「給料日って素晴らしいですな!」
「俺のだけどな」
「お、お天気も素晴らしいですな!」
力業で話をそらした沢村が、大きく伸びをして太陽に両手をかざした。
師走に入ったばかりの日曜日。よく晴れて風もほとんどない、羽織ったコートが邪魔に思えるくらいの小春日和だ。
沢村の食い意地による第一次経済危機は、ギリギリで給料日を迎えた先週末にはなんとか落ち着いた。とはいっても契約終了については何のめども立っていないので、この先も貧乏神との貧乏生活が続いていくことにかわりはない。第二次が起こらないことを切に願う。
今回の騒動の反省をふまえ、休日にはなるべく沢村を連れて買い物にいくことにした。もちろん直接買い物をするのは俺だが、後ろをついてまわってあれが欲しいこれが食いたいと騒ぐだけでも嬉しいらしい。
ひととおり買い物を終えた帰り道、商店街の角のドーナツ屋を見つめる沢村の目が真剣すぎてちょっと怖かったので、一個だけ買ってやって店から引きはがす。
あっさりつられたお手軽な貧乏神は、世にも幸せそうにドーナツをほおばりながら「御幸、こっち!」と来たときとは違う道を指さした。
「こっちのほうがちょっと遠回りだけど車が来ないんだ」
「なんでそんなこと知ってんだ」
「俺、昼間にときどき外に出てるからさ。あ、遊んでんじゃなくて人間観察だぞ? 仕事な?」
「はいはい」
なるほど、やたら店の場所に詳しいわけだ。主に食べ物関係に集中していたのもわかる。
「けどやっぱ誰も俺に気づかねぇし、当然話もできないだろ? だから今日はすげぇ楽しい!」
「……そうか」
一瞬、返す言葉につまった。はしゃぐ沢村が心底楽しそうだったから。
外では人目があるから、俺とも普通に会話ができるわけじゃない。基本的にいないものとして扱っているのに、それでも?
なんとなくもやっとした思いを抱えたまま後をついていけば、一足先に角を曲がった沢村が「あ!」と小さく叫んで頭上に手をのばした。
宙を舞う白い花弁に見えたのは捕まえてみれば紙吹雪のひとひらで、次々に舞い下りてくるそれを童話のようにたどってみれば、数十メートル離れた教会もどきな建物にいきつく。
開いたドアの前で笑顔と涙を見せているのは新郎新婦だ。歓声と笑い声と指笛、たくさんの祝福。ちょうど式が終わったところらしい。
「ここ、結婚式場だったんだな」
階段の一番上にいる二人を眩しそうに見上げ、沢村がポツリとつぶやく。
「……綺麗だなぁ。幸せそうだ」
その笑顔は、変な話だけれど初めて年相応に俺の目に映った。
新郎新婦だけじゃない、周りを含めてすべてのものを愛しむような慈愛に満ちた笑み――まるで聖母のような。
そこまで思ったところで我にかえった。
「なんだそりゃ」
「ん? なんか言ったか?」
振り向いた沢村の顔に浮かんでいたのはいつもの無邪気な笑みだ。よく見れば口の周りにはドーナツの食べかすがついていたりして、どう見てもただのガキにしかみえなくて。
「ここ、ついてるぞ」
「え、あ!」
口の周りを慌ててこすって、今度は袖を汚して騒いでいる。やることなすこと子供みたいで、手がかかってうるさくて。だよな、これが沢村だ。俺が知ってる沢村栄純という名の貧乏神。
これが聖母に見えるなんてどうかしている。目の錯覚か? イリュージョンか?
明日、眼鏡屋によって視力を検査してきたほうがいいかもしれない。そうしよう。

■□

「なあ、そういや御幸、結婚は?」
再び歩き出してしばらくして、たった今気がづいたといった風に、沢村がくりくりした目で俺を見上げた。
今さらか、一ヵ月も一緒に住んでおいて。
「してるように見えるか?」
「見えない。じゃあおつきあいしている女人は? いねぇの?」
「女人って。いたけど、引っ越してから音信不通だなそういえば」
「……えーと、それって」
「好きだったのは大手企業のエリートコースに乗ってた俺ってことなんじゃねぇの?」
隣を歩く貧乏神は、今日が世界の終わりみたいな顔をした。わかりやすい。
「えっと、その、だな。俺がいなくなったらちゃんと貧乏じゃなくなるしだな、エリートコースにだってきっと元通りに、」
「別に、それだけの関わりだったってことだ。そこはおまえとは関係ないだろ」
実際俺も今の今まで忘れていた。お互いさまってやつだ。それでもまだ泣きそうな顔をして沢村は俺のそでをくいと引く。唇はかみしめたまま。
思うんだが、「仕事上のことについては謝ってはいけない」というルールは、こいつみたいなやつにとってはけっこう酷なんじゃないだろうか。
「よし、じゃあ俺が責任持って御幸に優しくて働きものの嫁を!」
「……たのむから何もするな。だいたい結婚なんてまだ全然考えてねぇし」
「でもそれで『幸せ』が見つかるかもしれないだろ? 御幸、どんな娘さんが好きなんだ?」
「うるさくなくて自立しててやたらに会いたがらない女」
「……それ好きなタイプじゃなくね?」
「だから今はいらないっての。聞けよ人の話。だいたい結婚したやつ全員が幸せになってるわけじゃねぇだろ」
そう返しながら、当然ギャンギャン反論されるんだろうとややうんざりしていた。結婚=幸せの図式がこいつの頭の中ではごく単純に成立しているんだろうと思ったから。
けれど意外なことに、沢村はわずかに目を伏せ、見慣れない顔でぼそりとつぶやいた。
「知ってる。離婚率とか子供の虐待とか、ニュースやお昼の番組でやってるし。他にもいっぱいあるんだよな、人が人を傷つけたり命を奪ったり、毎日」
「……」
残念ながら反論はできない。だってその通りだ。集団になれば自然にいさかいは起きる。犯罪も。人はそういう生き物だ。
「幻滅したか?」
「んー、そりゃ悲しいとは思うけど」
「けど?」
「あんた、高山さんとこの新しい人かい?」
突然割って入った野太い声に飛びあがりそうになった。いや、別に割って入られたわけじゃない。他人から見れば俺は今一人で歩いているんだから。
慌てて周囲を見まわせば、いつのまにか道は畑の広がるエリアに入っていて、声をかけてきたのは道路脇の畑で作業していたおじいさんだった。
しまった、人がいないと思って普通に沢村と話していた。もしかして俺は今これ以上ない不審者じゃないだろうか。
「ええまあ、そうです」
「これ、余ったから持っていきな」
にこにこと差し出されたのは採れたてと思われる二本の大根だった。ちなみに高山さんというのはうちのアパートの大家さんだ。
このあたりの住人たちには密接な横のつながりがあるらしく、引っ越し直後からこんな風によく声をかけられる。最初こそいちいち遠慮していたものの、さすがに慣れた。
立派な家庭菜園もちの隣人や大家さん本人からも米や野菜をよくもらうので、経済的にはかなり助かっている。なんたって大喰らいの扶養家族が一人いるもんだから。
礼を言って十分に離れてから、「だいこん!」と興奮気味の沢村に現物を渡してやる。今にも食いつきそうだ。せめて洗ってからにしろ。
「美味そう!」
「そうだな」
自分の腕より太い大根を抱え、沢村がふにゃりと笑う。貧乏神だとはとうてい思えない人懐こい笑みだ。
「……あのさ」
「うん?」
「さっきの話な、残念なとこやどうしようもないとこだってあるけど、俺、やっぱ人間が好きだ。こういう優しくてあったかいとこ。あと美味い!」
「日本語が間違ってるぞ。喰うな」
「へへっ」
うまくいかないもんだ、と小さくため息を吐く。
もしこいつが普通に見えて話せたなら、さっきの人や大家さんや隣人とすぐに仲良くなって孫のようにかわいがられるだろう。愛想の一つも言えない俺よりずっと。
なのに現実には視線さえ向けてもらえず、ただ傍観者でいるしかない。ずいぶん因果な仕事じゃないか?
そう思ったら、胸の中に居座っていたもやもやの理由が自分の中でようやく見えた気がした。たぶんこいつに会った初日からどこかで感じていたことだ。
「おまえ、根本的に向いてなくないか? 貧乏神」
「へ」
「それだけ人間が好きで人間の生活が好きなら辛いんじゃねぇの」
何の気なしに口にした俺の台詞に、沢村の足がピタリと止まった。それを見返した俺の足も止まった。一瞬、呼吸も。
――それくらい、痛そうな笑みがそこにあった。しまった、と後悔してもあとのまつりだ。
「だよな。うん」
「沢村、」
「……でも、それでも俺は貧乏神なんだ。向いてなくても、失敗ばっかりでも。これが俺の仕事だから」
八の字に下がったまゆがわかりやすく沢村の心境を伝えている。
そうだ、こいつは自分の仕事が好きで、人一倍誇りを持っている。傍目にはミスマッチで辛いだけに見えたとしても。
向いてないなんて一番の侮辱だろう。
言うんじゃなかった。
「悪ぃ。よけいなお世話だったな」
「んなことねぇよ。心配してくれたんだろ?」
「別にそういうわけじゃ」
「俺、頑張るから。絶対に御幸のこと幸せにしてみせる!」
握りこぶしでそう宣言し、大根を両脇に抱えてパタパタと駆けていった小さな背中をゆっくりと追いかけながら、それでも、と思う。
それでもやっぱり、向いている向いていないで言えば向いていない。どれだけ熱意と努力でカバーしたとしても。
(……それにしても、)
なんであいつはあんなに俺を善人だと思い込んでるんだ。いったいどこを見て?
性善説でどうにかなる仕事じゃないってのに、こんなに人が好くてこの先やっていけるのか。
いつか根性の捻じ曲がった誰がに手ひどく傷つけられる日が来るんじゃないか?
大丈夫なのかほんとに。

と、家に着くまでの間、俺が同居の貧乏神について延々と考え続けたこと。
それ自体を世間ではまさに『心配している』と言うんだと気づいたのは、もっとずっと後のことだった。