ことの起こりは給料日まであと一週間に迫った金曜日だった。
沢村と二人で暮らし始めて何が一番不便だったかといえば、俺以外には姿が見えないという貧乏神の性質だった。つまり買い物をはじめ集金や各種手続き等、人に会う必要のある用事は一人ではできないということだ。
給料は半減したのに人口は二倍、いや食費的には三倍になった家計をやりくりするには、今までのように外食や出来合いのものばかりで済ませるわけにはいかない。
かといって平日の仕事帰りに買い物によれば、必然的に帰宅が遅くなる。この不器用な大食漢が空腹のあまり自分で包丁を握る可能性を考えればそれだけは避けたい。
そこで苦肉の策として利用することにしたのが、スーパーの宅配だった。午前中にネットで商品を注文すれば午後にはまとめて届けてくれるという便利なサービスだ。
もちろん沢村は受け取りには出られないが、事前に頼んでおけばドアの前に専用の鍵付き保冷ボックスを設置してそこに入れておいてくれるという痒いところに手が届く仕様で、先週のお試し一回目は何の問題もなくスムーズだった。
「俺も自分で買い物してみたい!」
と興奮ぎみの沢村にじり寄られたのは今朝のこと。
やる気満々の意気込んだ顏にいささかの不安は感じたものの、ネット注文ではどんなに不器用でも問題の起こしようがないはずだ。
……そう判断して後は任せて出勤したのがどうやら間違いだった、らしい。
「……おか、えり」
「……ただいま?」
朝の鼻息の荒さが嘘のように、夜に帰宅した俺を迎えた沢村はどう見ても態度がおかしかった。いつもはすぐ「腹減ったぁ!」とまとわりついてくるのに、今日はこそこそとふすまの裏から出てこない。
こっちの視線をひたすら避け、近づけば逃げ、首根っこをとっ捕まえて顔をのぞきこめば浮かぶのはひきつった笑みとたらたらと額を伝う汗。
まるで「隠し事、それも言えば怒られるようなことがあります」と宣言しているようなもんだ。
「こら。なにしやがった」
「え、えっと、あのですね、……じつは、その」
観念したように沢村が顔を上げたその時、玄関のチャイムが鳴った。
結局棚上げになった謎は、その来訪者――現在お試し中のスーパーの社員によって解けた。
本サービス加入の勧誘、ならびにお試し期間中の買い物代金の請求に来たという男から渡された請求書には、俺の想像の10倍の金額が書き込まれていた。
唖然として沢村を振り返れば、目が合ったとたん首をすくめてびゃっとふすまの影に隠れやがった。つまりこの請求は間違いというわけじゃないらしい。
明細を確認してみれば、その請求額の9割は今日の午前中の注文によるものだった。
ずらりと並んだのは駄菓子から全国のお取り寄せ銘菓まで、見事なほどに菓子、菓子、菓子だ。
「これ、返品はできないんですか?」
「はあ、すべて食品になりますので不良品以外の交換返品はご遠慮いただいております」
「……ですよね」
どうしようもないのでとりあえず代金を支払い、本契約は保留にしてお帰りいただく。
ドアが完全に閉じてからゆっくりと振り返れば、畳の上に、頭を地に埋める勢いで土下座をしている諸悪の根源がいた。
「大変申し訳ございませんでしたぁぁぁ!」
「おまえ謝っちゃいけないんじゃなかったか?」
「仕事のことじゃそうだけど、これは仕事じゃねぇし。俺の食い意地のせいだし」
食い意地がはってる自覚はあったらしい。驚きだ。
正面に胡坐をかいてため息をつけば、伏せたままの背中がびくりと揺れる。けど、今のはどちらかといえば自分自身に向けたものだ。
甘かった。大喰らいであると同時に食べること自体が大好きなこいつにとって、画面の向こうに広がるスーパーの商品一覧は宝の山だ。きっと深く考えずに食べたいものをどんどんカートに入れていった結果だろう。
「で、その菓子の山はどうした」
「……そこの押し入れに」
「全部?」
「うん」
ちょっと意外だった。大量の菓子を前にしてこいつが我慢できるとは。
その自制心を清算ボタンを押す前になぜ発揮しなかった。
「御幸…? 怒ってる、よな?」
「怒ってないと思うか?」
「ほんとごめん!最初は一個くらいならいいかなって思って、そしたら次のやつもその次のやつも美味そうで、カゴに入れて後で選ぼうと思ったら」
「思ったら?」
「気がついたら清算ボタンってのを押してて……」
予想通りの筋書きに少し笑いかけ、慌てて表情を引き締める。それがさらに怒ったように見えたのか、沢村がふにゃっと泣きそうに顔をゆがめて、勢いよく立ち上がった。
「……俺! 金稼いでくる!」
そのまま玄関にダッシュしようとした貧乏神の首根っこをもう一度捕まえる。我ながらこいつの取り扱いに慣れてきた気がするのがちょっと嫌だ。
「待て。なにをどうやって稼ぐつもりだ」
「か、体で!」
…………。
なんだかもう色々投げ出したくなった俺を誰が責められるだろう。
「どこで覚えたそんな台詞」
「昨日昼のドラマでやってた!繁華街の道端に立ってたらあっちから『三万でどうだ』とか声かけてくんだろ? 三万あったらしばらく大丈夫だよな?」
「三万でなにされるかわかってんの?」
「わかんねぇけど、なんか仕事をするんだよな? 俺、がんばるし!」
「……。ま、それについてはおいおい話すとして。そもそも誰に声をかけられる気だよ、おまえは俺にしか見えないんだろ?」
「あ」
バカすぎる。知ってたつもりだったけど、それを遥かに上回るバカだった。
こっちの怒る気力さえ根こそぎ奪っていくあたり、もはやこれは武器の一つじゃないだろうか。
再びぺたりと座りこんだ沢村の前で、財布を逆さまにして小銭の山を作る。
先ほどの集金により紙幣はきれいに駆逐され、今現在の残高は総額三桁だ。三万じゃない、三桁。正確には七百六十八円也。
「これが今のうちの全財産だ。そして給料日は一週間後」
「う、うん」
「引っ越し経費が来月落ちるから、今月はもうカードは使えない。つまりあと一週間、今家にある食材と七百六十八円で生きていかなきゃならないってことだ」
「わかった。押入れのお菓子は全部御幸にやる」
「いらねぇよ。とにかく、おまえは今日からご飯のおかわり禁止な」
この危機的状況がわかってんだかわかってないんだか、一瞬世にも悲痛な顔をした沢村はそれでもコクコクと頷いた。
ここで不満を言おうものならさすがに拳骨の一つもくれてやるところだ。
「俺、……がんばる!」
「いや、がんばらなくていい何もするな」
「まかせとけ!」
「人の話を聞け!」
今度は台所に走っていきかけた沢村の首根っこを三たびつかまえたら、息をするように自然にため息がこぼれた。疲れる。
この夜のメニューは白菜大増量の雑炊だった。



三日後、さらに事態は悪化した。このタイミングでストーブの灯油が切れるとか、これも貧乏神の波及効果なんだろうか。
もちろんエアコンなどついてないし、他に暖房器具もない。出来る限りの厚着をしてベジタリアン的な食卓にむかいながら、はっきりとわかるほどに自分の心がすさんでいくのを感じた。
生まれてこのかた、こんなに貧乏を実感したことはない。人間は寒さとひもじさで駄目になるんだってことがよくわかる。
止めを刺すように、この日の夕方からこの冬一番の寒気が上空を覆った。
室内でさえ凍りつきそうな空気の中、早々に布団に潜り込んだものの、自分の体温だけでは全く温まってこない。
鬱々とした気分でふとちゃぶ台の横に布団を敷いている沢村に目をやれば、部屋の気温が違うんじゃないかと思うくらいリラックスしてのびのびと手足を伸ばし、のん気な顔で眠そうに目をこすっている。今にもまぶたがくっつきそうだ。
……。
ふつふつと湧いてきたこのイライラをどうしてくれよう。
「沢村、ちょっと来い」
「へ? なに?」
無警戒にひょこひょこと寄ってきた細っこい体をがっちりと捕獲した。「え、え?」とうろたえるのにかまわず、そのまま布団の中に引きずり込む。
抱え込んで背中側からがっちりホールドしたら、ようやく状況が呑み込めたらしい沢村がジタバタと暴れはじめた。もう遅い。
「なにすんだよ!」
「うるさい黙れ、おまえは今から湯たんぽだ」
「はぁ? なんで俺が」
「あぁ? 寒ぃからに決まってんだろ? 誰かのせいで灯油も買えねぇし?」
「そ、そりゃ確かに俺のせいだけど!」
「俺は冷え症なんだよ、ほら!」
「ぎゃー!」
ふくらはぎに感覚のないつま先を押しつけてやると、断末魔みたいな悲鳴が上がった。ざまみろ。
それにしてもこいつ、なんでこんなに体温が高いんだろうか。ふくらはぎだけじゃなく全身が、思った以上にポカポカと温かい。幼児か。
子供みたいといえば、体型もだ。背中側から抱きかかえた体は思っていたより薄くて小さい。この変な服でいくぶん体型がごまかされていたらしい。
しばらくブツブツ言いながらもぞもぞと身動ぎしていた沢村は、眠気には勝てなかったのか、ほどなくしてくたりと全身の力が抜けたかと思うと、すぐに規則正しい寝息が聞こえてきた。こういうところも子供だ、子供。中身はじじいだけど。
「……何してんだ、俺は」
寒さが少し落ち着いてから我に返ると心の底からそう思ったが、それでも沢村を離すという選択肢は無かった。だって本当にちょうどいい体温だったから。
ぴったりくっついた背中と腹を通して規則正しい鼓動が伝わってくる。人間となんら変わりのない体。体温。
なのにこいつはれっきとした貧乏神で、俺を貧乏にした張本人で、そのくせ俺を幸せにしに来たなんて豪語していて。
わけがわからない。こいつに会った日から、俺の人生は90度ばかり転回したまま元に戻れないでいる。

すっかり習慣になってしまったため息をついて、小さく身じろぎする。部屋を薄ぼんやりと明るくしているのはどうやら月明かりらしい。
天井の木目のつながりをなんとなく目で辿っているうちに、また一つ気づかなくていいことに気づいてしまった。
今回の沢村の『はじめてのかいもの』は大失敗に終わったわけだが、俺はなぜだかこいつを一度も追い出そうとは思わなかった。
もちろん契約が終了しない限りは離れられないというのもあるが、一時的にでも追い出すという選択肢すらそもそも浮かんではこなかった。
それは不本意ながら、俺はこの毛色の変わった貧乏神との生活になじんできているということなんだろう。本当に不本意ながら。
(……眠ぃ)
明日の朝食は何にしよう。晩の残りの白菜と油揚げのみそ汁と白米、それと漬物。もうそれでいいか。
沢村が聞いたら大反対しそうなメニューを考えながら、どこか懐かしい心音と柔らかな温かさに誘われて、俺の意識もいつしか眠りに引き込まれていった。

その夜はなんの夢も見なかった。