「休む」
「いやさっさと行けよ」
「……行きたくない」
「はいはい、わかったからほら、早く」
「沢村くんが冷てぇ……」
俺の肩にぐりぐりと額をすりつけながら、駄々っ子が恨みがましい声を上げる。
あと一時間足らずで日付が変わろうかという深夜、御幸の部屋の玄関で夜毎に繰り返される、これはもはや儀式というか恒例行事だ。

相変わらず多忙な御幸の研究室泊まりは今も続いていて、夕方帰ってきて飯と風呂をすませたらまたすぐに研究室に戻る。
そんな忙しいくせに、いつも俺のバイトが終わる頃にふらりと現れて夜道をここまで送ってくれる。いつもそうだし、今日もそう。
で、ごねるのはいつもこのタイミングだ。
中々家を出ようとしないこいつを、俺も最初こそ優しく送り出していたものの、さすがに毎日はつきあってらんねぇっつうか。
「明日の夜は好きなもん作ってやるから。な?」
「……行ってくる」
「おう、頑張って来い」
やっと顔を上げて綺麗にほほ笑んだこのイケメンは、実はうちの大学有数の有名人だったりする。
それもただのイケメンじゃない。大学の人気投票でV4を成し遂げ、そこらの道を普通のかっこうで普通に歩いてても気づけば人だかりができるという、ある意味周囲に大変迷惑なレベルのイケメン。
そんな奴が俺の、その、……こ、恋人? になってもう一週間が経つ。

あの追いかけっこの翌日、背中に冷や汗をかきながら大学に行ったら、通学路の途中から教室までは、視線という名の五寸釘を体中にガンガン打ち込まれるような苦行の道のりだった。
いや、五寸釘っつったら語弊があるか。別にその全部に恨みがこもってたり悪意を感じるわけじゃない、たぶん大半は好奇心だ。
けど、注目されることに慣れてない俺にとってはそれは非常に恐ろしい体験で、常時そんなのに晒されている御幸にうっかり同情を覚えちまったくらいだ。
…まあその後「沢村くん不足」なんてふざけた理由でわざわざ大教室まで来て、100人近い人間の目の前で抱きついてきたバカの前にはそんなんすぐに吹っ飛んだけどな?
御幸はそんな風に、俺との関係を周囲に隠す気はまったくないらしい。
「だって恋人だし」はもはやこいつの口癖だ。恋人イコール何でも許されるわけじゃねえんだって何回言っても聞きやしねえ、大問題だっつの。
「あ、戸締りちゃんと確認しろよ? 危ねぇから」
「わかってる!」
「ふふ、おやすみ」
良い夢を、なんて気障な台詞とともに落ちてきたキスは歯磨き粉のミントの香りがした。
ちなみに俺の方も同じ味がするはずで、それがいつまでたっても恥ずかしい。
御幸の足音が聞こえなくなってから玄関の鍵をかけた。あとは明日の弁当の下ごしらえをして、風呂に入って寝るだけだ。
しょうゆとごま油と塩コショウ、それに玉ねぎのすりおろしをビニール袋で混ぜて一口大のとり肉を揉みこむ。一晩漬けこんでおけば肉がいい感じに柔らかくなって、冷めてもおいしい唐揚げができる。
台所で慣れた作業を半ばオートでこなしながら、頭の中ではいつのまにか全然別のことを考えてた。

御幸とちゃんと恋人としてつきあいだして一週間。正確には8日と半日。
お互い忙しくてベッタリ一緒にいられるわけじゃないけど、うまくやれているほうだと思う。
あいつの飯を作って一緒に食って、たわいもない話をしながらバイト帰りの夜道を歩く。そんな今まで当たり前に思ってたことが嬉しくて、柄じゃねぇけどこっそり幸せを噛みしめてたりもするわけだ。
けど、そんなふわふわした気持ちとは別に、同じ日から俺の心の隅に居座り続けてる疑問が一つ、ある。
『先輩が言うような意味で、どうこうなりようが無えじゃん』
あの日俺がそう言ったときの、楠木先輩のまるで世界の終わりを見たかのようなムンク顔。
あの時は不思議でしょうがなかったけど、冷静に考えてみればあの顔はつまり、俺の言ったことにすげぇ驚いたからで。
てことは『男同士でどうこうできない』っていう俺の常識の方が間違ってる可能性があるってこと、だよな?
そこまで考えて、そこで止まってもう一週間。
気がつけばそのことばかりうだうだと考えちまってる自分がいて、でもやっぱいくら頭をひねったって俺には何をどうすればそうなんのか全っ然わかんねぇ。
だって無理だろ?
違うの?
「…よし」
決めた。モヤモヤはっきりしないのは苦手だ。
この際白黒はっきりつけてやろうじゃねぇか、明日。

◇◆

「…はい?」
「だからさ!」
翌日、三校時目が終わった教室のすみっこで、あたりに人影が無いのを確認してから机の影に春っちと一緒にしゃがみこんだ。
内緒話は慎重に。他人に聞かれたら俺はきっとその場で死ねる。
「男同士ってさ、その、……どうやんの? 最後までできんの?」
机の暗がりでもはっきりわかるくらいに春っちの穏やかな笑顔が凍りついた。
変なこと聞いて誠に申し訳ないとは思うものの、イエスかノーか答えを聞くまではこの掴んだ腕を離すつもりはない。
御幸に直接聞く度胸はさすがになかった。楠木先輩にってのも考えたけど、そしたらそのまま御幸に伝わってしまいそうな気がした。
としたら俺に縋れるのはこの目の前の博識な友人しかいない。正直最後の頼みの綱だ。
「………うん」
数十秒か数分か、やっと解凍された春っちが深く深く息を吐いて、俺を正面から見た。
その眼差しにデジャヴを覚える。優しい、でも微妙にかわいそうなものを見るような生温かい目。楠木先輩と同じじゃねぇか。
カエサルの気持ちが良くわかる。春っちよお前もか。
「できるよ。というかできるはずだよ」
「マジで!? どうやって?」
「ええと、それは」
「それは?」
「……そういう時こそネットで調べたらいいんじゃないかな」
「お? ……おおお!? その手があったか!」
何で思いつかなかった俺!何故だかどうしても誰かに聞かねぇと駄目な気がしてた。目から鱗だ。
「よし、やってみる!」
「ただし! くれぐれも人のいないとこでやるんだよ?間違っても図書館とかネカフェとか駄目だよ?」
叫んでも大丈夫なとこで!と春っちが念を押した意味を理解するのは、ダッシュで夕飯の買い物を済ませて、御幸んち でPCを開いて30分ほど経ってからだった。
正直叫ぶ気力もなかった。声にならない悲鳴を飲み込んだまま、フローリングの上をゴロゴロ端まで転がって壁に頭をぶつける。
……結論から言えば、「最後までできんの?」という疑問に対する答えは「イエス」でいいらしい。
「どうやって?」の方にも懇切丁寧に答えてくれる親切さがPCの向こうにはあった。
広い広いウェブの海から手繰り寄せた情報は正に俺が知りたかった、けどものすごく生々しい『やり方』で。人生二十年生きてきて最大のカルチャーショックだ。
……確かにできるってわかった。やり方も。でも。
「無理だろ!」
どう考えても無理。こればっかりは無理。今まで思ってたのとは別次元で無理、だ。
だってこんな、記憶にある限り人に見せたことなんかねぇ場所を、よりによってあいつに見られるとか! 恥ずかしすぎるし、サイズ的に入んねえだろそもそも。
絶対痛ぇし、間違いなく痛ぇし。てか想像しただけで気絶しそうなんだけど!
「……うう」
あの日の先輩のムンク顔をもう一度思い出して、あらためて深い深い穴を掘って自らを突き落としたくなった。消したい。心の底からあの部分の記憶を削除してやりたい。
でも! 普通に人生送ってたら知ることの無い知識なんじゃねえの? みんながみんな知ってるほうがおかしいだろ絶対。
ボフ、と近くに転がってたクッションを抱えて顔を埋める。頭ん中でさっき見た画像がぐるぐる回ってどうしても出ていってくれない。どうすりゃいいんだ。

…あの時、バイトからの帰り道で御幸は「多分そんなに待てねえし」って言ってた。
てことは、御幸はしたいんだよな? あの日だって本当はそう思ってて、でも俺が何も知らねぇって聞いて困ってた?
だから俺がここに帰るって言ったときにあんな顔。
思い出したらチクチクと胸が痛んだ。もう逃げねぇって決めたのに、これってまた逃げてることになんのかな。
俺、また御幸に無理させてんの?
そんなの、
「ただいまー」
突然聞こえてきたのんびりした声に、リアルに心臓が止まるかと思った。
壁に向かってぐるぐる考えて過ぎてドアの開いた音にも気がつかなかったらしい。
「み、ゆき、」
「……なんでそんなに驚いてんの?」
「いや、は、早ぇなって」
「うん、キリのいいとこで切り上げて来たから。で、なんでそんなとこに転がってんの」
笑いながら壁際に寝そべった俺の手を引っ張って、起き上がった勢いでそのまますっぽり俺を腕の中に閉じ込める。
ねだるように鼻をすり寄せながらの二回目の「ただいま」に、忘れていた「おかえり」と一緒に軽く唇を押しつけた。
嬉しそうに綻ぶ笑顔が眩しすぎて肩に顔を伏せたら、微かに立ち昇るいつもの香りに胸がキュッとした。
御幸のことは好きだ。ちゃんと御幸と同じ気持ちで好きだ、と思う。
けど、抱き合って触って、体温や匂いを直に感じて、キスして。それだけで俺的にはもう満タンっていうか、むしろそれだけでいっぱいいっぱいで、ついてくのがやっとで。
……こいつはやっぱり違うのかな。
今だって足りねえ、って感じてんの?
「御幸」
「んー?」
「……わかった」
「なにが?」
「あれだよ、あれ」
「あれ?何?」
ええい、あれといったらあれだ、気づけバカ!
「やりかた! 男同士の!」
口に出してみたらすげえ即物的っつうか身も蓋もなかった。一瞬目を丸くした御幸が、俺を見て、床の真ん中に置いたPCを見て、また俺を見る。いたたまれねぇ。
「……自分で調べた?」
「だって! 楠木先輩すげぇ意味深なこと言うし、あんたの態度も変だったし……春っちに聞いてみたらネットで調べた方が早いっていうから、」
「で、わかったんだ?」
「……おう」
「そっか」
よしよし、と頭を撫でてくる手は小さい子を褒めるみたいで、普段なら「子ども扱いすんな」って怒るとこだけど今はなんかホッとした。
「……あのさ、御幸も俺としてぇの? ああいうこと」
「そりゃね。男だし」
「そ、ソウデスカ」
「なんで敬語?」
微かに伝わってくる忍び笑いの振動がくすぐったくて、けど頭の中は実はそれどころじゃなかった。
(……だよなあ)
御幸は最初っからどんなことするか知ってたわけだし。
きっとずっと我慢させてたんだって思ったら罪悪感がじわじわとこみ上げて来た。ヤバい、ちょっと泣きそうだ。
……けど。
けどさ、御幸。俺。

結局何も言えずに、ただ背中に回した手に力をこめる。情けねぇけどそれが限界で。
耳元で聞こえた小さなため息。自然に強張った俺の体をほぐすように、つむじからこめかみ、額へと、ツンツンとつつくようなキスが降りてくる。小鳥の悪戯みたいな、からかうような。
「……御幸?」
「あのな。俺は確かに沢村くんを抱きたいけど、だからって俺に悪いからなんて理由でOKすんなよ」
「え、」
「沢村くんも同じ気持ちじゃないんなら、あんな行為意味がねぇの。俺が欲しいのは体だけじゃない、沢村くん全部丸ごとだし」
わかった? と首を傾げる御幸の甘い眼差しに、勝手に頭や顔に血が上ってっちまうのがわかった。
こんな気障な台詞が違和感なく似合っちまうのイケメンの怖いところだ。
……なあ、なんでわかった? 俺がまだ覚悟できてねぇのも怖気づいてんのも、ちょっぴり御幸に悪いって思ってんのも。
なんでこいつには全部わかっちまうんだろう。
「待ってる」
「……ん」
「だけじゃ面白くねぇから、その気にさせる努力はさせてもらうけど」
「は? ……っふ、んっ」
意味を聞き返すひまもなく、するりと自然な動きで滑り込んできた舌が上顎の裏をくすぐり、息を吐く間も惜しむように舌の根元をなぞる。
掻き混ぜられて平衡感覚がなくなって、脳髄や背骨や、体の真ん中からドロドロと溶けていく感覚。
体の中から直に鼓膜に響く水音が卑猥すぎて、両手で耳を塞ぎたくなる。そんなことしたって意味無ぇんだってわかってても。
……エロ過ぎだろ! 死ぬ!
「覚悟しとけよ?」
やっと離れてった濡れた唇がニヤリと弧を描き、いつまでたっても見慣れることのできない綺麗な笑みを形作る。
その半端ねぇ色気に、俺はただ口をパクパクさせることしかできなかった。


……いろいろ早まったかも、しんない。