2 「……なんであんなにエロいかなあいつは」 長机に突っ伏した俺のひとりごとを律儀に拾って、降谷が不思議そうに首をかしげた。 しまった、口がすべった。なんか頭がぼうっとしてる。一限なのに教室の暖房が効きすぎてたせいだ。 「それ、ノロケなの?」 「んなわけあるか!」 「でもそうとしか聞こえないけどね」 朝からさわやかな笑顔で今日も春っちは俺に厳しい。けどなんでただの愚痴がノロケに聞こえるんだ、絶対おかしい。 人生最大のカルチャーショックを受けてから3日。 「覚悟しとけよ?」という宣言どおり、あの日以来御幸は、わずかな隙を狙ってはそれまでにないイタズラを仕掛けてくるようになった。 例えば意味ありげに背中やわき腹をたどっていく手だとか、いつものおでこや頬へのキスにまぎれて耳朶や首筋にまで降ってくる唇とか、それは今までよりほんの少しだけ先に進んだ感じのイタズラだ。 そんなときの御幸は、場所が外だろうが部屋ん中だろうがとにかくエロい。当社比1.5倍にエロい。 そんで慌てふためく俺を見ては、余裕たっぷりの涼しい顔で満足そうに笑うんだ。本当に性質が悪い。 ふあ、と大きなあくびをした降谷がもう一度首をかしげる。理解できない。そんな目をして。 「嫌なら嫌だって言えばいいんじゃないの」 「そ、そりゃそうだけど!」 くそう、降谷のくせに一理ある。あるけど、そういうことじゃなくてだな。 確かにあいつにちょっかい出されると心臓に悪いし変な汗かくし、すげぇ困る。余裕の顔もムカつく。ムカつくし困るけど、 「……別に、嫌なわけじゃ」 ねぇし。 という最後のあたりは口にすることができなかった。左隣の春っちが特大のため息をついたからだ。 机に頬をくっつけたまま恐る恐る顔を見上げる。この角度だからわかる。顔は笑ってんのに目が笑ってないんですけど。なにそれ怖ぇ。 「そういうのをノロケって言うんだよ、栄純くん」 「ちが、」 「言うんだよ」 断じてノロケてなどいない。 と声を大にして叫びたい。けどこの最強モード春っちを前にしてそんなことのできる勇者がこの世にいるだろうか。 「お、俺、御幸に弁当持ってってくる!」 二人にカバンを押しつけて、俺は弁当だけ抱えて教室を飛び出した。 逃げたわけじゃねぇし。いつもの配達だし! ■□ 御幸が常駐している研究棟までは、うちの学部棟からは歩いて5分ほどだ。 師走の北風の中を突っ切りながら、もう今年も残すところ一ヵ月もないんだと思うと、理由のない焦りが胸に生まれる。 この一年何をしただろう。何ができただろう。毎年そう反省しては新年の誓いを立てる、その繰り返しだけれど、今年の後半は正直いって御幸一色に塗りつぶされている。 来年はどんな年になるんだろう。一年後は何をしてるんだろう。……誰といるんだろう。 と考えた瞬間に浮かんでくる顔はやっぱりあのイケメン眼鏡で、「どんだけ俺の生活に入りこんでんだ」と苦情を言いたくなるレベルだ。絶対喜ぶから言わねぇけど。 「おはようございやす! これ、お願いします」 休憩スペースを抜けて受付に声をかけると、奥の事務机にいたおばちゃんがにこにこして立ち上がった。 俺も授業があるし、来られる時間は日によって違うから、弁当はいつもここに預けることになっている。おばちゃんとももうすっかり顔なじみだ。 「あ、沢村くん! 待って待って、今日は直接研究室の方に持って来て欲しいって伝言があったのよ」 「へ?」 「階段を上がって左にいって、右手の3番目のドアだからね。片岡研究室って札が出てるから」 「あ、はい」 なんでまた今日だけ。よっぽど手の離せない実験でもしてんのか? と首をかしげながらもたどり着いたドアの向こうには確かに人の気配がした。たぶん複数。御幸だけじゃないんだと思ったらちょっと緊張する。 深呼吸をして一度ノックし、ゆっくりとドアを開ける。部屋の中は思ったより広くて、俺には名前もわからないような器具や設備がいっぱいある。その器具の一つがわりと大きな音で稼働していて、それでノックがかき消されたらしい。 白衣の人たちがちょうどこちらに背中を向けて忙しげに作業をしていて、勝手に入るのもはばかられる雰囲気だ。 「あの……?」 恐る恐る声をかけたらちょうど音楽が途切れて、その白衣の人たちが一斉にこっちを振り返った。ちょっとビビった。 いや、怪しい者じゃなくてですね、俺はただ弁当を! 「沢村くん!?」 よく見ればその中の一人は御幸だった。ん? なんであんたが驚いてんの? 弾かれたように席を立った御幸が俺の方に来ようとするのを、すぐ後ろにいた女の人の手が阻んだ。なんかすげえ迫力。すげぇ笑顔。 「御幸くん、この資料を国友先生に持っていってくれるかしら? 今すぐ」 「ちょ、礼ちゃん!」 「大至急なのよ、お願いね?」 グラマラスボディの眼鏡美女の鉄壁の笑顔に一つ舌打ちして、「ちょっとだけ待っててな」と言い置いて御幸が資料をかかえて飛び出していく。 とんでもない速さで遠ざかる足音がらしくねぇ、と思いつつ唖然と見送ってたら、気がついたら他の白衣の皆さんにぐるりと包囲されていた。 え、え、え、なに!? 「沢村くんよね?」 「あ、はい!」 「助手の高島です。ごめんね、今日こっちにお弁当を届けてくれるように伝言したのは私なの」 「な、なんでですか?」 「ふふ、沢村くんに一度会ってみたかったから」 グラマラス眼鏡美女こと高島さんは俺に椅子を勧めたあと、正面に座ってにっこりと笑う。助手ってことはだいぶ年上なのかもしれねぇけど、見た目では年齢不詳だ。 ……って、御幸、さっきこの人のこと「レイちゃん」って呼んだよな? なんだなんだ、親しそうじゃねぇか。 「御幸くんがね、何ヶ月も前から毎日沢村くんがかわいいかわいいってうるさかったのよね。今日が初対面の沢村くんの萌えポイントについて、ここの研究室の人間は全員かなり語れると思うわよ」 「……」 うんうんと頷く白衣の人々に囲まれ、あまりにいたたまれなくてこのまま露となって消えてしまいたい。顔から火が出るってこのことだ。あのヤロウ一体なんてことしてくれやがる……! 「しばらく目に見えて落ち込んでたと思ったら、ここ最近ずっと上機嫌で笑えるくらい顔がゆるんでるじゃない? 毎晩いそいそとご飯を食べに帰るし手づくり弁当も届くし、そりゃ進展したって誰でもわかるわよ。そうなるとやっぱり本人に会ってみたくなるでしょ?」 「別に進展なんて!」 してない、と反射的に言いそうになって、止まった。違う。進展してる。した。 つまり俺にはなんの反論もできねえ……! 「……ふ、」 内心冷や汗だらだらで頭を抱えていたら、背後から控えめな笑い声が聞こえた。振り返れば、眼鏡美女に負けず劣らずの黒髪美人がこらえきれないといった風に口に手を当てて上品に笑っている。 あの、どなたでしょうか。そしてなんでそんなに笑ってらっしゃるんでしょうか。 「ごめんなさい。だって沢村くん真っ赤だから。御幸くんの言ってた通りだなって思って、ふ、ふふ、ふふふふふ」 なおも笑いながら何故か俺の頭を撫でるその人は、とても優しそうなのに逆らってはいけない感が半端ない。 どうしていいのかわからなくて突っ立ってたら、その美人の横から今度は俺より小柄な男がぐいと顔を出す。同い年くらいに見えるんだけど、ここにいるってことはこの人も年上、なんだよな? 「なあ、一也の弁当、あれ全部おまえが作ってんの? すげぇうまそうなんだけど!」 「あ、あざす……?」 毎回晩飯の残り+αなんだけど。もうちょっといいもん入れてやれば良かったかな。今日もメインは昨日の残りのコロッケだ。 「な、沢村だっけ。今度ついでに俺のも作ってよ! てかむしろ俺だけに作ってくれてもいーよ、代金はもちろん払うからさー!」 「……ええと」 あなた誰ですか。そう口にしようとした時、後ろからのびて来た腕がかなり強引に俺を引っぱった。抵抗する間もなくそのまま後ろに倒れこめば、馴染んだ香りにちょっと肩の力がぬけた。御幸だ。 「こら鳴。沢村くんにちょっかいかけんじゃねえよ」 「えー、だって一也がベタぼれのカワイコちゃんがどんなか興味あんじゃん? 弁当うまそうだし」 「とにかく駄目。気安くさわんな、呼び捨てすんな」 「ちぇーっ!」 「まったく油断も隙もねぇな」 大きく息を吐いた御幸はさっきから俺を抱きこんだままだ。なんで誰もつっこまねぇの? おかしくね? 「まったくもう」 高島さんが肩をすくめてこっちを軽く睨む。 ですよね、おかしいですよねー。 「御幸くん、もう行ってきたの? 速すぎない? せっかく一番遠いとこまで飛ばしたのに」 そっちか! 「礼ちゃんマジで勘弁してよ。沢村くんによけいなこと言ってねえよな?」 ……あ、まただ。 「れいちゃん……」 「ん?」 ボソリともらした一言はすぐ後ろにいた御幸には届いちまったらしくて、慌てて口を塞いだけど遅かった。 せめて睨んでみたけど、そのニヤけた顔にはなんの効果もなさそうで。 「行こう、下まで送る」 そのまま手を引かれてドアに向かうと周囲の人たちからブーイングが上がったけど、俺としても次の講義もあるし、そろそろ外に出たいのでそのまま大人しくついていくことにする。まずは脱出だ。 「えっと、お邪魔しました」 「いいえ、こちらこそおかまいもせず。沢村くん、今度は御幸くんのいないときにゆっくりいらっしゃい。美味しいプリンを用意しておくから」 「あ、はい!」 「沢村くん、プリンなら俺がいくらでも買ってやるから!」 研究室のドアを後手に閉めたとたん、さっきまでの騒ぎが嘘みたいに静かな廊下が広がる。疲れた。 同じく疲れた顔をした御幸は、そのまま無言で俺の手をぐいぐい引っぱって、たどり着いた一階の休憩スペースで椅子に座りこんでまた大きなため息をついた。 ……なんか怒ってる? 俺があんなとこまで顔を出したから? 「あ、のさ。弁当、今日も受付に預けるつもりだったんだけど、なんかごめん」 「ああ、ごめんそうじゃなくて。沢村くんの顔が見られてもちろん嬉しいんだけど、うちの研究室は癖のある人が多くてさ。びっくりしたろ」 「ちょっとだけな」 一番衝撃だったのは、研究室の人みんなが御幸と俺のことを詳しく知ってたことだけど。その、今までの経過も含めて。 なんでそんなにフルオープンなんだ、と問いつめてやりたいとこだけど、やめた。絶対いつもの答えが返って来るに決まってる。 「ま、悪い人たちじゃないんだけどな」 ため息混じりにそう言った御幸の口の端が不意にくい、と上がった。悪い笑顔だ。絶対ろくなことを考えてねぇ顔だろそれ。嫌な予感しかしないんだけど! 「な、沢村くん。さっきヤキモチ妬いただろ?」 「べ、別にぃ?」 「礼ちゃんはうちの研究室の助手で、俺の親父の教え子。昔からうちによく来てたんだ。貴子さん、あ、もう一人いた女の人な、あの人は礼ちゃんの次に逆らっちゃいけない人で卒業した先輩の婚約者。あのうるさい小さいのは中学からの腐れ縁。それだけだから」 「別に、って言ってんじゃん! にぎやかで楽しそうだなと思っただけだし」 「居心地はいいね。うちの女性陣、誰も俺を男として見てねぇから楽なんだよ。見たろ? あの扱い」 肩を竦める御幸は何だかいつもより子供っぽい。うん、確かに掌の上で転がされてる感があったよな。この御幸が。 そうして話している間にも横を通っていく知り合いが何人も軽声をかけてくる。それに手を上げたり短く言葉を返したり。その横顔を見ながら、今さら気づいた。 「……俺、あんたのことあんまり知らねぇんだな」 研究室での御幸。友達と俺の知らない話をしてる御幸。 なんか。なんかさ、あたりまえなんだけど、俺の知ってる御幸だけが御幸じゃないんだって実感したっていうか。 「いくらでも知って欲しいね、むしろもう隅から隅まで」 「それはちょっと」 「遠慮しなくていいのに」 クスクス笑いながら俺の髪を掻きまわした手が頬に下りる。さらりと乾いた手のひらが心地いい。 「っと、もう授業が始まるな。今日の晩飯なに?」 「ブリの照り焼きと豚汁。特売に間に合えばだけどな」 「楽しみにしてる。弁当ありがとな」 輪郭をするりと撫でて離れていく、その手を反射的に追いかけそうになった自分の手を、すんでのところで押さえこんだ。 (なんだこれ) どうかしてる。引きとめてどうする気だよ。 御幸も忙しいし俺も次の講義があるし、なにより夜にはちゃんとあの部屋に帰ってくるってわかってる。 なのに。 なんで俺はこんなに、――離れたくない、なんて思うんだ? 意味わかんねぇ。 自分を持て余してぎゅ、と唇を噛みしめたのと同時だった。視界が急に揺れて、軽い衝撃と共に顔が何かに押しつけられる。 御幸の腕が俺の頭を抱き寄せて抱えこんだんだとやっと理解したときにはもう俺はすっぽりホールド状態で、逃げようがない耳を狙いうちするように、吐息交じりの囁きが落ちる。 「……なんて顔するかな、もう」 「え、え?」 「おいで、こっち」 腕をつかまれトイレの横の狭い通路に引っ張りこまれ、壁を背に御幸の腕に閉じ込められる。 見上げた御幸は怒ってんのか困ってんのかわかんねぇ、そんな微妙な表情で。 いや、俺も変だけどさ、あんたもどうした? 「他のやつの前で絶対にそんな顔すんなよ」 「顔?」 「抱きしめて、って顔」 「んなの!」 「ほらまた」 問答無用とばかりに塞がれて封じられた反論は、すぐにあとかたもなくグズグズと溶けていった。 外だから? 時間がねぇから? 珍しく噛みつくようなキスはいつもより荒っぽくて、けどさっきまで胸の中にあった、泣きたくなるようなもどかしさが消えていくのがわかった。 もしかして俺、本当にこうして欲しかっただけとか? なんだそれ、恥かしすぎて死ねる。 「早く気づいて」 器用にもキスの合間に織り込んでくるささやきの意味を、息継ぎに必死な俺が考えられるはずもなく。 ぼやける頭の中で、その台詞だけがずっとぐるぐるとリフレインしていた。 気づく? 俺が? ……なにに? |