「お先に失礼します」
「あ、お疲れさま」
「お疲れ様でした」
五時ピッタリに席を立てば、同じく帰り支度中の同僚からのんびりしたあいさつが返ってくる。
師走も半ばだというのに部全体で定時帰りか、とうらやむ人間もいるかもしれないが、仕事がないんだからしかたない。
二ヵ月前に突然配属された事業推進開発センターは、そのいかにも適当な名前が示すとおり典型的な窓際部署だ。
全体では10人を越える在籍者がいるらしいが、出社拒否だったり無期限の出張に出されていたりで、常時部屋にいるのは俺を含め三人だけ。
その位置づけは『遊軍』と言えば聞こえはいいが、要するに他部署の繁忙期の応援や、アウトソーシング的な単純作業が主な仕事だ。定時退社どころか、今日みたいに昼過ぎには仕事がなくなることもよくある。
空いた時間で今後必要になりそうな分野の勉強に手をつけてはいるが、先が見えない状態でモチベーションを保つのは意外と難しい、ということを俺はこの冬初めて知った。
は、と短く息を吐きだせば、まだ十分に明るい空に白い息が一瞬で溶けていった。
こんな時間に家路につく自分がいるなんて、二ヵ月前には考えてもみなかった。つくづく人生は何が起こるかわからない。
凍りつきそうなビル風に巻かれ、アスファルトの上を街路樹の落ち葉が踊るように駆け去っていく。
寒いし給料日前だし、今日は家にあるもので適当にすまそう。
そう考えてスーパーでの買い物を省いた結果、帰宅時間が一時間ほど早まった。
それが、うちにいるトラブルメーカーにとっては不測の事態だったらしい。
「ただいま」
「………!」
不用心にも鍵のかかっていなかった玄関ドアを開けたら、ちゃぶ台の前に座っていた沢村がぴょん、と文字通り飛び上がった。
いつもなら玄関までにこにこ小走りで迎えに来るのに、こちらに背を向けたままあたふたとふすまの向こうに逃げこんで、顔だけ出してこちらの様子をうかがっている。あやしすぎる。
「お、お帰り! 今日は早かったんだな?」
「俺が早いとなにかまずいことでも?」
「んなことあるわけねぇじゃん、えっと、コーヒー淹れるか? このまえ大家さんにもらったお菓子がまだどこかに、」
だから自分には嘘やごまかしというスキルは付与されていないんだと、いつになったら気づくんだこいつは。
この反応はあれだ、第一次経済危機のときと同じだ。今度はなにをしてくれやがった。まさか第二次の到来じゃないだろうな。
「それは昨日の晩おまえが食ってたろ。いいからこっち来い」
まずはやらかした内容を吐かせようと、いやいやと尻込みする沢村の腕を引っぱって引きずり出す。
吐かせるまでもなかった。『かくしごと』は、沢村がふすまの向こうから転げでた時点で一目瞭然になった。
グレーの衣の下、ふっくらと膨らんだ腹部というかたちで。
「……おまえ、太った?」
「それはほら、飯が美味いから!」
「腹のとこだけか? しかもその腹、動いてんだけど」
「えっと、あれだ、……胎動だ!」
「んなわけあるか!」
「キャー! 痴漢! 変態!」
人聞きの悪い悲鳴(どうせ俺にしか聞こえない)を無視して衿を大きく割り開くと、ものすごい勢いで飛び出してきた灰色の塊が俺に体当たりをかまし、そのままその勢いで台所に消えていった。
残像しか見えなかったけど、大きさと身のこなしからして猫だ。まちがいなく。
ゆっくりと視線を戻すと、びくっと体を震わせた貧乏神はわずかな沈黙のあと、頬をやや引きつらせたまま「えへ?」と笑った。
「それでごまかせると思ってねぇよな?」
「えっと、ですね。今日は昼間天気が良かったから散歩……じゃない人間観察に行ってな? したらいつのまにか後ろをついてきててな?」
「で?」
「んで、ドアを開けたら当たり前みたいに入って来てな? すげぇフレンドリーなもんだから、その。……な、サンマ、うちに来たかったんだよな!」
「んな」
姿の見えないまま台所から律儀に返事がある。サンマとはもしかしなくてもそいつの名前か。猫の名前としてそれはありなのか。
なんてことは今はいい。チラチラと上目遣いでこちらの様子をうかがってくる沢村が何を言いたいのか、100パーセントの確率で俺にはわかる。この眼鏡をかけてもいい。
「なあ御幸。こいつ、うちにいちゃダメか?」
ほら言った。
「ダメ。そんな余裕がどこにある」
「俺のおかずをちょっと減らすから!」
「大して変わんねぇよ。だいたい犬猫の方が人間より医療費が高いんだぞ? 病気になった時に『金がないから自力で治せ』なんてこいつに言う気か?」
俺は正しいことを言っている、それは疑う余地もない。だから沢村だって反論できないわけだし。
それがわかっているのに、うつむいて丸見えになったつむじやきゅっと噛みしめた唇を見ていると、いつのまにか自分の方に非がある気がしてくるから性質が悪い。
けど、かわいいという一時の感情だけで飼えるわけがないし、そもそも俺は生き物全般が苦手だ。
「……なー」
立ち尽くした足の甲を柔らかい何かにつつかれたのは、気まずい沈黙がしばらく続いた後だった。
初めての肉球の感触におののきつつ足元を見下ろせば、台所に逃げこんだはずの猫が、いつのまにかそこにちょこんと座っていた。
ピンと伸びた背すじ。きちんと前足をそろえ、媚びるでも甘えるでもなく俺を見上げる金色の目は、変な例えかもしれないが賢者のようだ。
その目がふ、と逸らされたかと思うとやわらかく沢村を見やり、そしてもう一度俺の上に戻る。
……わかってる、全部俺の妄想だ。猫のなにげない行動に勝手に意味づけをしてしまっているだけ。
それでも、この生き物が自分のためではなく沢村のためにここに置いて欲しいのだと訴えているように――沢村を守ろうとしているように、俺には見えた。本当にどうかしているけれど。
身動きが取れないでいるうちに、猫は今度は沢村の足元にゆったりと歩み寄っていく。
「にゃ」と一声鳴いて沢村を見上げる目は、さっき俺に向けた目とは違う色をしているんだろうか。ここからじゃわからない。
「こいつ、俺のこと見えるんだ。初めて会った時の御幸みたいに俺の目をちゃんと見て、呼んだら返事すんの」
「……」
「怯えたり警戒したりも全然なくてさ、それがちょっと嬉しかったんだ」
屈みこんで猫を抱き上げ、沢村が精一杯作ったとまるわかりの笑みを浮かべる。こっちが苦しくなるような。
「ごめん。御幸の言うとおりだよな。会ったとこに連れてってくる」
一度ギュッと抱きしめて、猫の毛に埋もれるようにして呟いた小さな「ごめんな」を、俺の耳はしっかりと拾ってしまった。
これが計算でやってるんなら鼻で笑って無視してやるのに、こいつにそんな複雑なことをやってのける頭も演技力もないと今の俺はもう知っている。
なんでこんなやっかいなやつを拾っちまったんだ。いや違う、俺は別に沢村を拾ったわけじゃない、憑りつかれてるだけだった。結局同じことだけれど。
沢村の腕の中から、貧乏神の衣とは色あいの少し違うグレーの生き物がさっきと同じ静かな目で俺を見ている。試されている気分だ。
(――くそ、)
何度でも言わせてもらうが、俺は生き物は好きじゃないっての!
「……もういい」
自然にこぼれたため息に、沢村の肩が怯えるようにビクリと跳ねた。
それで自分の中でやっと踏ん切りがついて、自然に足が玄関にむかって動いた。
「御幸? どこ行くんだ?」
「買い物。いろいろ揃えるもんあんだろ、餌とか首輪とか」
「……! 俺もいく!」
「ダメ。そいつと待ってろ。おまえがいないと暴れるかもしれねぇだろ」
「あ、う、うん!」
俺が靴を履くより沢村が駆けてくるほうが早かった。なんたって狭い家だ。
背中にくっついた小柄な体ごと立ち上がり、首をひねって見下ろすと、おんぶお化け状態の沢村がいつも以上にキラキラした目で俺を見上げていた。
「御幸、えっとその、……ありがと!」
興奮してふわふわと揺れるその髪を、というか頭を、――気がつけばくしゃくしゃと撫でていた。俺の右手が。
………。
なんだ、今の。何故この右手は俺の意思を無視して勝手に動く?
「米は炊いとけよ。後は帰ってからだ」
「まかせろ! いってらっしゃい!」
当然の顔をして沢村の腕に収まった猫と満面の笑みの居候に見送られ、なんだか落ち着かないまま家を出た。
夕闇が濃くなっていく田舎道を歩きながら、まじまじと自分の右手を眺めてみる。
右手の動作不良の理由は、どれだけ考えてみてもよくわからなかった。