……」
「……おい、まさか」
「あ、違くて! うまくいってねぇとかじゃなくて、……御幸から聞いてるんじゃ?」
「なにを?」
あ、しまった。
と思ったけどもう遅かった。俺はそろそろ「特技は墓穴掘りです」とプロフィールに書いてもいいかもしんない。
「沢村?」と呼ぶ声も満面の笑みもこの上なく優しげで、なのに洗いざらい話さなきゃいけない気になるのはなんでだ。この人実は刑事に向いてるんじゃなかろうか。
「えっとその、……つまり」
『男同士でどうこうなる方法』を一人で調べたこと。
御幸に報告したこと。
それについて二人の間では「しばし待て」で合意が成立していること。
その流れをぽつぽつと報告していく途中で、楠木先輩はこらえきれないように机につっぷした。肩がぷるぷるしてる。
あー、うん。笑われるんじゃないかとは思ったんですけどね。そんなにか。
「愛されてんなぁ。知ってたけど」
「しみじみ言うのやめてもらえますかね!」
「だってさ、おまえをその気にさせて最後まで持ってくことくらいあいつには朝飯前だろ? なんたって経験値が違うしな。それでもちゃんとおまえの覚悟が決まるまで待ってんだから、愛だろやっぱり」
笑い混じりのセリフの後半は正直ちゃんと聞いてなかった。一つの単語に意識が引っかかっちまったから。
「経験値…」
思わずボソリと呟いたら、今度は先輩がわかりやすく「しまった」って顔をした。
「や、平気っす! てかあいつの経験値が低かったらそっちの方が驚くし」
そりゃそうだ、あんだけイケメンでモテてモテてモテまくって、しかも何でもそつなく器用にこなす男だ。彼女だって何人もいたんだろうし、絶対に美人ばっかなんだろうし。
別にそんなん、俺と会う前の話だし。俺には関係ない。全然ない。ないったらない。
ってわかってんのに、頭と心とはどうやらそんなに仲良くないらしい。
つまり、要するに。
……。
すげぇやだ。
御幸のバカ。タラシ。スケベ。眼鏡!
と心の中で文句を言ってたつもりだったのに、楠木先輩が「眼鏡は悪口じゃないだろ」と噴きだした。
もしかしなくても口に出てたとか?
「俺、心が狭いんすかね」
「いいんじゃね? 気持ちはわかるし」
「もう俺、先輩に一生ついていきやす……!」
「それ御幸の前で言うなよ、俺の命にかかわるから。割と本気で」
一瞬真顔になった先輩が、またすぐにクスクスと笑い出して止まらなくなった。
この人こんなに笑い上戸だったっけ?
「いや、おまえらってくっついてからも矢印は御幸からの方が大きいと思ってたんだけど、実はそうでもなくなってんだなって。俺はなんか嬉しいね」
……んなこと言われても。
てか先輩、俺だけじゃなくて御幸の保護者みたいにもなってますけど。お父さんか。
「聞いてくださいよお父さん」
「誰がだ」
「俺、最近なんか変なんすよ」
「変?」
「情緒不安定っつーか」
胸に手をあててみる。どう言えばうまく伝わるんだろう。
「……あいつのこと考えると、なんか泣きたくなる」
つらいとか悲しいとかじゃなくて、よくわかんねぇ感情で胸がいっぱいになる。あったかいようなこそばゆいような、けど少し痛いような。
もどかしくてたまんねぇのにどうしていいのかわからなくて、ふわふわして落ち着かなくて。
「なんなんすかねこれ?」
顔を上げたら、先輩が目の前で両手で頭を抱えていた。微妙に耳まで赤い気がするのは目の錯覚か?
なんか変なこと言ったかな俺。
「……なんて顔してんのおまえ」
「へ?」
どっかで聞いた台詞だと思ったら、この間御幸が同じこと言ってたような。だからどんな顔っすか。
「夫婦は似てくるって言うけど。おまえら本当に似てきたなあ、そのノロケっぷりとか」
「ノ、ノロケ?」
それも最近よく言われる気がするんだけど何故だ。
どこがどうノロケだと?
と言い返そうとして、結局言えなかった。俺を見下ろす先輩の目がすげぇ優しかったから。
「その答えを教えてくれるのも御幸だけだよ」
「……御幸が?」
「まあがんばれ。卒業しても話くらいなら聞いてやれるから」
ポンポン、と頭をたたく手はやっぱりすげぇあったかかった。
うう、泣ける。色んな意味で。