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その日から俺と貧乏神という異色の二人暮らしにさらに猫が加わった。
もとは飼い猫だったと思われるメスの長毛種で、背中から腹にかけてグレーがだんだん薄くなっていくのが沢村いわく「サンマみたいだろ?」らしい。
本当にそれでいいのか、と本猫に目をやれば至極ご機嫌な様子だったのでたぶん納得してるんだろう。大家さんの許可をもらうのに名前を報告するのが少し恥ずかしかったけれど。
俺には猫の年齢はわからないが、ゆったりとした動きや落ち着きを見ればそう若くはないのかもしれないとは思う。
沢村を見守る目はまるで母親か姉のようだ。もしかしたらこの猫は、うるさくて危なっかしいうちの貧乏神を放っておけなくてついてきたんじゃないだろうか。

そして沢村がコンビニのイチゴのショートケーキ(売れ残り半額)に目をキラキラさせながらジングルベルを歌ったクリスマスも過ぎ、仕事納めが終われば年末年始の休みがやってくる。
今年は帰る実家もないし、どこかへ出かける予算もない。第一遠出した先でわけがわからない不幸に見舞われるのは避けたい。
そんなわけで、殊勝に部屋を掃除したり大家さんの餅つきに駆り出されたりしているうちに、年末は穏やかに過ぎた。
餅つきについてきた沢村が大はしゃぎしたのは言うまでもない。臼のまわりを無駄にうろちょろするもんだから、いつ餅と一緒に杵でつかれるかこっちがハラハラし通しだ。貧乏神入りの餅などごめんこうむる。
大晦日、沢村の強い希望で夕方からお笑いの特番にチャンネルを合わせた。
余談だが、この貧乏神は俺のところに来てからというもの日本のお笑い番組にすっかりはまってしまい、今も笑いすぎて息絶え絶えに床を転げまわっている。いいのかそれで。

壁の時計の針が11時半を回ったところで腰を上げると、沢村がこたつに寝そべったままころりと転がって不思議そうに俺を見上げる。少しまぶたが重そうだ。
「どっかいくのか?」
「初詣」
「……! 俺も行く!」
だろうとも。
昨夜のニュースで、日本有数の大きな神社の新年の準備の様子が流れた時にやたらそわそわしていた。沢村はわかりやすい。
俺一人ならこんな深夜の人混みなど絶対ごめんだが、こいつを一人で行かせたら最後、なにをしでかすか、なにを拾ってくるかわからない。
こたつの端で丸くなっているサンマを残して家を出た。行き先は歩いて10分ほどの小さな神社だ。
「俺、こんな夜中に外にいんの、初めてだ」
街灯の少ない道を駆けていく沢村は出会った時と同じ格好で、むき出しの首すじやバサバサと風をはらむ袖は見ている方が凍えそうな心地になる。
けどなにがどういうしくみなのか本人は全く寒くないらしく、たまに触れる手はいつもポカボカだ。あの衣は実は貧乏神界の最新テクノロジーなのか。
やがて到着した神社は思ったよりは人の姿が多かった。参道には屋台が並び、そこでスピードががくんと落ちた沢村を「あとでな」と引きずりつつ階段を上る。
拝殿に辿りついて賽銭を投げ入れ、手を合わせようとして気づいた。そういやこいつも一応神様じゃなかったか?
「おまえ、こういうとこにお参りしてもいいわけ? 立場的に」
「お参りじゃなくてご挨拶な。ちゃんと正面からお邪魔したから大丈夫だ!」
そういうもんなのか。
昨年までとは少し違う心持ちで正面に向き直る。昔から神仏や幽霊の類を信じたことはないが、今年は違う。貧乏神が実際に存在するなら他の何がいたっておかしくない。
さて、何を願おうか。「この貧乏神を引っぺがしてくれ」と祈られても神様も困るだろうし。
「なあ、なにをお願いしたんだ?」
参拝を済ませ参道を引き返す間、興味津々といった態で沢村がまとわりついてくる。誰にも見えないと思ってはしゃぎすぎだ。デコピンしたい。
「うちの貧乏神が去年みたいなやっかいごとを引き起こしませんように、ってな」
「ひでぇ!」
むくれて通せんぼのように俺の前をふさごうとした沢村が、突然、本当に唐突に動きを止めた。つられて立ち止まった俺の背中にぶつかってしまった人にわびて、とりあえず沢村の手を引き参道の端に移動する。その間も大きな目はずっと一点を凝視したままだ。
その視線を追った先にいた二人になぜ沢村が釘付けになっているのか、俺にもすぐわかった。
俺たちの少し前、両手をコートのポケットに突っこんだまま、不機嫌そうな顔を隠しもせず早足で階段を下りていく四十代半ばの男。痩せこけた頬には夜目にも無精ひげが見てとれ、どこかすさんだ印象を受ける。
そしてその後ろを追いかけていくのは、沢村とほぼ同じデザインの衣に身を包んだ大学生くらいの男――おそらく貧乏神だ。
前をいく男は一度も後ろを振り返らなかった。そこに自分の貧乏神がいることは認識しているだろうに、なにか話しかけている声も届いているはずなのに、歩調を緩めることさえなく。徹底的な無視だ。
視線を感じたのか、その貧乏神がこちらを振り向き沢村と俺を見て目を丸くする。
やがて微かに笑みを浮かべて小さく会釈をした彼は、グレーの袖を翻しながら、ずいぶん先まで行ってしまった自分の契約者を追いかけていった。
その後ろ姿が見えなくなるまで、沢村も俺もその場に立ち尽くしていた。
「あれが普通なんだ」
ぽつりと沢村が呟く。
なにが、と聞き返す必要はなかった。あの男の鬱屈した表情。こいつと出会った頃の俺もきっとあんな顔をしていたに違いない。
「契約者と仲良くならなくても仕事に支障はないんだけどさ。俺はやっぱり自分の契約者といろんな話がしたいし、できれば仲良くなりてぇし、誰より幸せになって欲しい。……よくばりかな」
「相当な」
わしゃわしゃと髪をかき混ぜれば、すんと鼻を鳴らして沢村が笑う。ちょっとつついたら泣きそうな目をしているくせに。
「御幸ってほんと変なやつ」
「どこが」
「口悪ぃし態度もそっけないのに、やることはすげぇ優しいの。そういうの『ツンデレ』っていうんだろ?」
「どこで覚えてくるんだよそんな言葉」
「前にも言ったけどさ、俺、初めてが御幸でよかった」
「その言い方はあらぬ誤解を招くからヤメロ」
いや、誰も聞いてないけど。俺の心臓によろしくない。
「へへ、俺、御幸のこと好きだ。大好き!」
そんな突拍子もない台詞を残し、沢村はわたあめの屋台へと目を輝かせて駆けていく。
その後をゆっくり追いながら、そんなに歩いたわけでもないのにやたらうるさい心臓をコートの上から押さえつけた。
「……おまえね、」
言いかけた苦情はどうやら本人には届かなかったらしく、結局形にならないまま口の中で消えた。
どっちが変なやつだ。貧乏神らしくないにもほどがあるっての。


結局一袋だけ買ったわたあめは、帰り道で全部沢村の腹の中におさまった。
ベタベタの手と口を洗わせているあいだに布団を敷けば、待ってましたとばかり俺より先に潜りこんでくる。
例の経済危機の際、緊急避難として沢村で暖をとって以来、この貧乏神は自分の布団を敷かずにいそいそと俺の布団にもぐりこんでくるようになった。
最初は嫌がって暴れまくってたくせに、たぶん自分で布団を敷くのが面倒になったんじゃないかと俺はにらんでいる。
蹴り出さないのはひとえに天然カイロの魅力に抗えないからだ。すっぽり抱えるのにちょうどいいサイズなのも大きい。今年の冬は電気毛布要らずだ。
「そういやさあ、出る前に観てた番組、最後どうなったかすげぇ気になるんだけど」
「録画は起きてからだ。今日はもう寝ろ」
「うん。あ、そうだ、御幸」
「なに」
「あけましておめでとうございます! 今年もよろしく」
忘れてた、と笑う沢村の襟元まで布団を引き上げる。確かに忘れていた。どのあたりで年を越したんだろう。
豆電球の薄明かりの中、期待に満ちた目がキラキラと俺を見上げてくる。……俺にも言えと?
「…あけましておめでとう」
「起きたら雑煮な!」
ぐりぐりと頭をすり寄せてきたかと思ったら、こてりと電池が切れたように体から力が抜ける。
ハイテンションから一気に眠りに落ちるあたりは本当に幼児と変わらない。
人はスキンシップによってストレスを軽減できる、という話はずっと眉唾ものだと思っていた。過去の記憶を遡ってみても逆の効果しか感じたことがないからだ。
こいつを抱えて寝ることでどういう効能があるのかはよくわからない。けれど一つだけ確かなことは、こいつは今や俺の安眠に大きく貢献しているカイロ兼抱き枕だということだ。
(こいつがいなくなったらどうなるんだろう)
ふと頭に浮かんだ疑問はよく考えれば滑稽だった。どうなるもなにも、俺にとっても沢村にとってもそれが最終的な目標でありゴールだ。
俺はまた、仕事に忙殺されながらも快適な一人暮らしにもどるだけ。なにものにも乱されない、静かで思い通りの人生に。
めでたしめでたし。
……なのに。俺はそれを心の底から望んでいたはずなのに、

――どうしてこんなに胸が痛むんだろう。

「……ん、」
わずかに身じろぎした沢村が、俺の胸元に頬をすりよせてふにゃりと笑う。
ふっくらとした頬をつついてみればむにゃむにゃと口が動いて、多分これは夢の中でなにか食べているに違いない。
健やかな寝息だけが、静かすぎるほど静かな部屋に満ちていく。
もう一度小柄な体を抱えなおして目を閉じれば、天井のオレンジ色の残像がいつまでもまぶたの裏で光り続ける。
何故だか今日は眠りが遠かった。